見出し画像

短編11「心に栞を残して、」

あらすじ

図書委員の僕の日常の前に、ピンク色のペンケースを置き忘れた3年生の市本さんが現れる。海外での活躍を夢見る彼女だったが……。

 図書委員の僕は、放課後の時間の多くをここで過ごす。いつも通りに本を棚に戻して、貸出と返却の手続きを行う。
 子どもの時から本が好きで好きで仕方なくて、学校の帰り道に歩きながら本を読んでいたほどだ。それを大人から危ないと指摘されてからはしなくなったが、それでも本が好きな気持ちは変わらず、僕は高校生になって図書委員に立候補した。
 ここで過ごす時間。明るい木目のフローリングに木材の棚とテーブル。大量に並ぶ蔵書。窓から入ってくる自然のにおいと、紙とインクの香り。
 それは僕にとっての日常で、そして、とても幸せな時間だった。

 返却された本を抱えて、棚を探す。本の束を手に持って、文学書の棚へと向かう。
「……?」
 ふと、テーブルに近づいて、持っている本を置く。テーブルの上に置かれているのは、ピンク色で布製のペンケースだ。周囲を見回しても、生徒の姿は見えない。誰かの忘れ物だろうか?

 バタン、とやや荒々しい音と共にドアが開いて、一人の女子生徒が駆け込んでくる。それから一直線にこちらを見て、すたすたと速歩きで近づいてきた。
「あ、それ、すいません。私の忘れ物です……」
 彼女は、はあはあと荒れた息づかい。きっと忘れたことに気づいて走ってきたのだろう。長い黒髪が頬に張り付き、白い頬は上気してふんわりと紅に染まっていた。セーラー服のスカーフの色は緑。それは彼女が3年生であることを現していて、僕より2年先輩だった。

「ええと、たしか……市本さんですよね。本を借りられる時に、何度か僕が対応したことがあります」
「そういえば……図書委員の方ですよね」
 そう言って彼女は僕の名札を見る。それから、少しだけ不思議そうな顔をした。そのリアクションに僕は慣れていて、
「本で告げると書いて、『もとい』です。珍しい名字ですよね」
 と、慣れた口調で説明した。
「そうなんだ……ふふっ。私たち、どちらも名前に『本』が入っているのね。偶然にしては、面白いね」
 彼女は無邪気に笑って言う。ふわっとした空気が吹き込まれて、温かい気持ちになると感じる。彼女はどこか、穏やかで優しい雰囲気を持っている、と僕は感じていた。

「愚問だけど、本告くん。本は好き?」
「もちろん」
「ふふっ。本は私に新しい人生を見せてくれる。相談相手にもなってくれる。私の人生に、たくさんの本が関わってくれるの」
 嬉しそうに彼女は言う。この短時間で、彼女がいかに本が好きなのかが、とてもよく理解できたと思う。
「分かります。僕も本が大好きで。子どもの時は学校の帰り道に歩きながら読んでたぐらいです」
「ぷぷっ! 分かる、私もやってました!」
 彼女は思いっきり吹き出して、笑い出す。まるで共犯者同士のような感覚に、彼女が少し心を開いてくれたのだと思えた。
「……ああ、おかしかった。そろそろ帰らないと……あ、ペンケース。ありがとうございました」
 彼女は軽くお辞儀をしてから、図書室を出ていった。それをしばらく見つめていたが、我に返って本の束を持ち上げた。
 本当に本が好きな人なんだなあ。僕は素直な感想を抱いて、棚に本を戻し始めた。

 それからは、お互いに見かければ挨拶をするようになった。貸出の手続きをする時は本の内容についても話したりして。時には共通の著書について話すこともあった。
「本告くん、これ貸出お願いします」
 カウンターで本の整理をしていると、市本が一冊の本を片手に、声をかけてきた。
「森鴎外の『舞姫』ですか。僕も読みました」
「うん。私、日本人が海外で暮らす話が好きなの」
 彼女は微笑みながら、本を差し出す。僕は受け取って裏面のバーコードを読み込むと、差し出した。彼女はそれを受け取り、愛用のピンク色の栞を挟む。それから、まるで大切なもののように、胸にぎゅっと抱きしめて、いたずらに微笑んでいた。

 その仕草に僕は、胸が少しチクリとすることに気づいた。彼女の言動はいつも、穏やかで心地よい、そよ風。心の中にすっと入ってきて、すっと流れていく。そんな心地よさを感じていた。
「私ね、いつか海外に行きたいんだ。自分の力で活躍したいの」
 彼女は静かに語る。そう言う彼女は子どものような素直さと、無邪気な野心に包まれている。そう言う彼女はとても楽しそうで、でも、不敵で。それでいて、その大きな瞳は輝いている。
 それに僕は、少しはっとして、彼女をまじまじと見つめてしまった。ずっと、彼女とは本のことばかり話していた。つまり僕は、彼女がなにを考えているかなんて、いままで知ろうともしていなかったことに気づいたのだ。

「? 本告くん?」
 彼女は不思議そうに僕の顔を覗き込む。だが僕はそれに気づかず、違うことを考えていた。……僕は、置いていかれてしまう。背筋が急に冷たくなるような、そんな恐怖を感じていた。
「……あ、市本さん。どうしたんですか?」
「それはこっちのセリフ。ぼんやりして、どうしちゃったの?」
「すみません。ちょっとぼんやりしていました」
 そう言って、照れ笑いでごまかす。彼女もつられて少し笑う。長い髪が少し揺れていた。

「市本さんの夢、叶うといいですね」
 話を戻そうと、素直な気持ちを言葉にした。きっと真面目な彼女は、その夢を手に掴むために努力するだろうし、いつかその果実は実るのだろうと。
「うん、ありがとう。……でも……」
 無理に作った微笑みを見せて、言葉はそこで止まってしまう。それがどういう意味か、僕には分からない。

