吉見正頼―戦国津和野の国人は、歴史の中で役割を果たし、毛利氏の一門六家に名跡をつないだ―そして津和野に残るもの
津和野の吉見氏は、石見津和野の名門国人。戦国時代、吉見正頼は、陶晴賢のクーデターに対し反攻の狼煙をあげ、大内軍(陶軍)の主力を津和野城に長期拘束することで、毛利元就の安芸統一、厳島合戦、そして防長経略を可能とし、軍功第一と称えられた。その吉見氏は、正頼の没後わずか十年足らずで直系は断絶し、名跡は毛利一門六家の大野毛利家に継がれて存続した。
一 鷲原八幡宮、流鏑馬神事に残る吉見氏の記憶
四月の津和野町鷲原は、馬の蹄の音で始まる。(※1)
幼いころ、父に連れられて鷲原八幡宮の流鏑馬神事を見に行った。射手が馬を走らせながら的を射る瞬間の、あの緊張感と解放感は今でも体に残っている。父はそのとき、こんなことを言っていた。「吉見氏の時代は、この鷲原の方が町だった。今の殿町通りじゃなくて」。
後に文献を調べてみると、父の話はちゃんと裏付けのあるものだった。津和野の郷土史家・沖本博は、「吉見氏の時代に町らしいものがあったとすれば、鷲原・片河あたりであろう」と書き残している。(※2)
つまり、現在の津和野の市街地(城山東側)は、関ヶ原以後に入封した坂崎直盛や亀井氏が整備した城下町であり、吉見氏三百年の「町」はその西側にあった。今わたしたちが「津和野らしい」と感じる風景の多くは、吉見氏が去った後につくられたものだ。
そして、津和野には流鏑馬神事が残った。源氏の流れを引くと考えられる吉見氏が創建し、庇護した鷲原八幡宮と、その神事は、三百年の記憶を現在に伝えている。
吉見正頼とは何者か。その問いを、父の声とともに、振り返ってみたい。
二 吉見正頼という人物
吉見正頼は、永正十年(1513年)、吉見頼興の四男として生まれた。(※3)幼くして興源寺に預けられ、僧名を「周鷹」と名付けられていた。戦国期の次男以下は出家させるのが慣例で、正頼もそのつもりで育てられた一人である。
ところが兄・隆頼が急死した。家中は正頼の器量を認めており、大内義興に懇願して正頼を還俗させ、天文九年(1540年)に第十一代家督を継がせた。このとき正頼は二十六歳だった。
その後、正頼は兄・隆頼の未亡人であった大宮姫を妻に迎えた。(※4)大宮姫は大内義興の娘であり、当代の大内当主・義隆の姉にあたる。これによって正頼と義隆は義兄弟の関係となった。(※5)政略婚の多い戦国期にあって、これは単なる縁組ではなかった。先代・頼興の代から続く大内氏との深い紐帯を、正頼は文字通り「身に受けた」のである。
吉見氏は、石見国の国人領主の中でも特殊な家格を持っていた。足利将軍家の一門に連なるとも言われ、石見の国人の筆頭格に位置づけられていた。大内氏の庇護下に入りながらも、その家格の高さゆえに一定の独立性を保ち続けた。この「高い家格」と「大内氏との血の絆」が、後の大事件において正頼の行動を規定することになる。
三 反陶の狼煙を上げる-裏切れなかった男
天文二十年(1551年)九月、陶晴賢が山口に乱入し、主君・大内義隆を追い詰めた。義隆は津和野への脱出を試みた。海路で石見に入り、津和野の正頼を頼ろうとしたのである。
もし義隆が津和野にたどり着いていたら、歴史は大きく変わっていただろう。しかし海が荒れ、義隆は長門の大寧寺で自刃した。義理の兄弟・正頼のもとへは、ついに辿り着かなかった。
大寧寺の変の後、陶晴賢はクーデターに成功して実権を握った。多くの国人領主が陶方に靡いた。正頼の宿敵であった益田氏も陶晴賢と姻戚関係にあり、吉見氏を挟み打ちにする好機と見ていた。(※10)
しかし正頼は動かなかった。
なぜか。答えは明確だ。陶晴賢が殺した義隆は、正頼の義弟だった。大宮姫を通じた血の絆が、そこにある。「政略婚の結果として義兄弟になった」のではなく、兄の未亡人を妻として受け入れた、その関係性の重さが、正頼に「裏切り」を許さなかったのだと思う。これは推論だが、根拠のない推論ではない。
