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吉見正頼は「ただより」か?「まさより」か?気になって調べてみた


きっかけ

 津和野にゆかりのある人間として、吉見正頼はなじみ深い人物だ。
三本松城(現・津和野城)を本拠とし、大内氏・毛利氏に仕えた石見の戦国武将。地元では、誰もが「よしみ まさより」と呼んできた。
 ところが、ある日、Wikipediaを見て目を疑った。
 「吉見 正頼(よしみ ただより/まさより)」
 「ただより」?津和野で生まれ育って、そんな読み方を聞いたことがない。どこから来た説なのか、新しい知識にアップデートする必要があるのか、気になって調べてみた。

Wikipediaの編集履歴を確認する

 まず、いつからこの表記になったのかを調べた。Wikipediaのすべてのページの編集履歴が公開されている。
 確認すると、「ただより/まさより」という併記が追加されたのは2025年4月17日のことだった。意外なほど最近である。
 また、この編集では名前についての出典が全面的に「近世防長諸家系図綜覧(1966年)」に差し替えられており、「ただより」追加と出典差し替えが同一の編集で行われていた。

GrokでX上の議論を調査する

 次に、AIアシスタントのGrokを使ってX(旧Twitter)上の関連議論を調べてもらった。すると、2021年頃からいくつかの投稿が見つかり、「ただより」読みの根拠となるロジックが見えてきた。X上での議論は調査の道標として大いに役立った。
 概ね以下のような論理構造である。
1.    大内氏家臣・山形正厚という人物が「ただあつ」と読まれる事例がある。
2.    「正」の字は大内氏の「みなし偏諱」である。
3.    吉見正頼の「正」も同様に「みなし偏諱」である。
4.    よって、吉見正頼も「ただより」と読む。
このロジックを検証するため、原典にあたることにした。

「みなし偏諱」とは何か

 ロジックの核心にある「みなし偏諱」という概念について説明しておく。
 偏諱とは、主君が家臣の元服の際などに自分の名前の一字を与える慣習のことである。例えば大内義隆が毛利隆元に「隆」の字を与えたのがその典型例だ。
 これに対し藤井崇氏は著書『大内義隆』(ミネルヴァ書房、2019年)の中で、大内氏には当主の実名以外の字、具体的には「武」や「正」を家臣に与える慣行があったとし、これを「みなし偏諱」と呼んでいる。通常の偏諱と異なり、当主の実名の字ではないため「みなし」とされる。この概念は和田秀作「大内武治及びその関係史料」(山口県文書館研究紀要第30号、2003年)の知見等を踏まえて発展させたものと見られる。なお、「みなし偏諱」は藤井氏の学説上の用語であり、一次史料に当該用語が出るわけではなく、また、歴史学の一般的な用語ではないとみられる。

原典にあたる

藤井崇『大内義隆』(ミネルヴァ書房、2019年)

 X上の議論を追跡すると、「みなし偏諱」という概念の出所として繰り返し登場するのが、藤井崇氏の著書『大内義隆』(ミネルヴァ書房、2019年)だった。実際に購入して確認した(以下、同書のことを「藤井本」と省略する)。なお、藤井本は、本論に関連する部分以外にも「偏諱」、「通字」への言及が多く、大変参考になるものであった。
 藤井本には、吉見正頼に「よしみ ただより」というルビが実際に振られており(同書168頁)、「ただより」読みの出所は藤井本であることが確認できた。
 藤井氏のロジックは概ね以下の通りである。
 義隆期に、山形正厚という者に偏諱を与えるとした書がある。そして、相良正任(さがら ただとう)という大内氏の奉行人がおり、その「正」字は“みなし偏諱”と考えられる。相良正任が「ただとう」と読まれることから、”みなし偏諱”の「正」は「ただ」と読むことになる。また、「六代大内政弘の「政」との音通を避ける可能性が高そうなので、やはり、「正」は「ただ」と読むのが妥当」(藤井本32頁)。
 そして、吉見正頼も、“みなし偏諱”と考えられる(藤井本168頁 「「正」字は大内家の“みなし偏諱”カ」)ので、「ただより」と読む。
 なお、藤井本では山形正厚がみなし偏諱を受けた実例として萩藩譜録・岡利直の項を挙げている(筆者原本未確認)。しかし、この例は、「正」字を拝領した例として挙げられているのであって、山形正厚の「ただあつ」読みは、相良正任の「ただとう」読みからの推認というのが藤井本のロジックであると見られる。[注1]

