1人の『尊厳』を守るために、10人の『安全』を犠牲にする世界
現行の介護福祉士やケアマネージャーの試験のなかにも「個別ケア」という言葉が出てくる。
個別ケアの特徴
一言でいえば「施設のルールに人を合わせる」のではなく「その人の生活リズムにケアを合わせる」ことです。
暮らしの継続: 施設に入っても、それまでの家での習慣(晩酌、遅寝遅起きなど)をできるだけ変えない。
尊厳の保持: 「利用者」という一括りではなく、一人の「人間」としての名前や歴史、こだわりを尊重する。
自律の尊重: 本人が「どうしたいか」という意思決定を最優先にサポートする。
現場でできることの限界
理想は高いですが、今の介護現場にはどうしても超えられない「壁」があります。
人手と時間の圧倒的不足: 「一人ひとりのペースに合わせたい」と思っても、次々にナースコールが鳴り、定時の業務(食事・排泄)に追われると、効率を優先せざるを得ない。
安全確保とのジレンマ: 本人の「自由に歩きたい」という希望と、転倒リスクや「事故を起こしてはいけない」という施設側の責任問題がぶつかり、制限(見守りという名の拘束など)が生じやすい。
集団生活のルール: 多床室(相部屋)などの構造上、他の利用者との兼ね合いで「その人だけのワガママ」と捉えられてしまう境界線が難しい。
理想だよね。
めっちゃ理想。
そんなんやりたいし、わたしが高齢者になったときやってもらいたい。
でも現状は難しい。
なんでだと思う!?
「やってほしいケア」(利用者目線)
「やりたいケア」(介護者目線)
「やるべきだろうケア」(第三者目線)
正直多い。
期待が重い。
その次に、端的に人員の不足がある。
個別ケアする暇があるなら、全員分のパット交換終わらせてこいとか。
そういうレベルのやつ。
パット交換なんて、顔じゃなくて尻しか見てない。
臭いを放つ重いパットが、おむつカートに増えるたび、介護はただの作業になっていく。
いつかは終わる、こなさなきゃいけない、作業。
顔を見る暇も、冗談を言うゆとりもなく、時間に追われるだけのタイムアタックだ。
丁寧さより速さが問われる。
そうじゃないと次の業務に差し障りが出るからだ。
たとえばだけど。
どのくらいの施設が個別の利用者とドライブや外出などの余暇を、業務として提供できるのだろうか?
たまに考えて虚しくなる。
余暇の提供も個別ケアだ。
個人に寄り添った外出ができたら……
そりゃ素敵だよね。
おでかけしたら利用者ひとりに、職員がひとり。
施設でお留守番しているのは利用者が10人、職員が2人。
なんかずるくない?
なんか、違う気がする。
ほかの10人を蔑ろにして成立するのが個別ケア?
利用者の尊厳を守るってことは、誰かを犠牲にしないと成り立たないこと?
混乱するんだ。
わたしたちは「個別ケア」という言葉を、ずっと刷り込まれて生きている。
「個別ケア」はやって然るべき。
まぁ、そうな。
でもできるん?
知らんがな(真顔)
人が足らん時間が足らん熱意が足らん物資が足らん設備が足らん制度が足らん資金が足らん
いろんな足らんのなかで、それでも利用者を理解したくて少しずつ、距離を詰める。
多分概念としての「個別ケア 」ってこんなんじゃないよなって思いながら日々の介護をしている。
わたしたちがやってるのは「命を守るケアだ」
これは自信ある。
でもさ、利用者の心や意思決定権や、「やらない自由」をわたしたちは大切にできている?
「権利を守るケア」なんかできていない。
現状、「権利を奪うケア」でしかないよねって、同僚と嗤う。
「俺らの人権だって奪われてるのに、利用者の権利なんか守れるか」と吐き捨てる後輩にかける言葉もなくて、口をつぐんだ。
わたしは笑ってくれる利用者が大好きだ。
どうにか笑かそうと目を合わせてなんかやってみるけれど、そういうことじゃないんだよね。
わたしがやってるのは小手先ばかり。
本日から利用者を理解する暇とかゆとりとか時間とか知識とか、そういうの、欲しいなぁ。
介護福祉士なのに、「介護」しかさせてもらえなくて苦しい。
わたし「介護福祉士」なの
介護だけじゃないの。
ほんとは福祉も担ってるの。
利用者のこと知りたいし、関わりたいし、一緒に笑いたい。
でも生きてたらいいから、そんな難しいこと介護に考えさせなくえいいんだって。
介護ってさ、なんだろうね?
こんな苦しい世界でも、まだ誰かを笑顔にしたくて諦めきれない。
バカだよね。
諦めたらいいのにって自分でも思うけど、ここまで来たら死なば諸共だよなぁ。しょうがない。みんなで滅びよ。みんなでいけば怖くないよ。多分……
怒ることさえやめたら、ほんとに諦めた世界になるのが、怖いんだ。
ずっと介護の世界のために怒っている
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