天文二十二年(1553年)十月、正頼はついに決断した。津和野三本松城に将兵を集め、陶晴賢討伐を宣言した。兵力はせいぜい千人余り。背後には宿敵・益田藤兼が控えている。一見、無謀そのものの決起だった。
四 三本松城(津和野城)の戦い-五ヶ月の籠城と毛利の躍進
天文二十三年(1554年)三月、大内義長・陶晴賢の大軍が山口を発った。推定二万から五万の大軍が、津和野を目指した。
三本松城の籠城は、五ヶ月に及んだ。(※6)陶軍は山裾から幾度も攻め上がったが、城は天然の要害で、尾根続きに下瀬山城まで連絡しており、孤立させることができなかった。戦闘は十二回を数え、双方に多数の死傷者が出た。
八月、ついに正頼は講和に応じた。嫡男・亀王丸(のちの広頼)を人質として差し出した。食糧不足が理由とされるが、そこには別の計算もあったかもしれない。(※7)毛利元就との連携の下、できる限り陶の主力を津和野に引き付けておく――それが当初からの構想だったとすれば、五ヶ月の籠城は「負けた籠城」ではなく「役割を果たした籠城」だったことになる。
実際、翌弘治元年(1555年)十月、毛利元就は厳島の戦いで陶晴賢を滅ぼした。三本松城の五ヶ月が、厳島の布石となった。陶の主力が津和野に縛られている間に、毛利は安芸を固め、一気に決戦に持ち込んだのである。
歴史の因果は残酷なほど明確だ。正頼がここで陶方についていれば、厳島の戦いは起きなかったか、少なくとも別の形になっていた。戦国中国地方の帰趨を決めた一手は、津和野の小さな城での五ヶ月に始まっていた。
五 毛利の傘下での吉見氏最盛期
厳島の後、正頼は再び兵を挙げた。講和中にひそかに人質の亀王丸を取り戻し、阿武郡へと打って出た。弘治三年(1557年)、正頼は防府まで進んで毛利元就とはじめて直接会見し、臣下の礼を取った。元就は正頼を「山口攻略の第一の功労者」として称えた。(※11)
興味深いのは、正頼が朝鮮外交にも関与していた事実だ。(※8)山間の国人領主でありながら、大内氏を通じた朝鮮貿易の知識と権益を持っており、毛利氏の対外交渉においても重要な役割を担った。戦国大名の実像は、合戦だけではない。
正頼は天正十六年(1588年)、七十六歳で没した。最後の出陣は七十歳での備中高松城救援である。毛利元就に「肝胆相照らした仲」と評された正頼は、元就の死後も元春・隆景兄弟の相談相手として重きをなした。戦国武将として稀有な長寿と活躍だった。
六 断絶と継承
正頼の死後、吉見氏は急速に瓦解した。嫡子・広頼は病弱で、孫の元頼は朝鮮役の陣中で二十歳で没した。関ヶ原後、毛利氏が防長二国に減封されると、吉見氏も津和野を去って萩に移った。頼行が能登から入部して以来、三百十九年ぶりの「退去」だった。
萩に移った後、広頼の子・広行が出奔し、吉見の本領は没収された。後継として吉川政春が養子に迎えられ、やがて毛利を名乗った(大野毛利家)。(※9)大野毛利家は、毛利氏の一門六家に数えられている。「吉見の血筋は毛利となって残ることになった」と沖本は書く。一方、出奔した広行はのちに広長と改名し、仕官の道を求めて十九年間諸国を流浪したが、萩に帰参を許された一年後に自刃した。元和四年(1618年)のことである。
ここで、隣接した宿敵・益田氏と対照させると、吉見氏の終わり方の輪郭が見えてくる。
益田氏の益田元祥は、織豊期から江戸期への転換を生き抜いた。戦国の国人領主から藩の吏僚的家臣へと自らを組み替え、かつての姿への執着を断ち切ることで、毛利氏の永代家老家としての「益田氏」の血と名を江戸期まで存続させた。これは時代への適応の成功である。
対して吉見氏は、その転換に失敗した。広行の出奔はその象徴だ。戦国大名の気風を引きずったまま、吏僚化という時代の要請に応えることができなかった。