藤井説の時系列的矛盾

 しかし藤井説には一つ矛盾がある。「正」字が「ただ」と読まれる理由として「六代政弘の「政」との音通を避ける可能性」が説明されているが、時系列的につじつまが合わない。
 相良正任の生年は永享2年(1430年)とされる。一方、大内政弘の生年は1446年であり、政弘が「まさひろ」と称されるようになったのはさらに後のことである。相良正任が元服した時点で、大内政弘はまだ存在していないか幼少期である。「政弘」を理由とした説明は、正任には時系列的に適用できない。
 さらに、藤井氏は正家・正任の親子をセットでみなし偏諱として論じているが、正家の元服はさらに以前のことであり、尚更説明困難である。
 なお、相良正任以外の「正」字のみなし偏諱の候補者は、大内義隆期に集中しており、時期が全く違う相良正任の読み方の例から類推するには慎重さを要すると思われる。

相良正任の「正」字の由来

 また、中島圭一「『相良家文書』からみた相良正任の家系」(『史学』第86巻第3号、2016年)によれば、相良正任の祖父は森下重家であり、重家―正家―正任は男系直系の継承とみられる。つまり「正」字は大内氏からのみなし偏諱ではなく、家系内の継承である可能性がある。
 なお、相良正任の「ただとう」という読みは、相良家文書246号という一次史料に「タヽタウ」とカナ表記があり、確認できる。ただしそれが大内氏のみなし偏諱由来の読みなのか、相良家固有の読みなのかは、この史料からは判断できない。

近世防長諸家系図綜覧(防長新聞社、1966年)を実際に確認する

 山口県立図書館に赴き、近世防長諸家系図綜覧の実物を閲覧した。
 Wikipediaの編集者が出典として付記した書籍である。結果は以下の通りである。
・   吉見正頼:記載あり、ルビなし
・   内藤正朝:記載あり、ルビなし
・   山形正厚:収載の有無を確認できず(山形氏が萩藩家臣として存続したか不明であり、全313ページの網羅的確認は困難)
 近世防長諸家系図綜覧に、「ただより」を裏付けるルビは存在しなかった。

萩藩閥閲録を確認する

 同じく山口県立図書館で萩藩閥閲録(マツノ書店版)も確認した。「武」字に関して以下の加冠状を確認できた。
・   巻106「楊井神平」:「加冠 武盛」(楊井武盛)
・   巻121「周布吉兵衛」:「加冠 武兼」(周布武兼)
 一方、別の箇所には「加冠 ○」という一字のみの記載もあった。偏諱(一字拝領)の場合は授与した字だけを記し、烏帽子親として名前全体を与えた場合は二字を記すという使い分けの可能性があるのかもしれないが、全体の調査をしてみないと不明である。また「正」字の加冠状は今回の調査では確認できなかった。

X上の議論の時系列

 今回の調査で確認できたX投稿・ブログ等を時系列で整理する。
2021年5月9日 ブログ「戦国日本の津々浦々」
 内藤正朝の記事で、正はみなし偏諱とみられる、大内家臣・山形正厚(やまがた ただあつ)の事例から、正はただとよむことになる、と脚注に記載。参考文献として藤井本を挙げている。
2021年9月9日 ましゅーK(@mashu_k25)さん
 「大内家にはみなし偏諱で『武』『正』があるらしく、藤井崇氏によると山形正厚が『ただあつ』と読む実例があるみたいです。それに合わせると正頼の正もみなし偏諱で『ただより』と読む可能性はあるかもですね。」→吉見正頼への「ただより」適用が初めて明示された投稿。
2023年7月8日 しかかく(@SquareDeerHorn)さん
 「能島村上水軍の『村上武吉』の『武』って大内義隆からのみなし偏諱の可能性もあるのか」(疑問形)と投稿。
2024年5月20日 大蔵尉(@AG2VfVRnKq1S7In)さん
 「藤井崇氏は『大内義隆』(ミネルヴァ書房)の中で『みなし偏諱』の『正』は正義や正道、『武』は武家や武士からとったのだろうとされています」と投稿。
2025年3月13日 晴持(@Sgdotwsni42357)さん
 「藤井崇氏はみなし字偏諱と読んでいますね」と投稿。兄・隆頼は「隆」、弟・正頼は「正」の字を偏諱されているという言及もあり。
2025年4月17日 Wikipedia「吉見正頼」編集
 「よしみ まさより」→「よしみ ただより/まさより」に変更。名前等の出典を近世防長諸家系図綜覧に全面差し替え。
2025年5月19日 しかかく(@SquareDeerHorn)さん
 「『武』は大内氏のみなし偏諱の一つで、相良武任や村上武吉など、何らかの理由で『隆』や『興』偏諱ができなかった人に与える偏諱の一つです。」と断定形で投稿。2023年の疑問形から断定形への変化が見られる。

