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短編10「水槽越しにリンクする波紋」

あらすじ

それぞれが、それぞれの場所で心を癒やしていた。交わることのなかった二つの世界が、ある日……。

 企画会議の緊迫した空気。鳴り止まないスマートフォンの通知。上司からは無理難題をふっかけられ、様々な対応に追われて今日も時間が飛んでいく。
 そんな毎日。

 私は糸井 美波、26歳。大学の商学部を卒業してから、広告代理店の企画職として働いていた。現場はいつも慌ただしく、プレッシャーも強い。常に完璧を求められ、クライアントからは結果を求められる。そんな中で働いていると、心もアイデアもすり減っているような気がするし、人間関係も円滑とは言えない。
 意見の衝突を避け、誰とも波風を立てないようにすればするほど、自分という存在が透明になっていくような感覚に囚われる。自分の輪郭がふわっと空気に溶け込んであやふやになるような感覚。いつからか、そんなことを感じるようになっていた。

(……ああ……疲れた……)

 会社を出て最寄り駅まで歩く。今日は幸い仕事が一段落して、上長はいつもより早い時間に帰らせてくれた。腕時計を見ると、まだ19時を過ぎたところ。終電との戦いになる毎日と比べれば、恐ろしいほど早い。神様が休めとでも言ってくれているのか。それとも頑張りへのご褒美だろうか。

 ……確か、営業時間は21時までのはず。よし。自分へのご褒美だ。そうしよう。
 私は駅に入ると、帰り道とは逆方向の電車に乗った。

 反対方向へ電車で3駅。そこにあるのは、水族館。大型ショッピングモールに併設された水族館は、白い壁とグレイの入口でいつもの通りに迎えてくれる。何度も来ているが、いつも同じ門構えで私を歓迎してくれていた。年間パスポートを入口の機械に通して、青く深い水の世界へと足を踏み入れる。小さな魚の水槽を眺めながら歩いて、私はお目当ての水槽にたどり着く。

 そう、クラゲの水槽。
 ミズクラゲが大きく傘を広げて、漂っている。はあ、と私は思わず息を漏らして、見入っていた。

 ここは、地上で唯一『ぶつからずにいられる場所』。クラゲたちは互いに干渉せず、水の流れに身を委ねてゆらゆらと漂う姿は、社会から切り離された別世界。
 誰とも衝突せず、ただ揺れて青い光を浴びる彼らは、どのような気持ちなのか。淡い光を放ちながら、静かに脈打つ姿を見ていると、心の中にこびりついた錆が、ぽろぽろと落ちていくような感覚を覚える。
 ここでだけ、私は息をすることができるのだ。

 ITベンチャーの社内は、いつも騒がしい。社長と席が近いから仕方ないのだが、やれ電話だのやれ会議だの、心が休まる余裕が作りにくい。そんな毎日。

 俺は向江 湊、25歳。システム会社でシステムエンジニアとして働いている。プログラムと向き合うのは得意だったが、対人コミュニケーションには苦手意識がある。深夜まで続くデバッグや無機質なコードを書き続けることは問題ないのだが、自分の思考を言葉にすることは苦手だと自覚していた。
 時計を見ると19時ちょうど。定時だ。今日は仕事の区切りも良いし、上長に確認すると退社しても大丈夫とのことなので、たまには早く帰ることにする。会社を出て駅に向かった。

(そうだ……)

 今日は、自分だけの世界に閉じこもろう。俺は安心できる場所を求めている。それを求めて、いつもの場所に行こう。
 俺は最寄り駅とは反対方向の電車に乗る。3駅ほど向かうと、そこで降りた。ホームを出てすぐ、ショッピングモールがある。だが目的は買い物ではなく、併設された水族館。年間パスポートを通して、青く深い水の世界へと足を踏み入れた。小さな魚たちの水槽を通り過ぎて、奥の水槽へ向かう。

 お目当ては、砂底のある水槽。チンアナゴが展示されている場所だ。他にも、ニシキアナゴ‌とホワイトスポッテッドガーデンイール‌が展示されていて、四方が通路となっておりどの角度からもチンアナゴを鑑賞できるようになっていた。
 砂に潜り、穴から顔だけを出して周囲を伺うチンアナゴたち。彼らは群れてはいるけど、一匹一匹が一定の距離を保ち、自分の根を張っている。その姿は、水の流れに逆らっているわけではなく、ただいなしているだけ。周囲に流されず、自分の居場所で静かに、しかし確かに存在していることを見せつけてくる。

