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短編8「くまさんの手で、ゆらぐ」

あらすじ

「ただの患者」と「先生」。それ以上でもそれ以下でもない関係だと理解しながらも、眞貴子は……。

 私は、彼の手が好きだ。
 それは、あたかも特別な生き物のように私の体を撫でる。私は、それに幸せを感じている。わずかな時間しか会えないその手が恋しくなると、私はついついふらりと足を向けてしまう。
 でも、多忙な彼の手に会えるのは、週に一度きりの約束しか叶わない。

 ——大森接骨院。
「浦上 眞貴子さーん」
「はい」
 施療室から顔を出した看護師が、バインダー片手に私の名を呼ぶ。私はゆっくりと席を立つと、まるで甘い蜜の香りに引き寄せられたかのように、施術室へと入っていった。

「こんにちは」
 いつもの笑顔で微笑みながら丸椅子を促すのは、整骨院の院長、大森英明先生。
 大森なんて名前にふさわしく、天然パーマのもしゃもしゃした髪にがっしりとした大きな体で、その体格はまさに熊。まさに森のくまさんだ。
 それでいて目尻の垂れた輝く瞳は、御年50歳を越えた初老のそれじゃない。まるで子供。好きなおもちゃを見つけた少年が見せる、好奇心と感激と喜びが垣間見えている。

「浦上さん、腰の調子は? あれから一週間、無理せず過ごせたかな?」
「はい、そのつもりですが……どうにも仕事が忙しくて」
 私は促されるままに傍らのベッドに向かい、パンプスを脱いでうつ伏せに寝転がる。薄手のカーディガンを籠に放り込んで、アンダーシャツ代わりの白いキャミソール姿になった。
「そうか。働き者なのはいいことだけど、自分の体は大事にしないとね。一生付き合うものだから」
 言って先生はベッドに膝をついて私の背中を見下ろすと、うむ、となにかに納得したように頷いてみせてから覆い被さるように手を伸ばす。
 まるで巨漢が捕らえた乙女へ襲いかからんとしているその光景……いや、三十路の私が乙女とは、我ながら厚かましいと思うけど、知らない人にはそう映るかもしれない。救いは先生が白衣を羽織っていることで、それで目撃者はかろうじて緊急通報をしないで済むのだ。

「……背筋、かなりついてきたね」
「はい。言われた通りに毎日ストレッチを続けています」
 私の腰を何度か撫でただけで、その僅かな変化に気づけるあたり、さすがはプロの面目躍如といったところ。元々猫背気味だった私は腹筋と背筋があまり発達しておらず、背骨を支える力が弱いらしい。立ち仕事はもちろん、座り仕事でさえ座り方とクッションによってコンディションが変わる。

 半年前に初めてここを訪れた時、施術を始めた先生は血相を変えて、『あなた、このままだと、二度と治らないガラスの腰と一生お付き合いしなくちゃいけなくなりますよ』と、なんとも恐ろしいことを教えてくれたのだった。
 それ以降は毎日の簡単なストレッチを欠かさないでいた。元々筋力のあまり無い私だったが、少しずつではあるが腰の痛みが緩和されたように思う。

「——ふむ。格段に良くなった。素晴らしい」
 手慣れた手つきで腰を揉みほぐしながら、先生は呟くように言う。

 ——彼の手は、世界を開く扉だ。私の心がゆらぐ。

 その大きな手で触れられると、心の中の柔らかい部分を優しく掴まれる気がする。いや、整えられているという言い方の方が適切かもしれない。普段は人に見せない、淡い光を放つ気持ちまで優しく整えられているような気がするのだ。それをどのような言葉で表すべきか、私には分からない。けど、ゆらぐ。
 私の体温より先生の手は温かく、触れるたびにその熱を分け与えてくれる。柔らかい指先の感触が皮膚から差し込まれ、筋肉と骨を撫でてゆく。

「浦上さん、そういえば仕事は? この間、大きなプロジェクトを任されたって言ってたじゃない」
「……あ、はい」
 夢想の中から現実に戻るための一拍をおいてから、
「まあ、大きな商社ですから……任せられたといってもお飾りみたいなものです。結局は私の上司が手や口を出してきて、そのせいでなんとかうまくまわってます」
 と、自嘲気味な笑顔を作ってから、ゆっくりと答えた。実際そうなのだから、私はそう言う以外になんと返せばいいのか分からなかった。
「なにを言ってるんだい」
 先生はいつものように手を動かし続けながら、その瞳を細めてくしゃっと笑うと、まるで年端のいかない幼児でも諭すかのように、ゆっくりと続けた。
「世の中には、お飾りでも土俵に上がることすらかなわない人だっているじゃない。浦上さんは、幸せだと思うよ」
 私はうつ伏せのまま、それに少し目を見開いて硬直してしまっていた。言われて初めて気づいた。目の前の業務に追われて、シンプルなことを見落としていた自分に。
「……気づけませんでした」
 だから、私は素直にそれを口にすることにする。気恥ずかしさなのか羞恥心なのか、かあっと顔がわずかに火照ったことに気づく。会社では誰も教えてくれないことだ。