現時点でわかったこと

確認した事実

・ 「ただより」読みのWikipedia追加は2025年4月という最近のことである
・   名前等の出典とされた「近世防長諸家系図綜覧」に正頼・内藤正朝へのルビは存在しない
・   「みなし偏諱」概念の出所は藤井崇『大内義隆』(2019年)であり、「ただより」ルビも藤井本が初出と思われる
・   X上の議論の引き金も藤井本と見られる
・   藤井説の「政弘との読み混同回避」という説明は、相良正家・正任の元服時期と時系列的に矛盾する
・   「武」字の加冠状は閥閲録に2通確認できたが、継続調査が必要
・   「正」字の加冠状は今回の調査では未確認

現時点での暫定結論

 相良正任の「正」の「ただ」読みは、大内氏からの“みなし偏諱”由来なのか、父からの継承等相良氏側由来なのか、別由来なのかはよく分からない。
 吉見正頼の「正」字は、“みなし偏諱”かどうか未確定。[注2]
 吉見正頼は、伝統的に「まさより」と読まれており、相良正任の読みからの類推以外に、「ただより」と読む根拠はみつからない。[注3]

おわりに

 昔の人の名前の読み方は正確には分からない。
 「まさより」、「ただより」どちらが正しいか、確定することはできなかった。しかし、現状において、伝統的読み方を差し置いて、「ただより」が正解と言うほどの根拠もないのではないかと思える。藤井氏の学術的仮説がX上で既成事実のように扱われ、Wikipediaの編集へとつながっていった過程は興味深い。X上の歴史好きたちの議論が調査の道標になり、大変勉強になり、集合知の力を感じた。
 むしろ、もっと詳しい人に教えを請えばすぐに解決するのではないかとの疑問もあったが、一応調べられるところまで調べてみた。

 ただ一つ感想を述べるとすれば——

「ただより」をいきなり先頭に持ってくるのは、やり過ぎでなかろうか。
(了)

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過去記事目次

巻末注

注1 上掲ブログ記事及びWikipediaの内藤正朝の記事の注1には、「「正」は大内氏の“みなし偏諱”とみられる。この場合、大内家臣・山形正厚(やまがた ただあつ)の事例から、「正」は「ただ」とよむことになる。」との記載があるが、山形正厚の読み方が直接何らかの資料で判明しているわけではない。藤井本を典拠とするのであれば、正しくは、相良正任の読み方からの推認である。もし、山形正厚の読み方が直接分かる資料があれば、ご教授願いたい。

注2 ただし、吉見氏と大内氏の親密な関係を見ると、何らかの偏諱を受けていてもおかしくはない。一方、吉見家当主は、代々大内家や将軍家の当主の名前から偏諱を受けており、正頼は義隆の義理の兄でもあるので、みなし偏諱のような(一種格下のような)扱いをするのかという疑問もある。しかし、兄の隆頼が既に「隆」字の偏諱を受けており、正頼は隆頼死後に吉見家当主を継ぐために還俗しているから、吉見家通字の「頼」字は外せず、かといって兄と名前が同じでは困るので「隆」の字を使えなかった。そのため、「正」字を与えられたと考えることもできる。また、同じく「正」字がみなし偏諱の例として扱われている内藤正朝の例を見ると、長男が「隆」字偏諱、二男が「正」字使用となっているので、吉見正頼の事例と類似しているともみえる。現状としては、何か資料が存在するわけではなく、「正」字が大内氏由来かどうかは依然不明である。なお、Wikipedia「吉見正頼」の記事には、「吉見広正」という人物の記載があるが、系図等から存在を確認できなかった。

注3 幕末から明治期、大野毛利家第10代当主「毛利徳正」という人物がおり、「とくまさ」と読まれている。少なくとも吉見家の後継である大野毛利家の中では、「正」字は「まさ」と読まれている。「ただより」という名前が記憶されていれば、不自然である。なお、「徳」の字は、毛利元徳(毛利敬親の子)からの偏諱であり、「正」の由来は分からない。ただの推測ではあるが、吉見正頼または吉川広正(岩国藩第2代藩主、大野毛利家の祖吉見就頼の兄)由来が候補か。

参考文献
【一次史料】
『萩藩閥閲録』(山口県文書館編、昭和42年刊行、マツノ書店復刻版、1995年)
相良家文書246号「タヽタウ」(慶應義塾大学所蔵)
【書籍】
藤井崇『大内義隆』(ミネルヴァ書房、2019年)
『近世防長諸家系図綜覧』(防長新聞社、1966年、三坂圭治監修)
【論文】
和田秀作「大内武治及びその関係史料」(『山口県文書館研究紀要』第30号、2003年)
中島圭一「『相良家文書』からみた相良正任の家系」(『史学』第86巻第3号、2016年)
【ウェブ】
Wikipedia「吉見正頼」編集履歴(https://ja.wikipedia.org/wiki/吉見正頼)
ブログ「戦国日本の津々浦々 ライト版」内藤正朝の記事(2021年5月9日、https://kuregure.hatenablog.com/entry/2021/05/09/192831
上記Xの各投稿


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