(たぶん俺も……自分のペースで堅実に生きたい。そう思ってるんだろうな……)

 俺はぼんやりと水槽を見つめて、そんなことを考える。……疲れてる、んだろうな。ゆっくりと息を吐いて、俺は視線を上げた。

 私はふと、我に返った。時計を見ると、1時間近くの時間が過ぎていた。もうすぐ閉館の時間になりそうだ。その前に早めに出ていこうと、立ち上がった。
 出口へと向かう途中、チンアナゴのエリアに入る。そこでふと、見覚えのある男性を見かけた。見覚えといっても知り合いではなく、『いつもチンアナゴの水槽を見ている人』という意味だ。
 彼は襟付きの白いビジネスシャツを着て、紺色のスラックスを履いている。黒髪を耳が隠れるほどに伸ばして、水槽を見つめる横顔は鼻が高く、全体的に細い身体という印象を受けた。
 見かける時はいつも、水槽にべったりと張り付いている。両手を水槽手前について、食い入るように見つめている。よほどチンアナゴが好きなんだな……と思いつつ、私も人のことは言えないな、と思う。

(チンアナゴって、そんなに楽しいのだろうか……?)
 私は好奇心に流されて、水槽の周りを一周してみようと考える。水槽を覗きこんで、チンアナゴたちと目が合う。それからゆっくりと歩きながら、彼ら一匹一匹を見て回った。

(……確かに、一匹一匹ぜんぶ違う……顔つき、長さ、動き……)
 確かにこれを見ていくのは楽しいかもしれない。閉館時間までもう少しあるから、もうちょっと見ていこうと、私は水槽手前に寄りかかり、顔を近づけた。
 水槽を見つめていると、ふと、気付いた。位置的に、先程見かけた彼の反対側。つまり、水槽越しに視線が合うのだ。

 水槽を挟んで反対側に、気づけば1人の女性がいた。確か……いつもクラゲを見ていた女性だ。彼女は胸ほどまでの髪を後頭部で一本に縛っている。ネイビーのジャケットにホワイト系パンツを合わせて、ヒールの低いパンプスを合わせていた。
 気のせいかもしれないが、水槽越しに彼女と視線が合った気がした。光と水の揺らぎの中で、初めてまっすぐに、そして長く、交錯した。
 なんだろう、うまく説明はできない。ただ、以前彼女を見た時のことを思い出していた。それは彼女がクラゲの水槽に手を伸ばしかけ、その指先がガラスに触れる寸前で止まった。その表情は思いつめたような、なんとも言えない表情で。その時に、なにかに生きづらさを感じているのではないかと思ったことを思い出す。

 ……いや、やめよう。俺は軽くかぶりを振って、腰を上げた。時計は閉館時間が近いことを示している。明日も仕事があるのだから、あまり遅くならないようにしよう。俺はゆっくりと歩き出して、出口へと歩き出した。

 向かいの彼が、足元の鞄を掴んで立ち上がった。なんとも言えない感情が頭をもたげる。私はなぜ、彼のことを覚えていたのだっけ。
 ……そうだ、いつだったか……。彼はいつも通り水槽を見つめながら、眉根をひそめていた。それから右手を大きく広げて、ゆっくりと水槽に手を伸ばして、触れそうになったところで手を下ろす。その表情は望んでいるなにかを諦めたように見えて、なにか生きづらさを感じているのではないかと感じた。

 ずずん。不意に地面が揺れた。

「!?」
 それが規模の大きい地震であると気付くのに、数秒かかる。床が大げさに揺れて、私は地面に倒れ込んでしまう。そして消える照明。館内に満ちていた楽しい話し声は、まるで吸い込まれるように消え失せ、一瞬の静寂の後にざわめきが広がる。
(……落ち着こう。まずは落ち着こう)
 理性はそう言っているのだが、感情はそうもいかない。パニックを起こしているのが分かる。まずは、灯り。スマートフォンを取り出そう。そう考えて担いでいたトートバッグを……と思ったが、バッグは倒れた時に取り落としていた。

 ずずん。不意に揺れて、俺は水槽の淵に掴まった。すぐに照明が消える。直感が危険だと騒ぎ立てる。だが、慌てると逆に危ない。
 理性に主導権を渡して、すべきことを考える。まずは灯りだ。ポケットからスマートフォンを取り出し、ライトをつける。その状態でぐるりとまわって、まずは位置を確認する。
 がさがさ、とチンアナゴの水槽の方から音が聞こえた。……そうだ、さっきの女性。俺はライトを掲げると、水槽の脇にしゃがみ込み、地面を手で撫でている……いや、なにかを探している。