しかし失敗の結末として見れば、吉見氏の処遇は最悪ではなかった。潰されて断絶したのではなく、毛利一門格という形でリセットされた。名跡は一門の中に保存され、家格は保たれた。正頼の代の軍功と、地元の名門としての家格の高さを、毛利が最後まで認めていたからではないか。これは実証できる話ではないが、歴史の形として考えてみる価値はある。
七 それでも津和野に流鏑馬は残った
もっとも、名跡の毛利一門への継承は、吉見氏が本当に残したかったものではなかったのかもしれないと想像してみる。
吉見氏にとっての核心は、おそらく二つだった。一つは津和野という土地そのものへの愛着。能登から移ってきた頼行以来、三百年をかけて根を張った石見の地、津和野。もう一つは、石見の国人衆の名門吉見氏としての矜持、その誇りを持ちつづけることではなかっただろうか。
萩に移ることで、その両方は失われた。土地は坂崎氏・亀井氏のものになり、吉見の名は毛利の傍流に溶けた。
しかし、鷲原八幡宮の流鏑馬神事は今も続いている。四月の境内に馬が走り、的が割れる。吉見氏が津和野の地に刻んだ記憶の、おそらく最も純粋な残り方として。
名跡でも血筋でもなく、神事として。それが吉見氏の、津和野への最後の置き土産だったのかもしれない。
津和野歴史再発見シリーズ 前作
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ノート記事目次
【巻末注】
※1 鷲原八幡宮は吉見頼行が弘安年間(13世紀末)に勧請したとされる。流鏑馬神事は武家の守護神として吉見氏が庇護した。現在も毎年4月に行われる国指定重要無形民俗文化財。
※2 沖本博『吉見氏とその時代――津和野史の夜明け――』(津和野ものがたり第9巻、津和野歴史シリーズ刊行会、1997年)109頁。「吉見氏の時代に町らしいものがあったとすれば、鷲原・片河あたりであろう」と明記されている。
※3 沖本、前掲書、80頁。正頼は永正10年(1513年)生まれ、頼興の四男。兄隆頼の急死を受けて天文9年(1540年)に還俗・家督相続。
※4 沖本、前掲書、80頁。大宮姫は大内義興の娘で、もともと兄・隆頼の夫人であった。隆頼の急死後、正頼が継いで妻とした。この経緯が義隆との義兄弟関係を生む。
※5 シンポジウム「吉見氏と益田氏 歴史を動かした石見の武将たち」川岡勉氏発言(01:53:07)。「吉見正頼の妻は大内義興の娘……大内義隆と義兄弟の関係に結ばれる」。
※6 沖本、前掲書、94頁。「この三本松城の籠城は実に五ヶ月にもおよび、大内軍としては予想外の長期戦ではなかったかとおもわれる」。
※7 沖本、前掲書、95頁。「八月にいたって吉見正頼が講和に応じたのは、やはり食料不足による戦意の低下、とされているが、毛利元就の進撃の状況の連絡を受けつつ、ある時期まで陶の軍を引きつけておくことが、最初からの作戦ではなかったのかとおもわれる」。
※8 シンポジウム前掲、本田伸氏発言(02:08:45)。「吉見大蔵大輔正頼が対外(朝鮮)外交に深く関与していることがわかる……朝鮮王朝との外交手続きについていける知識を持つ吉見正頼の間で、印章の授受が行われた」。山間の国人領主が対外貿易の知識を持っていた点は、大内氏文化圏への深い統合を示す。
※9 沖本、前掲書、115頁。「吉川政春を養子として就頼と名乗らせ、やがて毛利秀就の命によって毛利を名乗ることになる。吉見の血筋は毛利となって残ることになったのである」。
※10 吉見・益田の対立については本稿では詳述しない。両氏が室町幕府への「文書による戦い」(譲り状などの正当性を競う申請合戦)を繰り広げたこと、陶晴賢挙兵後に益田藤兼が吉見領に即座に侵入したことは、宿命的な隣接関係を示す。
※11 沖本、前掲書、99頁。「元就は山口攻略の最大の功労者は吉見正頼であると賞賛し、その功をねぎらった」。軍功第一として阿武郡全部と厚東・佐波郡の一部を与えられた。