「浦上さんは、環境にも人にも恵まれて幸せなんだよね。だから、小さな幸せが当たり前になって、有り難さを見失う時もある。そういうのって、誰にでもあるよね」
 先生は施術を続けながら、静かに言った。その声は落ち着いた抑揚で、どこか自分に言い聞かせるような、そんな声だった。
「……先生にも、そういう時あるんですか?」
「そりゃあもう。こうも毎日毎日、たくさんの患者さんが来てくれると、小さな見落としをすることがあるんだよね」
 先生は照れ笑いのように小さく笑って、
「僕からみると毎日の施術は一日に何回も行うことなんだけど、それぞれの患者さんにとっては大切な一回なんだよね。だから、毎回が真剣勝負」
 と、噛み締めるような口調で言った。

(……)

 ——私は、なにも答えられなくなっていた。
 自分は、そんな気持ちで生きていただろうか。自分のことで精一杯で、そういう視点でものを見ていなかった。
「……先生にとって、私もその真剣勝負の一人なんですか?」
 口をついて出たのは、そんなふとした疑問。言葉にしてから、そんなことを聞いてどうするのだろうと我ながら思ったけど、出した言葉は戻らない。
「当たり前じゃあないか。浦上さんは、僕の大切な患者さんだよ」
 先生は臆面もなくさらりと言う。期待通りの回答はほっと安心するものの、どこか物足りなさも感じる。それはあまりにも自然すぎて、私の真の意図に気づいていないと思えたのだ。もっとも私自身、先生になにを求めているかなんて、理解してはいないのだけれど。
「患者さん……そうですよね」
「……?」
 不思議そうな顔をする先生に、解答は渡さない。多少は悶々とした日を過ごしてくれないと、フェアじゃない。もっとも、それは私の願望を通り越してすでに妄想なのだけれども。私は小さくため息をついて、頭を乗せていた腕を組み直した。

(まあ、分かっていたことじゃない)

 ……そう、分かり切っていることだ。私は数多い患者の一人で、それ以上でもそれ以下でもない。それが現実。まごうことなき事実。
「……浦上さん、力が入りすぎ。体の力を抜いて」
 先生が言うのに初めて、私は妙に力んでいる自分に気づいた。緊張していたのか、私は全身力んでしまっており、腰にマッサージをする先生を困惑させてしまっていた。
「そんなに力が入っていると、マッサージの効果が弱くなるからね」
 穏やかに訴える先生の言葉に、私は反応しなかった。

 ……いや、本当は分かっていた。緊張を解くことのできない自分に。好きな人の前で緊張しない方がおかしい。そう無理やり自分に言い訳する。
 やがて1時間の施術は終わり、先生に御礼を言ってから、接骨院を後にした。

 帰り道、ふと雑貨店が目に入って、何気なく店内に入る。最近オープンしたのは知っていたが、忙しさに追われてショッピングを楽しむ余裕もなかった自分に気付く。
 店内は木材のテーブルや棚に彩られ、所狭しとたくさんの食器や布製品、アンティークな小物に溢れていた。

(わくわくする……こんな気持ち、忘れていたかも)

 そうだ。心躍るというシンプルな感情を、私はどこかに置き忘れていたのかもしれない。そう気づいて、少し気恥ずかしいというか情けないと言うか、なんとも難しい気持ちになってしまった。

(……あ)

 ふと、目に入ったのは変哲のないマグカップを手に取る。デフォルメされた熊のイラストが施されているのだが、その顔が先生にそっくりだったのだ。
「ぷっ」
 私は思わず吹き出してしまった。偶然にしては、できすぎじゃないか。これをプレゼントしたら、先生はどんな顔をするだろう。
 「ありがとう、嬉しいよ」といつも通りに答えられるのか、それとも「えっ、これを僕にかい?」と驚くのか。それとも――。
「……」

 それとも。ただの患者からのプレゼントなんて……迷惑だろうか。

 私の思考は嫌な袋小路に入り込み、出口を見失ってしまう。そうだ、ただの患者から物をもらっても、先生を困らせてしまうだけ……そんな悲しい結論に行き着き、私はマグカップを棚に戻した。

「へえ、驚いた」
 翌週の施術時、先生は腰を少し揉んでから、少し素っ頓狂な声でそう言った。
「浦上さん。腰の調子、ほとんど問題ないね。来週で一度、卒業にしようか」
「はい?」

 先生の説明に、私は思わず変な声が出た。いや、腰の状態が大丈夫と認めてくれたのは嬉しい。でも、それは、つまり……先生と会えなくなる。そういう意味だ。
 言葉に詰まる。身体が整ったのはとても嬉しいし、そもそもそれが目的で通っているのだから、なにも問題ない。
 ただ、そうしたら先生に会えなくなってしまう。くまさんの手での施術も受けられなくなる。そして、その代わりに他の誰かが先生の施術を受けるのだ。私から見たら、それは納得のいくものではない。私は先生の手を失ってしまうのだ。この喪失感は言葉にできるものじゃない。上手に説明もできない。