「大丈夫ですか?」
 近づきながら灯りを照らす。彼女は驚いた顔を上げて、それからすぐに、心底安心した顔を見せた。
「ありがとうございます。鞄、落としてしまって……」
 ライトを周囲に向けると、彼女の後ろ側に落ちているのが分かる。彼女は喜びながらそれを掴んで、中からスマートフォンを取り出す。それから画面を叩き始めた。
「震度5……とは思えないほどだった」
 地震速報を見ながら、彼女は素直な言葉を口にした。その指は僅かに震えて、不安が溢れ出ている。
「良かったら、一緒に出口に向かいませんか」
 俺は右手にスマートフォンを持ったまま、左手を彼女に差し出した。彼女は一瞬戸惑ったようだが、驚きのあまり全身が震えている。自力で立ち上がるのは難しいというのを理解したのか、素直に俺の手を掴んで、なんとか立ち上がった。

「無理はしないでください。慌てず、出口に向かいましょう」
「はい。ありがとうございます」
 俺の言葉に彼女はなんとか答えて、頷く。決意ある目線は強く、まっすぐに暗闇を見つめていた。2人分のライトで館内を照らして、出口に向かって歩き始めた。
「……あ、湊っていいます。よくクラゲの水槽、見てられますよね」
「……え、あ。はい。私は、美波です」
 歩きながら、少しでも気が紛れると思い、声をかける。名乗ると彼女は一瞬警戒したような表情を見せたが、すぐに真顔に戻ってそう答えた。

(しまった。また俺はコミュニケーションでやらかしたかもなあ……)
 彼女に聞こえないように小さなため息をつく。まあ、こんなのも慣れっこだ。付き合いが長くなった時になって初めて、冗談交じりに『第一印象、良くなかったよ〜』なんて言われるのが俺だ。
「湊さん、いつもチンアナゴ見てますよね」
 美波さんが、ふとこちらを向いて、そう言った。表情は真顔に近く、そこからなにかの心境は読み取れない。とはいえ、事務的というわけでもなく、なんとも判断しにくかった。
「あ、はい。好きなんです。チンアナゴ。彼らを見ていると、自分のペースで生きたいと思ってる自分が、望んでるものを持っていると思って……」
「あ、分かるかも」
 美波さんの意外な反応。少し驚いたような微笑み。それから言う言葉は同意だった。
「私、クラゲの世界って、ぶつからずにいられる世界だと思っていて。心から、羨ましいんです」
 そう言って彼女は微笑んでみせる。やっと警戒心が解けたのか、彼女の笑顔はきっといつもの本音なのだろうと思えた。
「分かります。俺も次に来た時は、真面目にクラゲと向き合います」
「ぷぷっ! 向き合うなんて、そんなの大げさだよ」
 俺の言葉に彼女は吹き出して、笑いながら返す。それに俺は恥ずかしくなって、頭をかいた。
「じゃあ、次は私もチンアナゴと向き合います」
 美波さんは笑顔でおどけて、そう言った。一瞬、その言葉が自分に向かって放たれたものか理解できず、少しだけ固まってしまった。

 パッ、パッ、と館内の照明が戻り始める。周囲からは人々の安堵の声が聞こえてきた。
「あ、点いた……非常用電源かな」
「そうかもしれませんね。すぐ復旧して良かったです」
 ぼんやりと言う俺に、美波さんは素直な嬉しさを言葉にする。
 しかし、停電には驚いたが、まさか彼女と会話をするきっかけになるとは思ってもいなかった。まあ、話してどうするのか、そんなことは考えてはいない。ただ、水族館が好きな者として話してみたかった。それだけだった。
「じゃあ、俺、行きますね。また機会があったら」
 出口が近づくと、俺はそう言う。
「はい、助かりました。また機会があれば、ゆっくり話しましょう」
 美波さんは笑顔でそう答える。彼女に手を振って、俺は駅へと向かっていく。

(また、いつか会えるかもしれない)

 彼女との出会いは、明らかに余韻を残している。俺たちは、やがてそれぞれの場所へと戻っていく。でも、またここで再会できる。
 未来への小さな扉が開かれた。そんな気がしていた。


最後までお読みいただきありがとうございました。
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また次の作品でお会いできることを楽しみにしております。

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