短編7「二人の物語が、始まったあの日」
あらすじ
暇を持て余す塾講師・土谷頼久と、夢を追い求める真面目な女子高生・葛城入香。進路が決まり、塾を卒業していく入香は、ある日……。
「暇だねえ」
俺は若干やさぐれたような、拗ねたニュアンスの声でひとりごちて、しかめっ面のままゆっくりと息を吐いた。
白いワイシャツに紺色のスラックスを履いて、椅子の背もたれにどっかりと体重を預けて、口にはシャープペンをくわえてぷらぷらと揺らし、適当に足を組んで。誰がどう見ても「暇を持て余している塾講師」にしか見えないはず。多分。
暇なのも当然で、いまは授業中だった。俺が務めているのは進学塾なのだが、季節は秋の気配が街を染める頃。すでに進学が決まって来なくなった生徒も多く、教室はガラガラ。お陰でやることもなく、こうやって授業がない時は暇を持て余しまくっている、というわけだ。
さよならー、とまばらな声が聞こえたかと思うと、教室のドアが開いて生徒たちがぱらぱらと帰ってゆく。
「はい、さよーならー」
俺はそのままのだらしない格好のまま、だらしない声で生徒たちを見送る。元々威厳もなにもないので気楽なもんである。
「……土谷先生」
呼ぶ声に振り向くと、生徒の一人が最後に教室から出て、かけた眼鏡を外しながらこちらに向かってきているところだった。腰までの髪を長い二本の三つ編みに分け、白いブラウスの上にベージュ色の学校指定半袖ベストを羽織っている。ベージュにチェックの入ったスカートは膝頭より下に垂れて、最近の女子高生事情を考えると長い方だ。
「お、イルカちゃん。そういや進学決まったんだって?」
俺の声にイルカちゃんの顔はほろほろと笑顔になってゆき、三つ編みをゆらゆらと揺らしながら何度か、大きく頷いた。
「はい。先週合格をもらいました」
にこ、とイルカちゃんは穏やかに上品に微笑みながら、もう一度頷いてみせる。よほど嬉しかったのだろう、全身から喜びのオーラがだだ漏れていた。
彼女はこの塾に通う生徒の一人で、高校三年生の葛城 入香。ジュール・ヴェルヌの『海底二万里』をこよなく愛する両親の想いがその名前に表れている。もっとも『海底二万里』ではノーチラス号がイルカのようだと表現されているだけで、イルカは登場しないのだが。
その外見の通りおとなしく穏やかな大和撫子候補で、勉強はそつなくこなす。その中でも国語の成績が抜群にいい。そして、本の虫なのだ。そんなわけで進路もシナリオライターを選択し、専門学校をいくつか受験していたはずだ。周囲はそれだけ成績がいいのだからと有名大学の文学部を勧めたらしいが、それを頑として跳ね除け、見事将来の夢を勝ち取ったのである。
そんな真面目なイルカちゃんだが、ズボラの化身とも呼べる俺になぜだか妙に懐いている。年齢差が干支ひと回りあるから、年の離れた兄貴分という感覚なんだろうか。もちろん、俺もこの子を妹分だと思っていて、異性として意識したことはない。
「そっか、良かったじゃん! これで卒業までは遊び惚けてられるな」
「もう、土谷先生ってば。そんな暇なんてないですよ、高校を卒業しなきゃいけないし。時間を作ってライティングの勉強もしないと」
イルカちゃんは楽しそうにけらけらと笑って、
「でも、たまにはゆっくり休みたい。三年になってから、ずっと勉強勉強ばかりだったから」
と、秋の天気が変わるぐらい、くるりと表情を変えて疲れた顔を見せて、うつむく。ため息までこぼれるというおまけ付きで。
「ま、終わったし、別にいーじゃん」
「……先生、相変わらず適当だね」
「まあね」
俺はおどけて親指を立ててみせる。この時の俺はまるで、映画に登場するこの後に死ぬことが決まっている、三枚目のように映ったことだろう。
「……あ、土谷先生」
ふと、舞台の場面転換のように空気が変わる。イルカちゃんが不意に微妙な空気を作り、戸惑うようなためらうような、複雑な表情を作ったからだ。
「なんだ? 早く言わねえと俺、もう帰るぞ」
「……!」
冗談めかして言うと、イルカちゃんはぎょっとした視線を上げる。まあそれも計算のうち。からかうと面白いんだ、イルカちゃんは。
「えっと、その。……合格祝い、欲しい」
「……」
——珍しい。こいつが自分からなにかをねだることなんて、知る限り一度もない。この半年ほど、ざっくばらんな付き合いを続けていたにも関わらず、だ。
「あー、じゃあ飯おごってやるよ。……いいよな?」
