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亀井茲監と福羽美静―現代日本の宮中祭祀と宗教風景の礎石となった津和野の人たち

亀井茲監(かめい これみ、1825〜1885)・福羽美静(ふくば よししず、1831〜1907)。
神祇官の中枢を担い、現代の宮中祭祀の原型を形作った津和野の二人。彼らは何を残し、なぜ津和野でさえ語られなくなったのか。
津和野歴史再発見シリーズ第3弾。


一 父から聞いた話

 父からこんな話を聞いたことがある。津和野の殿様は、長州の軍勢を通したから城下が助かった、と。子ども心に、賢い殿様だと思った。
 その殿様の名が、亀井茲監(かめい これみ)である。幕末・津和野藩の最後の藩主として、教育に力を入れたことで地元では知られている。しかし父の語る茲監像はそこで終わっていた。彼が育てた人物が、現代日本人の宗教的風景の核心部分を形作ったことは、父も語っていなかった。私も長らく知らなかった。
 もう一人の主人公、福羽美静(ふくば よししず)の名は、父の口から一度も出なかった。津和野の偉人として語られることもほとんどない。しかし福羽こそ、今日の宮中祭祀の礎を実務として築いた人物である。
 この非対称——実績に比して、亀井、福羽は余り語られなくなっている——が、この論考の問いの入口である。

二 問い——なぜ二人は忘れられたのか

 津和野が生んだ偉人として、今日広く知られているのは森鴎外と西周である。文豪と哲学者。近代日本の知的風景を代表する二人として、観光案内にも郷土史にも頻繁に登場する。
 対して亀井茲監・福羽美静の知名度は、津和野の中ですら低い。しかし歴史的な影響の大きさで言えば、二人は決して引けを取らない。宮中三殿——賢所・皇霊殿・神殿——という現代の宮中祭祀の枠組みは、福羽が神祇官で主導的に整えたものであり、今日も宮内庁掌典職によって継承されている。
 なぜ忘れられたのか。この問いを考えるには、まず二人が何をした人なのかを整理する必要がある。

三 亀井茲監という土台

 亀井茲監(1825〜1885)は、津和野藩第十三代(最後の)藩主である。文政八年(1825)十月、江戸の久留米藩三田藩邸に生まれ、天保十年(1839)四月に津和野藩主となった。岩谷建三『津和野の誇る人びと』が記すように、学問は幕府の儒臣林家について儒学を修め、数学・天文・暦法にも通じ、武術は弓・馬・槍・剣・各々を修め、文武を兼ね備えた名君との評が高かった。(注1)
 茲監の政治的嗅覚という点で、まず父の語った話に戻りたい。慶応二年(1866年)の四境戦争(第二次長州征伐)で、幕府軍は長州藩を四方から攻めた。同書によれば、津和野藩は長州軍が領内を通過する際に実質的に黙認し、正面衝突を避けた。城下は戦火を免れ、その現実的な判断が藩を守った。父が子ども心に「賢い殿様」と感じたのは、この話である。(注2)
 しかし茲監の真の貢献は、政治的判断よりも教育にある。松島弘『藩校養老館』が詳述するように、茲監は藩校養老館を改革し、国学を「本学」と位置づけた。嘉永元年(1848年)から翌二年にかけて養老館の教学改革を行い、従来の漢学中心から国学・蘭医科を加えた多角的な教育体制を整えた。(注3)
 そして大国隆正(おおくに たかまさ)を招いた。大国は近世国学の泰斗であり、その門下から福羽美静・門脇重綾らが育った。茲監は人を育てる土台を作った藩主であり、神祇官での実務は弟子たちが担うことになる。
 明治維新後、茲監自身も神祇事務局副知事に就任している。岩谷建三の記述によれば、明治元年の即位新式取調御用を命じられた面々の中に茲監の名もあり、津和野本学の精神が新政府の儀式の形を整えることに直接関与した。(注4)
 この藩主の先見が、福羽美静という思想を現実化する実務家を生んだ。

