「山口に美人が生まれない」という呪いは、なぜ生まれたのか―姫山の蛇責め伝説の生成史と消えた鐘
案内板の前で
山口市平井にある姫山は、標高199メートルの、市街地からもよく見える里山である。登山口には「大内さとづくりまちづくり推進協議会」が設置した説明看板があり、そこにはこう記されている。
「その昔、殿様が、美女を見初めて、無体な恋慕をよせ、殿中に捕らえ入れて想いをとげようとしたが、美女は節操固く殿様の邪意を受け入れなかった。殿様は美女を縛って城の井戸に釣り下げ蛇ぜめにした。美女は悶え苦しみ、美しく生まれた身のつらさを、二度と後々の女性にさせぬため『この山の上から見えるかぎりの土地では、永久に容色兼英の女性は生まれぬように』と悲しみ悶え死んだという」
地元では有名な、いわゆる「ブス伝説」の一種である。山口に美人が生まれないのは、この呪いのせいだという。
こうした伝説には、たいてい誇張や潤色があるとしても、どこかに核となる史実の記憶が残っているものだ、という素朴な期待を持って、この伝説の由来を調べ始めた。誰の代の、どんな出来事が、この話の種になったのだろうか。
調べていくうちに見えてきたのは、当初の予想とはまったく違う景色だった。
1425年の鐘
天保期(1840年代)に長州藩が編纂した『防長風土注進案』は、藩内の村々に、どんな些細なことでも古くからの言い伝えや奇談を報告させた、悉皆調査に近い性格を持つ地誌である。姫山のある平井庄・吉田郷・恒富保の巻を確認すると、姫山に関する記載は次の二件しかない。
一つは、姫山にあった大恩禅寺という廃寺の、洪鐘(梵鐘)の銘文の記録である。「防州吉敷郡平井保姫山大恩禅寺住持妙宗」に始まる漢文の銘には、鐘の鋳造の経緯と、住持や施主の名が記されている。年号は「應永三二年」、西暦1425年にあたる。この鐘は、大恩寺が廃寺となった後、萩の満願寺護摩堂に移されたことまで記録されているが、後年の史料によれば現在は所在不明とされる※1。
もう一つは、古城跡としての記載である。「姫山 平井村中央より丑寅にあたり山の頂に石垣馬つる井も存れり 右宍道大炊助氏慶居之、廢城の年暦不詳」。山頂に石垣と、馬に水を飲ませるための井戸があること、宍道氏慶という武将が居城していたことが、乾いた筆致で記されているだけである。
この二件に共通するのは、美女も、蛇も、呪いも、一切出てこないということだ。
むしろここから読み取れるのは、別の、地味だが動かしがたい事実である。「姫山」という地名は、遅くとも応永三二年(1425年)の時点で、寺の所在地表記として当たり前に使われていた。つまり地名としての姫山は、後に伝説の主人公として擬せられることになる大内義隆(1507〜1551)よりも、毛利輝元(1553〜1625)よりも、そして史料上確認できる姫山城の在城記録(弘治二〜三年、1556〜57年、内藤隆世・宍道隆慶)よりも、百年以上古い。
この一点だけで、後に検討する「誰がモデルか」という問い自体の前提が崩れる。地名は、伝説が想定するどの権力者の時代よりも先に存在していたのである。
大正七年、防長新聞
現時点で確認できる限り、姫山の蛇責め伝説の最初の活字記録は、大正七年(1918年)一月十五日・十六日の防長新聞に掲載された、植村香村という署名の記事「山口の伝説 姫山の美女蛇責め」である※2。原本の翻刻は「大内文化まちづくり」のサイトで読むことができる(https://ouchi-culture.com/discover/discover-280/)。それ以前の記録は、注進案を含め、これまでのところ見つかっていない※3。