席を立ちながら、最後の一言は隣のデスクの同僚に言った。当たり前のことだが、講師と生徒のプライベートな交流はタブーのひとつ。だがまあそこはケースバイケースってことで、納得できる理由があるなら皆も大目に見てくれる。俺は自分の教え子を祝ってやるぐらい別に問題ないよね、という意味での「いいよな」のつもりだ。
「いいんじゃない。祝ってやんなよ」
同僚も至って普通に返した。俺が帰ると戸締りなどは彼の仕事になるのは分かっているが、どうせお互い様で持ちつ持たれつだし、暇ですることもないので、別に構わないと判断してくれたんだろう。持つべきものは物わかりのいい同僚だ。
「おー、助かる。じゃ、行こうか」
イルカちゃんの返事を待たず、俺は椅子に掛けてあったジャケットを羽織る。足元のカバンをひっ掴むと、そのままドアへと歩き出す。
少し遅れて我に返ったイルカちゃんは、ばたばたと慌てて掛け出した。
「——うわあ」
テーブルに並んだ料理を見回してから、イルカちゃんは素っ頓狂な声をあげた。二人の前の狭いテーブルの上には、所狭しとたくさんの料理が並んでいる。所詮はカラオケのフード類なので、別に大したモンではないのだが。
それでも、秋ならではの茸づくしの炊き込みご飯、ボウルから溢れるほどに盛られた旬野菜のサラダ。オーブンでじっくり焼き上げたラザニアに、備長炭で焼かれた焼き鳥の盛り合わせ。
国籍もクソもない品揃えだったが、イルカちゃんにとってカラオケというものは、ワンドリンクを頼んでフリータイムで長居するためのものだろう。いや、そもそもイルカちゃんはカラオケに来たことがあるんだろうか? まあいいや。とにかく、イルカちゃんにとっては確かに、異様な光景が広がっているのだった。
「ま、食べようか。俺も腹減ってるし」
俺はイルカちゃんの答えを待たず、箸をその前に置いてやってから、取り皿を掴みつつ、自分の箸を料理に伸ばした。
「はい」
イルカちゃんは置かれた箸を取り上げると、取り皿を逆の手に持ってサラダの器に体を向けた。テキパキと取り皿に移して、手際よく食べ始める。
「改めて……おめでとー、イルカちゃん!」
俺はわざとおどけて、右手に持ったビールジョッキを軽く掲げた。生徒の前で酒なんて、とは思うが俺は祝い事の場では飲みたい人なんだ。真似しないでくれ。
「ありがとうございます。乾杯」
イルカちゃんもドリンクバーのアイスティを掲げながら、少し気恥ずかしそうに言う。どうやらそれなりには喜んでもらえているみたいだ。遊び慣れていない子は安上がりで助かるなんて思う。本人には絶対言えないけど。
「これで春には専門学校生だな」
「はい——でも、ついていけるかどうか、心配です」
「大丈夫だよ、イルカちゃんは真面目だから。きっとすぐに頭角を表して、講師陣も一目置く生徒になるさ。そして、『あなたは創立以降、最高の生徒で賞』とかそういうの取っちゃって主席で卒業して、ずっと語り継がれる存在になるんだよ」
「ぶっ! そんな賞、ありませんよ」
「確かに。あったら俺もびっくりする」
吹き出すイルカちゃんに、俺は両手を広げて大袈裟に笑ってみせた。本場のアメリカ人もびっくりするほど、手や首の傾きまで完璧な仕草。俺にはこういうキャラクターが似合うことはよく解ってる。
「でも……」
だが、イルカちゃんはどうにも暗い表情だ。本当に根が真面目というか、堅苦しいというか。それは長所なんだけど、対応に困るっちゃ困る。
「どうしたの、なんか問題ある? 良かったら話してよ」
努めて明るく、元気な声で俺は言う。あまり正面から受け止めようとし過ぎると、こちらが引きずり込まれる可能性もあるから。
だが、イルカちゃんは答えずにうつむいたままだ。
「俺が知る限り、イルカちゃんは最高の生徒だよ。それは間違いない。だから気にしなくていいぜ」
とりあえず受け止めるという意思表明はしておく。無言の時間に耐えられなかったというのもあるけど。
「……その……」
イルカちゃんはそこまで言って顔を上げたが、俺と目が合った瞬間にまたうつむく。最初の一言を発するのに時間がかかるのは分かるから、俺はそのまま見つめ続ける。
「……男の人って」
「?」
「男の人って、みんな自分の理想を相手に押し付けるんですか?」
俺は、その言葉にぎょっとした顔のままで固まってしまった。なんだなんだ、俺なんか悪いことでもしたか?