四 福羽美静と神祇官の仕事

 福羽美静(1831〜1907)は、天保二年(1831)七月、当時は津和野藩領であった横田村(現益田市)に生まれた。通称を文三郎と言い、幼時に体を損じながらも学問への志を失わず、藩校養老館で国学を修めた。嘉永六年(1853)、藩命で京都へ赴いて大国隆正の塾に入門し、京都・江戸での遊学を経て帰藩した。岩谷建三の記述によれば、福羽は「いつも椅子に立ち上がって藩主茲監の懐刀として幕末危急の時を切り抜け、維新後は新政府の下で活躍した偉丈夫」であった。(注5)
 明治元年(1868年)の王政復古後、政府は「祭政一致」を掲げて神祇官を再興し、太政官と並ぶ国家の最高機関として位置づけた。この神祇官の中枢を担ったのが、福羽を中心とする津和野学派(以下「津和野派」)と、平田篤胤の直系である平田派の二つの潮流である。
 平田派は古代律令制の完全復活を理想とし、全国規模の神権国家・大規模国民教化を主張した。対して津和野派は、天皇親祭を軸とした宮中中心の現実的な祭政一致を優先した。阪本是丸『明治維新と国学者』および阪本健一『天皇と明治維新』(増補改訂版)が論じるように、この対立は明治三〜四年に決着する。平田派の主力が神祇官から放逐され、津和野派が主導権を掌握したのである。(注6)
 福羽の神祇官での仕事は具体的である。岩谷建三の記述によれば、明治元年八月二十七日、津和野本学の精神に基づいて制定された即位式が京都・紫宸殿において挙行された。福羽・茲監らは即位新式取調御用を命じられた一人としてこの制定に関与し、天皇への古事記進講も行った。(注7)
 さらに福羽は仮神殿(八神殿)の造営を推進し、八神・天神地祇・歴代皇霊の祭祀を確立した。「大祀ノ節皇后御拝ノ儀伺」を建白し、それまで祭祀への直接関与がなかった皇后が宮中祭祀に列する形を制度化した。明治八年(1875年)には元老院議官兼二等侍講となり、天皇に御進講申し上げる役についた。その後も式部頭・掌典長として晩年まで宮中に関わり続けた。(注8)
 福羽はまた、神仏分離政策の推進においても中心的な役割を果たした。神仏分離令自体は明治元年三月の太政官通達が最初だが、神社側の執行を神祇官が主導し、その実務を担った。神社から本地垂迹・仏像・社僧などが排除されたことで、現代の私たちが自明と感じている「神社と寺は別のもの」という風景が、この時期を起点として形作られた。
 明治四年(1871年)、神祇官は神祇省へ降格する。翌五年には廃止され、祭祀業務は宮内省式部寮へ移管された。しかし福羽はここで退場しない。宮内省でも式部頭・掌典長として晩年まで職務を続け、宮中祭祀の枠組みを繋ぎ続けた。神祇官という制度は短命に終わったが、福羽という人の連続性によって、その遺産を現代へ届けた。

五 現代に残った遺産

 神祇官はわずか四年足らずで解体された。しかしその遺産は、三つの形で現代まで続いている。
 第一に、宮中祭祀である。毎年十一月、天皇陛下が一夜をかけて新穀を神々に供え、自らも召し上がる新嘗祭。テレビのニュースで目にしたことのある人も多いだろう。令和元年(2019年)の即位礼でも、天皇が神々に奉告するという儀式の根幹は変わらなかった。その形を整えたのが、福羽美静である。元始祭・祈年祭・新嘗祭など年間約二十件の宮中祭儀は、神祇官時代に福羽が定めた祭典の原型を受け継ぎ、現在も宮内庁掌典職が執行している。古来の祭祀を現代国家の枠組みに収まる形に整え、今日まで受け継がれる基盤を作った——それが福羽の仕事だった。(注9)
 第二に、神社行政の基礎である。「神社は国家の宗祀」と位置づける布告(明治四年)、神職世襲の廃止と官選化、官幣社・国幣社という社格制度の基礎整備——これらは津和野派が神祇官時代に主導した。後年の大規模な神社合祀(明治末〜大正期)や、現在の神社本庁の枠組みも、この時期に敷かれた基礎の延長線上にある。
 第三に、神社と寺院の分離という現代の宗教的風景である。現代の日本人が当たり前に感じている「神社は神道、寺は仏教」という今日の宗教的風景は、神祇官時代の神仏分離政策を起点として形作られた。千年以上続いた神仏習合の解体が、この短い期間に起きた。

六 小藩のニッチ戦略——独自の視点として

 以下は私見である。先行研究に依拠した記述とは性格が異なることをあらかじめ断っておく。
 なぜ津和野派は、これほど大きな遺産を残せたのか。そしてなぜ、残した当人たちは忘れられたのか。私はここに、小藩の行動原理というものを見る。
 津和野藩は石高四万三千石の小藩である。軍事力で時代を動かすことはできない。四境戦争での亀井茲監の「長州通過黙認」は、小藩が生き延びるための現実的判断の典型だった。大勢に逆らわず、かといって完全に服従せず、情報収集に努めて時勢を見極め、城下と人を守る。その知恵は教育にも向かった。軍事力の代わりに、学識で藩の存在価値を示す。養老館改革と大国隆正招聘は、この文脈で理解できる。
 神祇官における津和野派の振る舞いも、同じ論理の延長ではないか。平田派が「古代神祇官特立」という壮大な理想に固執したのに対し、福羽らは天皇親祭・宮中限定という、より小さく、しかし核心的な目標に絞った。全国規模の宣教という「大きな戦場」では争わず、宮中という「守りやすい要塞」に戦力を集中した。力量に見合わない高望みをせず、強みである学識をニッチな領域で発揮した結果、最も長持ちする遺産が生まれた。
 その対価が知名度の低さである。平田派は「復古神道の殉教者」として、ある種のロマンを纏って語られる。しかし「現実的に機能するものを作った人々」は、派手な語り口を持たない。神祇官廃止という一見「敗北」に見える結末も、津和野派にとっては自ら推進した選択だった。宮中に仕事を移し、神祇官という器より人の連続性で遺産を繋ぐ——この地味な戦略が、かえって記憶を薄くした。
 もちろんこれは推論である。福羽の内面に迫る一次史料は乏しく、彼が「小藩の論理」を自覚していたかは確認できない。思想的必然というより実務的個性によるのかもしれない。しかしその像自体が——「思想が見えにくい実務家」という像が——この推論と整合的ではある。問いとして開いておきたい。

