学校が楽しかったギフテッドの話
久しぶりに、ギフテッド関連の記事をば。
最近、ギフテッド関連の記事は読む専門だったのだが、やはり「学校が嫌い」「不登校になった」という系統の内容が多いと感じた。
それに、確かにギフテッドにはそういうイメージがある。私もそんなイメージを持っている。
私は小学校〜高校が楽しくて仕方がなかったから、まさか自分が「ギフテッドです」と言われる日が来るとは思っていなかった。
だから、なぜ私は学校が楽しかったのか(個人差と言ってしまえばそれまでだが)、そして、なぜギフテッドは学校嫌いの傾向があるのか、少しばかり考察してみる。
まず、ギフテッドが学校嫌いになる理由として、以下があると思う。
①授業内容をすでに理解しているのでつまらない、退屈
②人と違うことをやって先生に怒られる
③友達と話が合わない
私も、全部、身に覚えがある。
①に関しては、特に数学で顕著だった。公文の先取り学習のおかげで、中学校に入ってからだいぶ長いこと、授業を聞かなくても問題なかった。
ギフテッドはみんな公文をやったらいいのではないかと私は思う。自分のペースで勉強できるから、あんなにいい所はちょっと他には見当たらない。もう義務教育を公文にすればいいとさえ思ってしまう。流石に過激すぎるか。
あと、私はそもそも、人の話が聞けない。本当に聞けない。授業というのは大概、生徒が席に着いて、先生が前に立って勉強を教える方式だが、私は本当に話が聞けないので、ずっと、寝るか読書するかの二択だった。
「内容をわかっていたからでは?」という指摘は、半分正しくて、半分間違いだ。大学の講義はちんぷんかんぷんだったが、私は結局話が聞けなさすぎて、延々とマインスイーパーをやっていたのだから。そして試験の二週間前くらいから急に慌て出して、配布資料を読み漁っていた。よくまあ卒業できたものだ。
大学はそれでも怒られないが、高校まではそうはいかない。学年が低いほど、細かいことで注意されるのはきっと全国共通だろう。それで、②につながっていくのだ。
②人と違うことをやって先生に怒られる。
数学の授業中に読書が見つかった挙句、反省しなかったことで先生に激怒された記事は前に書いたけれども、他にも「我ながらヤバいな」と思った過去はある。
過去記事はこちら↓
中学受験の時は、通っていた塾の授業が暇すぎて、こっそり菓子をつまんだ。先生が板書中だったのでバレなかったはずなのに、隣の子が「今、お菓子食べた?」と大声で言ったものだから、教室から連れ出されてしこたま怒られ、態度が不貞腐れていると言って更に怒られた。
他にも、その塾は「漢字練習ノート」なるものを作らせ、指定の漢字を決まった回数書いてくる宿題があったが、私は当時漢検四級?三級?くらいはとっていたから、ストレスで仕方がなく、そんなこんなで転塾した。
転塾先は割と楽しかったが、結局授業が聞けなくて爆睡することもしばしば。中学入学後、同じ塾だった人たちに「お前、授業で寝てたやつじゃん」と声をかけられた。「寝てたのお前だけだったよ」と。
塾でさえ、こうなのだ。
もっと協調性が求められる学校なんて、耐えられるはずがない。通常なら。
ただ、私は小学校も中学校も受験で入っており、幸いどちらも「個性を重んじる」学校だった。中学校で怒られた記憶があるのは先述の「授業中読書事件」くらいだったが、もっと校則でがんじがらめの学校だったら、私も不登校になっていたかもしれない。
私が中学受験で得たことは、「塾に向いてなさすぎる」だった。なので、大学受験の時は最後まで塾に通わず、模試の受験だけして、あとはZ会と個別指導を貫いた。
こんなことを言うと「塾に行かないなんてすごい」と言われるけれど、私に言わせれば「人の話を聞けてすごい」と思う。
最後、③の「友達と話が合わない」。
これに関しては、中学受験であらかた解決した感はある。
小学校では、周囲と話が合わないことは、だいぶ早いうちに気づいていたから、ひたすら本を読んでいた。そうでなくても読書は大好きだったから、別に苦にもならなかった。
一人でいることが元々平気なのと、少数ながら話の合う友人はいたから、どうにでもなったのだと思う。
学校は、何のためにあるのか。
一番は、もちろん、教育のためだろう。子供の頃には分からなくとも、義務教育で学んだことはあらゆる知識の土台となる。よく「学校で習ったことなんて大人になったら使わないよね」という意見を耳にするけれど、それは結果論であって、「将来使うかもしれないから、知っておく」ということが、学校教育の意味なのだと思う。
いわば、将来花を咲かせるために、種を蒔く行為のようなものだ。当然、芽が出て花へと育つ種もあれば、発芽すらしない種もある。しかし、種蒔きさえ怠れば、何も育たないのだ。
他には、おそらくーー私はこの言葉が嫌いだけれどーー協調性を育むため、という目的もあるだろう。
社会に出たら、他者と協力して、一人ではなしえない何事かを成し遂げることが必要になる。そのためには、最低限の礼儀、相手を思いやる気持ち、報連相などなどを身につけることが不可欠なのは、私も認める。
しかし、「協調性」の中には、既に理解している授業を、まだ理解していない同級生と一緒に聞くことも入るのだろうか?
「結果・能力が全て」は私の持論であり、賛否両論あるだろうが、せめて、既知の授業を聞かない自由くらいは、学校でも与えるべきだ。
授業中騒ぐとか、「もっと進度を速くしろ」と求めるとか、そういった行為は「自己中だ」「他人に迷惑をかけるな」と糾弾されても仕方がない。
だが、寝たり、本を読んだりすることで、一体誰が迷惑するというのか。少なくとも、授業妨害には当たらないはずだ。
もっと有意義な時間の使い方として、内職など、違うことを勉強するという方法も考えられたが、私の学校では許されていなかったと記憶している。
こんなことで注意をしてくるのは、もはや協調性を求めているのではない。同調圧力をかけているのだ。
「個性を伸ばせ」「一人一人に合った指導をしろ」といった綺麗事で学校が成り立たないのは理解している。先生の数も足りないし、時間がいくらあっても足りないだろう。
個人に合わせた接し方ができるのは、基本的に家庭以外にはないと私は思う。
ただ、それならせめて「成績が一定の水準に達していて、人に迷惑をかけない限り、干渉しない」くらいのことは実践してほしい。自分で興味を突き詰められる子供は、それだけでだいぶ救われるはずだ。
そして願わくは、家庭だけはいついかなる時も、子供の居場所であって欲しい。
私が学校嫌いにならなかったのは、比較的自由な校風だったこと、両親が私を否定しなかったこと、そして生まれつき私自身が他人から何を言われても気にしない性格であることが全て揃った結果であり、総じて運が良かったからだと考えている。
学校は、入ってからでないと分からないこともたくさんある。性格は、自分ではどうにもならないこともある。それでも、家庭が安全地帯なら、子供にとってはこの上ない支えとなるだろう。