「私、ちょっと前まで彼氏がいたんです。でも、本ばかり読んでないでデートしようとか、派手なミニスカート履いて欲しいとか、そんなのばっかりで」
「……あー。なるほどな」
男なんてみんなそんなもんだよ、と言いかけたがあえて飲み込んだ。そんな現実はイルカちゃんの住む世界からほど遠く、雛鳥に卵の産み方を教えるようなもんだ、と思ったからだ。……そういえば、いつから恋愛相談になったんだっけ?
「前に彼の部屋に行った時に、押し倒されそうになって、拒んだら『なんでだよ、俺のこと好きなんだろ?』みたいな話になって……どうも自信が無くなっちゃって」
そっか、それで自信喪失しちゃって、進学後が心配って話につながるのか。長いことこういう仕事をしていると、意訳は得意になるな。俺はビールのジョッキを取ると、最後の一口をぐっとあおって。それからゆっくりと息を吐いてから、
「まあ、気にしなくていいんじゃないの。イルカちゃんはイルカちゃんだろ」
と、当たり障りのない慰めを口にした。
……その途端。
イルカちゃんはぐっと唇を噛んで、きっ、とその細い眉を釣り上げて。僅かに肩を震わせながら、こちらを鋭く睨みつけた。
(やっべ、地雷踏んじまったか?)
――そうだった。この子はある意味普通じゃないんだ。有名大学を蹴って自分の道を選ぶような奴だし、その選択もそうだがかなり頑固なことは考えれば分かったはずだ。そんな相手に当たり障りのないことを言ってしまったのは、真剣に答えていないと評価されてもおかしくはない——。
「……私って、そんなに……」
思わず仰け反って、慌てて手をばたつかせながら、俺は次の言葉を探す。
「……私ってそんなに、魅力ないですか?」
しん、と広がる沈黙。
——なにがどうなって、そうなった?
「私、確かに女の子としてはまだまだかもしれません。セーラのように品がいいわけでも、アンのように明るく元気なわけでもないです。でも、女の子なんです!」
……俺は仰け反ったまま、変なポーズのまま、動けなくなってしまっていた。
両の拳を握りしめて力説する彼女を見たのも、そんな大声を出せるのも、そんなコンプレックスを持っていることも……全てが、初めてづくしだった。
俺はどうしたらいいか戸惑って、固まってしまったまま。ただ時間が流れている空間に身を委ねている。無言の時間は好きじゃないというのに、それすらも忘れて。
「……い、いや、イルカちゃんは可愛いよ。真面目だし女の子らしいって」
やっとのことで我に返って、俺はたどたどしく言葉を紡ぐ。だがそんな言葉で彼女は納得しない。そんなことは分かっていたはずだ。力説したポーズのまま、こちらを見ている。
落ち着け、考えろ、俺。彼女が欲しいのはなんだ? 慰めか? ……いや、少し違う。彼女が欲しいのは、もっと深いところ――。
「イルカちゃん、いま、そうやって悩んでるってことは……」
「……」
俺が切り出すのに、彼女は眉根を少し寄せて、こちらを睨みつけていた。聞く姿勢ではありながらも、次の言葉しだいでは俺の命が危ないと思えるほど、気迫あふれるオーラをまとって見つめている。
「それはな、イルカちゃんが人の気持ちと向き合ってるってことじゃないのかな。相手の感情に敏感で、深いところまで受け止めよう、そんな覚悟があるからじゃないのか?」
「……」
彼女は姿勢を変えない。相変わらずこちらを睨みつけ、なにをするまでもなく、次を待っている。それもそうだ、俺も結論を言ってない。
「あのさ、それって……シナリオライターにとって、一番大切な能力なんじゃないか?」
「……!」
流石に彼女は怯んだ。構えた両手をそのままに、少し後ろに上体を倒して、のけぞるような動きを見せる。それに三つ編みが跳ねて、ゆらゆらと揺れた。
「イルカちゃんが書く課題の文章、いつも関心してた。特に、登場人物の気持ちが手に取るように伝わる感想文、いつもすげーって思ってたし、他の先生も褒めてた」
動かなくなった彼女をそのままに、俺は言葉を続ける。
「イルカちゃんは誰よりも、人の心と向き合ってきた証拠だろ? 真面目に、真摯に、そして繊細に、相手と向き合ってきたからだ。だから――」