この初出記事の内容は、現在看板に書かれているものとはかなり違う。時代設定は「大内氏第二十六世義隆卿の時代」と明記され、美女は殿様の館に召し出された末に拒み続け、怒った殿様は夜、彼女を山上へ連行させる。舞台は井戸ではなく、山頂に建てられた「怪しげな固屋」である。そこに数百匹の蛇が次々と投げ込まれ、彼女は衣類を剥ぎ取られ、蛇に這い回られ、噛みつかれながら死んでいく。その過程は、蛇の数を五匹、八匹、十匹と数え上げながら、かなりの分量を割いて描写されている。呪いの言葉は、この長い惨劇の末尾に、いわば締めくくりとして置かれているにすぎない。
つまり初出の力点は、井戸に落とすという「結果」ではなく、山頂の部屋という「経過を見せられる舞台」で、美女の衣服が剥ぎ取られる描写、身体がどう責められていくかという過程そのものにあった。井戸ではこの経過は見えない。舞台として部屋が選ばれたのは、書き手が読者に見せたい絵が、静的な結果ではなく、動的な責め苦の連続だったからだと考えるのが自然である。
この時点で、もう一つ検討しておくべきことがある。「大内義隆」という名は、なぜここに置かれたのか。史書上は、男色や側近政治、遊興への耽溺が繰り返し指摘されており、女性への強引な好色行為を示す記録は見当たらない。政敵の陶晴賢が、もし義隆にそのような醜聞があれば政変正当化の材料として記録に残したはずだが、そうした痕跡はない。すでに触れた通り、姫山の名前は、義隆の時代より100年前には定着していたので、義隆の時代に姫山の名前の由来を求める論は成り立ち得ない。義隆の名は、史実の反映というより、当時「大内氏の代表的な殿様」として広く知られていた名を、物語に借用しただけだと考えるのが妥当だろう。義隆のほかに、毛利輝元をモデルとする説も後年語られるようになるが、これも同様の理由で成立しがたい※4。
エロ・グロの前夜――明治の毒婦ものという系譜
この記事の性格を理解するには、大正七年という時期の、新聞というメディアの空気を踏まえる必要がある。
明治初期には、新聞記事をもとに戯作者や絵師が扇情的な読み物に仕立て直す「錦絵新聞」が流行した。殺人や刃傷沙汰、スキャンダルを鮮やかな絵と名調子の文章で伝える、今でいう写真週刊誌に近いメディアである。この流行が去った後、活字の読み物として発展したのが「毒婦もの」――実在の女性犯罪者を主人公にした、美貌の強調と処刑・破滅をセットにした実話仕立ての読み物である※5。
植村香村の記事は、この系譜の型を色濃く受け継いでいるように見える。「実話・伝説」という建前、容姿の過剰な美文的形容、性と暴力の結合、そして「地名の由来」という教訓的な免罪符――これらはすべて、毒婦ものが確立した構造と重なる。ただし姫山の美女は加害者ではなく被害者であり、厳密には毒婦ものそのものというより、悲劇の美女譚とこの実話仕立ての手法が合成されたものと見る方が正確だろう。
時期としては、江戸川乱歩に代表される、いわゆるエロ・グロ・ナンセンスの流行(昭和初期、1928年頃をピークとする)よりも一世代早い。つまりこの記事は、乱歩たちの直接の子孫ではなく、その一世代前、明治の毒婦ものから昭和のエロ・グロへと向かう過渡期に位置する、傍系の一例と見るのが適切である。
二段階の「浄化」
この生々しい初出記事が、今の看板の文言に至るまでには、二つの段階を経ている。
第一段階は、昭和六年刊行『趣味の山口』(防長史談会編)である。ここではすでに「大内氏が威を西海に振つてゐた時代かも知れないが」と、義隆の実名が意図的にぼかされている。舞台は山頂の部屋から古井戸へと転換し、「縄をかけられた」という拘束の描写が新たに加わった。一方で「裸体にされて古井戸の中に投込まれ」という女性の裸体という描写は、まだ残っている。
第二段階は、昭和八年刊行の山口市史「伝説雑録」である。ここでは犯人はさらに「或る豪族」という完全な匿名にまで後退し、何より裸体の描写が消え、「多数の蛇を入れて惨死せしめた」という抽象的な一文にまで圧縮された。実名の消去は史談会という郷土愛好家の団体によって、裸体描写の消去は市という行政記録の編纂によって、別々の時期に、別々の理由で行われたと考えられる。前者は郷土の英雄のイメージ保護、後者は公的記録としての体裁の問題である。
