短編9「合わせた靴裏」
あらすじ
喫茶店でアルバイトをする私と、旅を愛する灰色の瞳の彼。言葉は少し噛み合わないけれど、彼の語る異国の風景や、不思議な目の輝きに、私の心は少しずつ揺さぶられて……。
色素の薄い灰色がかった瞳に見つめられたら、言葉を失ってしまう。いや、見つめているのはいつも私で、彼はそれを穏やかに返しているだけだ。
私が喫茶店のレジ打ちのアルバイトを初めてから数ヶ月経つ。私は肩上に切りそろえられた茶髪を気だるくかき上げつつ客の対応をしている。いつもの毎日。白いシャツは汗で濡れるし、デニムパンツが蒸れて気分が悪い。「おはよーっす」
彼が入ってくる。金髪を適当にまとめて、国籍の分からないTシャツになんだか派手なパンツ。灰色の瞳の彼は、いつも通りマイペースだ。
確か、最初に会った時の彼は、気持ち悪い顔をした男が左腕を押さえている絵の描かれたTシャツを着ていた。「そのTシャツ、なんの絵……なんですか?」と挨拶より先に聞きたくなった。彼は左袖を見せながら「これネジ式なんですけど、ここにシリアルナンバーが入ってるんですよ」。
確かに左袖にはスタンプで押されたような3桁の数字が入っている。私はシリアルナンバーにどんな価値があるのかよく分からなかったので、素直に頷くことにする。それ以前に、彼の言葉は答えになっていない。
「へぇ」と声を漏らすと、彼はお気に入りのTシャツを褒められたと思ったのか、満面の笑みを浮かべて誇らしそうに、テロテロに薄くなった生地のお腹あたりを軽く引っ張った。ネジ式とはなんなのかという疑問はそのままに、黒い革のパンツが残暑にはとても似つかわしくなかったことを覚えている。
ようするに、彼の口から出てくる単語は、いつもよく分からなかったのだ。
おじさんたちが出入りする喫茶店のカウンターの中にただ居ること。それが私たちに与えられた仕事だった。レジ以外の仕事もあるので1人が離れてもいいように2人ワンセットのシフトになる。レジ以外の仕事と言っても、トイレ掃除や椅子とテーブル拭き、観葉植物の水やり、ごみ捨てなど簡単なものばかり。それらの作業はすぐに終わってしまうので、私たちはいつも、どうやって時間をつぶすかばかりを探していた。
「タイに行ってきたんですよ、夏休みに。写真あるけど見ます?」
彼が見せてくれた写真は、どれもいまの生活では味わえないものばかり。小汚い屋台、色の濃い料理、うねった文字が書かれた看板、屈託のない笑顔を向ける子供たち。なにを撮ろうとしたかもわからない写真もあり、インターネットでは見かけても私の目がリアルには捉えたことのない景色が並ぶ。夏休みや冬休みを利用して海外へ一人で行くのが彼の学生生活と言ってもいいくらいで、嬉しそうに写真それぞれのエピソードを語る彼の目が私を離さない。
「こっちはカンボジア。あとミャンマーもあるかな。ミャンマーの子たち、日本人とすごく似てない? 格好も着物っぽくてさ、顔も似てるんだよね」
「あ、言われてみるとそうだね、いろんなところを巡っているんだね」
言葉を合わせながら私の思っていることはひとつ。写真よりも、ただ変わったその目の色をずっと見ていたい――。
アルバイトは5人で入れ替わりつつ、シフトを組んでいた。5人の学生がそのカウンターの中で交流することになる。みんなお金がないと言いながら、たまに安い居酒屋に集まって、一緒に飲むこともあった。
「お前らいつもコンバースだな」
笑いながら一人が、ビールジョッキを片手に、向かいに座っている私と彼に目をやる。
もともと私は気づいていたけれど、いま知ったかのように「ほんとだ」と声を高くした。見なくても知っている、彼のスニーカーは豹柄で、サイズはおそらく28センチくらい。ハーフパンツを履いている彼のキュッと締まった足首あたりをわざと見た。骨ばった足首、改めて大きな足だなと感じた瞬間。
彼は自分の足を上げて足裏を私に向けた。
意味がわかるのに少し時間がかかる。手の平を合わせるように、足の裏を合わせろという意味だ。
私も足をあげて足裏をぴったりとくっつける。私の足のサイズは23センチ。明らかに彼のほうが一回り大きい。
「ずいぶんサイズ違うなー」と他の子たちは言っている。