「……はい、分かりました。それでは来週を、最終日でお願いします」
 色々と考えていたにも関わらず、私の口は事務的な言葉をさらりと出した。ここでごねてもなにかが変わるとは思えなかったし、先生にいらぬ心配をさせるのは申し訳なかった。
「本当に良かった。あまり無理せず、でも、何かあったらいつでも頼ってくれていいから」
 笑顔で言いながら先生は見送ってくれる。その笑顔はとても嬉しい。これが見たかったのだから。でも……来週でこの時間も終わってしまう。
 私は接骨院を出ると、ぼんやりとしたまま帰宅した。

 大森接骨院への最後の通院、前日。ふと私は思い立って、先日立ち寄った雑貨屋にいた。

 ……あれから、随分と頭を悩ませた。考えすぎた。ようは三十路の大人としてどうよ? という点を耳からこぼれるほどの脳内会議をした。会議の結論は「最後の通院時にプレゼントを送ろう」ということで満場一致した。私の頭は時々いい仕事をすると自画自賛する。我ながら、時折妙案が閃くものだ。

「なにを贈れば、喜んでもらえるんだろう……?」
 私は悩みながら、店内を見て回る。できれば、先生が私に与えてくれたものに見合うものを贈りたいのだ。いや、大げさなのは分かっている。でもそれほど、先生の存在は私にとってかけがえのないものなのだ。
「そうだ、手を使う仕事だから……」
 言ってケア用品の棚に向き合う。高級ブランドのハンドクリーム、手をほぐすマッサージグローブ、手指の低周波治療器。どれも先生にとっては有り難いものだと思う。
「そうそう、こういうの喜ばれそう……」
 これなら、きっとあの優しい瞳で「ありがとう」と言ってくれるだろう。でも、ちょっと違う気がする。きっと、誰でも必ずこの道は通るだろうし、受け取った側も感じると思う。

 はあ、とため息をつきながら商品を棚に戻す。プレゼントは本当に難しいものだな、と再認識する。先生が本当に欲しいものが分かれば、心を読めれば、こんな悩みを持たなくてもいいのに。
 きっと誰でも思いつくような品では、先生の心には響かないだろう。私だからこそ贈れるもの、先生に「ありがとう」の気持ちを伝えられるものは、一体なんなのだろう。店内を巡る足は重く、焦りが募るばかりだった。

「……」
 店内の商品を丁寧に見て、比較して、考えて、悩んで。正直、ちょっと疲れが出てきた。
 考えても先生の欲しいものなんて分かるはずがない。そこへ、店内の多数の商品たちが微笑みかける。この中で本当に良いプレゼントなんて、簡単に見つかるはずがないじゃないか。私は、まるで思考が停止したかのように、その場に立ち尽くしていた。

 どうしたものか……考える。いや、もう、考え尽くしたのでなにを考えればいいのかも、分からない。万策尽きた気がする。それぐらい、疲弊していた。時間にはまだ余裕がある。他の店舗を見てまわろうか……そんなことを考えながら、店舗の入口に向かってとぼとぼと歩いていた時。
 棚に並ぶ、ある商品に目を引かれる。マグカップ。そう。先日見つけた、先生によく似た熊の顔のイラストが入ったマグカップ。白いマグカップは新品ならではの輝きを放ち、笑った熊のイラストが心を和ませる。
 私は、ゆっくりとそれを手に取って。先生が休憩中にこれを使って飲み物を飲むシーンを想像した。きっと先生は、いつも通りに笑いながら、お茶を飲むだろう。きっと、「このマグカップ、患者さんにもらってね。良い品だろう?」と従業員に言うのだろう。

「……それしかない!」
 私の中の迷いが一掃された。まるで運命のように、そのマグカップが私を呼んでいる気がしたのだ。マグカップの入った箱を手にすると、レジへと進む。プレゼント仕様に包んでもらって、メッセージカードまでつけてもらう。カードには「本当にありがとうございました」とありきたりな言葉を記した。いや、それだけでは足りない。続けて「また頼らせてください」と添える。よし。
 会計を済ませてプレゼントの入った袋を持って、私は帰路につく。
 ……うん。明日の準備は、完璧だ。

 翌日。
 私は大森接骨院の前にいる。ドアの前に立ち、深呼吸。
 私は、先生にたくさんの思いを伝えたい。いや、伝えなければいけない。施術で身体を整えてもらったこと。癒やされたこと。心に暖かさをくれたこと。まだある。先生の言葉に心まで解きほぐされたこと。新たな視点を与えてくれたこと。

 そして――先生への淡い想いが、私にとって小さな幸せであること。全てを、できる限り伝えたい。
 ……ゆらぐ。私の心が、ゆらぐ。

(きっと……)

 先生の手は、これからも私の心を温め続けてくれるだろう。そう信じたい。
「よし」
 決意を言葉にしてから、私は接骨院のドアに手をかけた。


最後までお読みいただきありがとうございました。
もし気に入っていただけましたら、スキを頂けると励みになります。
また次の作品でお会いできることを楽しみにしております。

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