興味深いのは、この昭和八年市史が、姫山の話のすぐ後に、周慶寺山にも類似の蛇責め伝説があることを紹介し、「蛇責といふことの似通ふてゐるのは不思議である」と編纂者自身が書き添えている点である。周慶寺山の話は、正室が側室への嫉妬から蛇責めにするという、姫山とは動機の異なる話だが、注進案を確認する限り、こちらにも天保期の記録には一切痕跡がない。両者とも昭和八年市史が初出であり、編纂者自身がその類似を不審に思っている。これは、二つの話が一方から他方へ伝播したというより、「蛇責め」という当時流通していた物語の型が、山口周辺の複数の場所に、ほぼ同時期に、独立に付着した結果と見た方が、より説明的である※6。
以後の郷土誌――大内村誌、山口市史各説編、平川文化散歩など――は、いずれもこの昭和八年市史以降の「井戸・匿名・簡潔」という骨格をそのまま継承している。中には、伝説の年代を「応永三十二年」と具体的に記したものもあるが、この年号は姫山にあった大恩禅寺の鐘銘の年号と一致しており、寺の記録の年号が伝説の年代設定に転用された可能性を思わせる※7。また、井戸に落とすという結末そのものにも、版によって細かな違いがある。大量の蛇を集めて投げ込むという初出以来の能動的な拷問の描写に対し、大内村誌(昭和三十三年)だけは「井戸の中の蛇をして」蛇責めにしたという、既にそこにいた蛇に噛まれたという書き方になっている※8。
残すべき伝説はどちらか
整理すると、確認できた史料の範囲では、姫山の蛇責め伝説を古くからの口承に遡ることはできず、大正七年に一人の新聞記者が、地名だけが先にあった山に、当時の大衆娯楽メディアの型を借りて書き込んだ娯楽的な物語と見るほかない。それが昭和の郷土史編纂の過程で、実名を落とされ、身体描写を落とされ、簡潔な由来話として整えられ、以後九十年以上にわたって、その「浄化済み」の姿のまま複製され続けてきた。
この伝説の生成過程を史料に照らして見つめ直すと、次のような構造が見えてくる。権力者の身勝手な横暴が、抵抗した一人の女性へと向けられ、その理不尽な怒りは、なぜか、後の世の、事件と何の関わりもない無数の女性たちへと転嫁される。自分を苦しめた張本人を憎むのではなく、これから生まれてくる同性の器量そのものを呪うという結末は、筋として褒められたものではない。この創作された伝説を、どこまで「由緒ある昔話」として扱うべきなのか、という問いが残る。
一方で、注進案に残っていたのは、まったく別の女性の記録だった。鐘銘に名を残す了浄女※9という人物である。彼女がどのような願いを込めてこの鐘の鋳造に関わったのか、詳細はもはやわからない。銘文に刻まれた「皇帝萬歳 重臣千秋 邦家大平 佛法興隆」という言葉は、南宋の禅僧・無準師範に由来する、禅宗の鋳鐘に広く見られる定型の祝聖文であり、彼女だけの特別な言葉ではなかったかもしれない。それでも、そこにあったのは、誰かを呪う言葉ではなく、世が平らかであることを願う、ごくありふれた祈りだった。
その鐘は、大恩寺の廃寺後、萩の満願寺に移された。だが後年の史料では所在不明と記されており、現物は確認されていない。
一方、根拠のない蛇責めの伝説だけは、看板となり、観光案内となり、今も山口の町に残り続けている。
残すべき伝説は、本当はどちらだったのだろうか。
先日、原本を確かめに図書館へ通った帰り、姫山のふもとを歩きながら、ふと、どこにもないはずの鐘の音を聞いた気がした。もちろん、そんなはずはない。鐘はとうに失われている。だからそれは、史料でも記憶でもない、ただの気のせいだったのだと思う。
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巻末注