なぜかとてつもなく恥ずかしくなって、顔を上げられなかった。足を離したあとも、いろんな考えが頭の中を巡る。
……彼は、この足で何カ国も旅してきたのだ。この足の裏で私の見知らぬ土地を踏んで、歩いて、砂埃を浴びて、時には走ったのかもしれない。喧騒の中、立ち止まって地図に目を凝らす彼の姿が見える。
そう思えば、前向きに考えれば。彼と足裏を合わせたことで、私のスニーカーも少しは経験値を積んだような気がした。私が歩きたいと思った時に、少しは力になってくれるだろうか。
それからしばらくたって。アルバイトの休憩室で、次の旅の計画が話題になった時があった。皆、世界中の色々な国の名前を出す。すべて気になる国ばかり。私はいつしか、彼らの影響を受けて様々な国のことを調べ始めていたので、かろうじて国名ぐらいは理解できた。
「私も、海外行こうと思ってるんです」
一瞬、場がしんとなった。いままで一度も旅の話をしたことなんて、なかったからだ。
「いいね! どこに行くの?」
灰色の瞳を好奇心に輝かせながら、彼は少し驚いて見せて、それからそう言った。
「近場だと韓国か台湾。あとはタイとフランス、シンガポールかな」
インターネットで調べたランキングに忠実に、私はあたかも自分の意志であるかのように言う。いまの私の知識では、それが限界だ。
「へえ、ちゃんと初心者向けの国選んでるじゃん。分かってるな〜」
彼がおどけて言う。その優しい視線が、私の背中を押す温かい風になったのを感じる。ふわっ、と優しく背中を押すそれは、温かい。私の身体はその勢いに乗せられて、ゆっくりと歩き出すことができるのだ。
「韓国の写真、見る? 行ったの結構前なんだけど」
「もちろん、見たいです!」
「いいよ。これはソウルで見た南大門だけど……」
彼はスマートフォンの画面をスライドさせながら、たくさんの写真を見せてくれる。それはどれも輝いていて、私の知らない世界を彩っていて。
「あなたの見た世界を、私も見てみたいんです」
思わず、口にしていた。
それに彼は不思議そうな顔をして、こちらを見つめている。
……しまった。心の底から湧き上がる想いを、素直に告げてしまった。どうしよう。戸惑うが、出した言葉はもう戻らない。なにかフォローしなければとは思うが、うまい言葉は見つからない。
「おう。俺の背中を追いかけて、早く立派な旅人になれよ」
彼がおどけて言った。どうやら私の危惧はいらぬ心配だったらしく、自分が見せた写真に私が感化されたと解釈してくれたようだ。それに少し安心して、また彼の瞳を覗き込む。
……そうだ。旅の話をする彼は、いつも瞳が輝いている。光源が複雑に絡み合い、内から溢れるたくさんの希望。
そういったものが入り混じって、彼の瞳はいつも、不思議な色をしていたのだ。
それから私は、空き時間で旅の計画を立てるようになった。様々な国の文化を調べて、見慣れない文字の羅列や建築方式の違う建物に心を踊らせる。胸が高鳴った。
彼のテロテロになったTシャツが幾多の異国の風を浴びてきたように、私のコンバースもいつか見知らぬ砂埃を浴びる日を、夢見ているようだった。
彼の言葉が、私の心に新たな地図を描き出してくれた。あの時、彼の靴裏と合わせた私の靴裏は、確かに未来へと繋がっていたのだ。
私はもう、観客としてただ見ているだけの私ではない。いつかこの足で、彼の歩いた道を辿り、いつかこの目で、彼の見た景色を焼き付けたい。
その決意を胸に、私はまだ見ぬ世界へと続く扉にそっと手をかけた。この一歩が、私だけの人生の始まり。新しいなにかと出会えることに、私はずっとワクワクしていた。
いつか、彼の背中に追いついて。伸ばしたこの手が、彼の背中に届きますように。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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また次の作品でお会いできることを楽しみにしております。
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