 でも、ただ。
 それ以上は踏み込んではいけない領域なのだろう、ということだけは察することができた。
 言葉に詰まる僕を察してか、彼女は「ありがとう。またね」とだけ言って、図書室を出て行った。

 ざあざあと、強い雨の音が響いている。図書室の窓から見える空は暗く、雨雲と窓に打ち付ける水滴がどこか悲しげな空気を作り出していた。
 最後に市本さんと話してから、1週間ほど経っている。毎日ではないが数日おきに来ていた彼女が長期間来ないのは珍しいな、と感じていた。

(……病気とかじゃないといいけど……)

 ふと湧き上がった心配を、頭を左右に振って追い出す。考えても仕方ない。またすぐに会えるだろうから。
 やがて時間が過ぎ、空が暗くなり始める。僕は席を立って、カーテンを閉めようと窓際に向かった。

「……!」

 ? どこか遠くから声が聞こえた気がした。思わず振り返って室内を見回すが、それらしき人はいない。
 もっと遠く、外から? いや、まさかこんな豪雨の中で……?
「!」
 窓から外を見る。ちょうど校舎の裏側で少し離れたところに塀があるのだが、そこに人影があった。

「市本さん……?」

 不意の出来事に目眩が起こる。思わず両手をばん、と窓について、体重を預けてしまう。それから目を見開いて、彼女を見つめていた。
 豪雨の中、彼女は立っていた。足元には開いた傘が落ちている。右手にはスマートフォンを持っていて、誰かと話している。いや、激情を言葉に乗せて、叫んでいる。話の内容までは聞き取れなかったが、この大きな雨音の中でも、彼女が叫んでいることが分かった。

「いったい……」
 僕は思わず呟く。なにが起こっているのか、さっぱり理解できなかった。
 しばらくして、彼女は力なく右手をだらりと降ろして、それからゆっくりと、地面に膝をついた。水たまりについた膝は水を撒き散らし、スカートの裾が泥に染まる。

 どうすれば……どうすればいいんだろう。僕には分からない。いや、とにかく、行くんだ。そこに行くんだ。
 そんな結論にたどり着いて、窓を離れる。傘立てから傘を取り出して、校舎裏に走る。

 だが――彼女はいなかった。彼女のものだろう、紺色の折りたたみ傘をその場に残して。
「……」
 僕は、言葉にできない感情に包まれていた。どうすれば良いのかも分からない。無力感や虚無感、だいたいそういうものだったが、この感情を表す言葉なんて、ない。
 落ちていた傘を取り上げる。骨を畳んで、折りたたむ。
 ただ、ぼんやりと、それを見つめていた。

 いつか彼女が取りに来るだろうと、図書室の傘立てに傘を置いて。それからまた、1週間が過ぎようとしていた。

 結論から言うと、彼女が傘を取りに来ることも、会うことも、二度となかった。彼女は僕の世界線から完全に消えてしまったのだ。

 最後に彼女を見てから2週間ほど経った頃だろうか、傘を置き忘れている生徒がいるという理由で、教師に話を聞いてみることにした。彼女の傘には名札がついていたのだ。
 教師はプライベートなことだからあまり詳しく話せない、という前置きをおいてから、説明してくれた。

 彼女は、転校していた。

 理由は家庭の事情で、これ以上は話せないと教師は言う。それに僕は足元が崩れて奈落に飲み込まれるような感覚で、気を抜けば倒れてしまいそうだと、ぼんやりとした頭で考えていた。
 転校先は……そう言いかけて、でも、口にはできなかった。個人情報だから教えてもらえるはずがないと思ったし、聞いて僕はどうするのか。分からなかった。
 職員室を出て、とぼとぼと歩く。足が重い。いや、それを通り越して、足があるのかも分からない気がした。

 その夜、僕はベッドで泣いた。ただ、泣いた。

 それから1週間ほど経って、僕は相変わらず図書委員の仕事を続けていた。夢中になっていれば、彼女に置いていかれたという感覚を思い出すことはない。そう思いながら。
 そうだ。僕は置いていかれてしまった。まさかこんな形で彼女と会えなくなるなんて。そんなこと、想像もしていなかった。
 いつも通り本の貸出手続きをして、本を棚に戻して。掃除をして、カーテンを締めて。鍵を締めて確認して、また明日、と心の中で言ってから帰宅する。辛い時はルーティンに身を任せることで、回復が早くなると聞いたことがある。いまの自分にできるのは、それだけだ。
 そうそう、最近の僕は英語の勉強を始めた。きっと彼女に感化されたのだろう、新しい世界に感心を持ち始めていて、海外の文化に興味が湧いてきたのだ。この気持ちがいつまで続くのか、どうなるのか、それは分からない。もし卒業までこの気持ちがあれば、海外留学をするのもいいかも、と思っていた。先のことを考えると、ちょっと楽しい。

 傘立てにはまだ、彼女の傘がある。
 きっといつか、『あ、それ、すいません。私の忘れ物です……』なんて言いながら、そよ風と共に彼女が入ってくる。そんな気がしていた。

 ……いや、違う。
 僕が、そう期待していたから。


最後までお読みいただきありがとうございました。
もし気に入っていただけましたら、スキを頂けると励みになります。
また次の作品でお会いできることを楽しみにしております。

#短編小説 #恋愛小説 #初恋 #図書館 #忘れ物


いいなと思ったら応援しよう!

今津 風色 よろしければ応援お願いします。 いただいたチップは資料の購入費用、取材費などの活動費として有益に使わせていただきます。