※1 『防長風土注進案』の鐘銘記録には「郡廳考、當寺の洪鐘今は存して萩滿願寺護摩堂の櫓に懸れり」とあり、注進案編纂時点(天保期)では鐘は満願寺に現存していた。その後の消失時期・経緯は今回確認できた史料の範囲では特定できておらず、「亡失」という評価も後年の別の記録に基づく。所在の確認は今後の課題である。
※2 この記事は単発の読み物ではなく、大正七年一月十三日から始まる「山口の傳説」という連載の第三・四回にあたる。現時点で確認できているのは三十回分であり、そのうち二回分は未発見だが、連載がそこで終わっているのか、前後にさらに回があるのかは確認できていない。確認できた範囲では怪談・艶談ものが多数を占め、大内義隆は女に溺れる当主として繰り返し登場する、いわばレギュラー出演者であり、確認できた三十回中十一回が義隆の醜聞にまつわる回である。姫山の一件も、この連載の一エピソードとして位置づけて読む必要がある。連載の全体像については、追跡調査を継続中である。
※3 悉皆調査に近い性格を持つ注進案(天保期)に記載がなく、国立国会図書館・地元図書館レベルの資料で確認した範囲では、大正七年の防長新聞記事より前の記録は見つかっていない。ただし全国の未整理史料まで網羅した調査ではなく、「現時点で確認できる限り」という限定付きの結論である。
※4 毛利輝元をモデルとする説は、輝元の側室・二の丸様(周慶大姉)という実在の女性――杉治郎左衛門元相の子・小次郎元宣の未亡人で、天正十七年(1589)の一件の後、輝元に召され、慶長九年(1604)に三十二歳で病歿した人物――を下敷きにしていると考えられている。大内村誌(昭和三十三年)は系図まで示してこの説を検討しているが、輝元の活動基盤は主に安芸であり、山口市中心部という伝説の舞台とは地理的な結びつきが薄い。二の丸様と姫山伝説を直接結びつける一次史料も確認できておらず、「実在の悲劇の女性」というイメージからの後付けの可能性が高い。
※5 仮名垣魯文『高橋阿伝夜刃譚』、岡本起泉『夜嵐阿衣花廼仇夢』などが代表作にあたる。これらは明治十一年から十六年頃にかけて量産された、実在の事件を下敷きにした絵入りの読みものである。
※6 周慶寺山との類似を伝播(一方の話がもう一方に影響した)と見る可能性も排除はできない。しかし両者の動機が異なること(姫山は横恋慕、周慶寺山は正室の嫉妬)、双方とも昭和八年市史が初出であること、編纂者自身が類似の理由を説明できず「不思議」と述べていることを踏まえると、共通の型が独立に複数の場所へ付着したとする方が、これらの事実をよりよく説明できる。
※7 平川文化散歩(石川卓美著)は伝説の時代を「今から五四八年前の応永三二年」と記す。これは大恩禅寺の鐘銘の年号と偶然の一致とは考えにくいが、編纂過程を直接示す史料は確認できておらず、転用と断定するだけの決定的な証拠はない。
※8 大内村誌(昭和三十三年)「殿様は、美女を姫山の頂上の古井戸に投げこみ、井戸の中の蛇をして蛇責めにして殺した」。大正の初出および趣味の山口(昭和六年)では、蛇を集めて能動的に投げ入れるという描写だが、この版だけは井戸に元々いた蛇に噛まれたという、より簡素で「もっともらしい」構文になっている。蛇を大量に調達して積み上げるという手間のかかる筋立てより、古井戸には元来蛇がいたとする方が自然に受け取られやすく、劇的さより合理性を優先した言い換えの結果である可能性がある。
※9 「了浄女」の「了」を完了・徹底を示す副詞(すっかり、完全に)と読み、「すっかり浄められた女性」という形容的な美称と解する余地も、文法的にはないわけではない。ただし禅宗の銘文では「了」は「了悟」のように法名の構成要素として頻用される字であり、「有本願了淨女者」という文の座りからも、「了浄」という二字の法名を持つ女性(尼)と読むのが史料論としては素直である。このあたりの読み筋に異論のある方は、ぜひご教示願いたい。