七 忘却の構造と再評価へ

 なぜ忘れられたか。神祇官の短命さ(明治二〜四年)が主因である。大正・昭和初期の時点ですでに記憶は薄れていた。戦後の「国家神道悪玉論」は、その忘却をさらに強化した要因と考えられる。
 森鴎外・西周が評価され、茲監・福羽・大国隆正が忘れられた理由には、もう一つの構造がある。文豪と哲学者は「観光文脈」に乗りやすい。しかし神祇行政の実務家は乗りにくい。
 しかし仕事は残った。毎年行われる宮中祭儀、神社と寺が分離した現代の風景、神社行政の基礎——これらはすべて、津和野の小藩が送り出した二人の仕事の痕跡である。
 父が語った「賢い殿様」亀井茲監は、福羽美静という実務家を育てた。福羽は神祇官で宮中祭祀の原型を作り、神祇官が廃止された後も遺産を繋いだ。
 忘却にはもう一つの構造がある。制度が安定し儀礼として定着するほど、それを整えた人物の痕跡は制度の背後に溶けていく。福羽美静の名が消えたのは、彼の仕事が失敗したからではなく、あまりにもうまく制度に溶け込んだからかもしれない。
 忘れられても、仕事は続いていた。
 津和野派の「勝利」は何をもたらしたのか。宮中祭祀という制度的遺産は確認した。しかしより大きな問いがある。神仏分離と津和野派の現実路線は、近代的な政教関係の形成とどう関わるのか。次篇では、この問いをマックス・ヴェーバーの世俗化論を参照軸として展開したい。

津和野歴史再発見シリーズ
シリーズ第2弾『千姫事件「広まらなかった忠臣蔵」』、第1弾『伊能図はなぜ可能だったのか——堀田仁助・和算・天文方というミッシングリンク』もぜひ併せてご覧ください。

巻末注
注1 岩谷建三『津和野の誇る人びと』(津和野ものがたり第2巻、津和野町教育委員会、1969年、第13版2001年)p.3。亀井茲監の人物・学問・武術についての記述による。
注2 岩谷建三、前掲書、p.6〜7。四境戦争(第二次長州征伐)における津和野藩の対応について。長州軍の領内通過を黙認し城下への入城を阻止した経緯が詳述されている。
注3 松島弘『藩校養老館——哲学者西周・文豪森鴎外を生んだ藩校』(津和野歴史シリーズ刊行会、2000年)p.19〜25。亀井茲監による養老館改革・人材登用策の詳細。
注4 岩谷建三、前掲書、p.8〜9。明治元年の神祇事務局設置と亀井茲監の副知事就任、即位新式取調御用への関与について。
注5 岩谷建三、前掲書、p.10〜11。福羽美静の生い立ちと人物像についての記述。
注6 阪本是丸『明治維新と国学者』(大明堂、1993年)および阪本健一『天皇と明治維新』(増補改訂版、皇學館大學出版部、2000年)p.229〜235。津和野派国学者の活躍と平田派との対立・決着についての論述。
注7 岩谷建三、前掲書、p.91。明治元年八月二十七日の即位式が津和野本学の精神に基づいて制定・挙行された経緯。福羽美静・亀井茲監らが即位新式取調御用を命じられた一人として関与したことが記されている。
注8 岩谷建三、前掲書、p.16〜17。福羽美静の明治期における役職(元老院議官・二等侍講・神祇大輔・式部頭・掌典長など)の経歴一覧。
注9 宮中三殿とは、皇居内に置かれた賢所(天照大神を祀る)・皇霊殿(歴代天皇・皇族の霊を祀る)・神殿(天神地祇を祀る)の三殿を指す。神祇官時代に福羽が整えた仮神殿の祭神構成と配置が、明治二十一年(1888年)完成の現在の宮中三殿にそのまま引き継がれた。宮内庁掌典職が現在も祭儀を執行している。

参考文献
【一次的郷土史資料】
岩谷建三『津和野の誇る人びと』(津和野ものがたり第2巻)津和野町教育委員会、1969年(第13版2001年)
松島弘『藩校養老館——哲学者西周・文豪森鴎外を生んだ藩校』津和野歴史シリーズ刊行会、2000年
【研究書・論文】
阪本是丸『明治維新と国学者』大明堂、1993年
阪本健一『天皇と明治維新』(増補改訂版)皇學館大學出版部、2000年
山岡浩二『明治の津和野人たち』堀之内出版、2018年
中村聡「大国隆正と福羽美静の国学」『近代の神道と社会』弘文堂、2020年
三ツ松誠「平田神学の遺産」『宗教研究』92巻2号、2018年(J-STAGE公開)


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