彼女は反応しない。素直に聞いているのかは分からない。だが、結論はこれからだ。
「……だからさ、そんな男なんて気にすんなよ。イルカちゃんはイルカちゃんのままで、充分に魅力的な一人の人間だ。そしてその魅力が、イルカちゃんのシナリオを紡いで、誰かの心を動かせる力になるんじゃないか?」
そこまで言い切ると、彼女は視線を落として、考え込むような表情を見せる。それから顔を上げて、少し興奮したように頬を紅潮させて。握りしめた両の拳を震わせて。
「わ、わっ……私。頑張ります! 土谷先生みたいに、人の心に響く言葉を書きたいです……っ!」
彼女は興奮を隠しもせず、たどたどしいながらも熱意のある言葉をぶつけてくる。俺、そんないいこと言ったか? まあいい、いま彼女をからかう余裕は俺にもない。だから、いま言えて、約束できることを、言葉にすることにした。
「おう。期待してるぜ、イルカちゃん。そん時は、俺が一番の読者になってやるからな」
それに彼女は驚いた顔をしてから、ぱあぁと明るい表情になる。また秋の天気だ。彼女は一度大きく頷いてから、それから二度、さらに頷いた。
「それじゃだめかな」
俺はわざとぶっきらぼうに言って、取り皿に食事を取る。照れ隠しもあるが、単純になにも食べていないというのもあった。
「……先生って、頼りになるんですね。意外と」
「意外と、は余計だ」
俺は焼き鳥を頬張りながら、ツッコミを入れる。いまは咀嚼に忙しいんだ。
「先生の名前……『頼久』ですよね。それって……永久に頼れる……ってことですよね?」
げほっ。顔を背けて、咳き込んだ。名前を知っているのはともかく、知らないはずの命名意図まで言い当てられるとは。なんというバケモノを生徒にしてしまったんだ、俺は。
「私……」
彼女は煌めきを取り戻した瞳で俺を見ている。一体なにを求められようとしているのか。どうすればいいのか。完全に、場の主導権は彼女に握られている。
「これからも先生に相談したいです。いいですか?」
彼女はいつもの通り落ち着いた顔で、でも笑顔を浮かべて、どこか少し楽しそうに。そう言ってスマートフォンを取り出した。
「もちろんだ。いつでもメッセージ飛ばせよ」
俺もスマートフォンを取り出す。実際、生徒との連絡先交換はまずいのだが……いまここで彼女を拒む方が、もっとヤバいと直感が言ってる。差し出したスマートフォンの画面を読み込ませると、スタンプが飛んでくる。それにこちらもお気に入りのスタンプを返した。
「……」
それから彼女は少し黙り込んで、でもわずかに笑っていて。なんとも表現しにくい表情で、画面を見つめていた。その様子を見守っていると、ふと我に返ったように、
「ご飯、食べよう」
と、いつもの静かな彼女がそこにいた。
……一体どういう意味なのかは、俺には分からない。でも、彼女がなにかを納得したことぐらいは分かる。俺にできることは、目の前の食事を喰らい尽くすことと、その後彼女を駅まで送っていくこと。それだけだ。
それからしばらくして。カラオケを出て、駅に向かう道のり。隣を歩く彼女をちらちらと見ながら、色々と考えていた。
彼女は、俺の名前の意味まで見抜いた。そして、頼りたい、とも。
(……)
俺は……どこか斜に構えて、適当に生きてて。でも、そんな自分が、彼女の前だと純粋な眼差しと鋭い言葉の前ではどうしようもなく。頼れる存在でありたいと。そうなろうとしている自分に気づく。
(……頼ってんのは、俺の方かもな……)
彼女を改札口まで見送って、俺は踵を返す。それから、自宅までの夜道を歩いた。色々なことを考えながら。たぶん、人生で一番考えた時間だと思う。
それから、俺は過去の自分を恨みたくなる。メッセージアプリにはシナリオのアイデア、読んだ本の感想文。それから学業の相談。そんなものが毎日のように彼女から届くようになったからだ。それで、既読スルーをしていたら怒られる。なんだこれ?
でも、それは俺の日常に以前はなかった小さな光を灯していくことを、感じていた。要するに。俺は彼女の成長を見守るだけでなく、彼女の描く物語がいつか多くの人の心を動かせると、信じてしまったのだ。
彼女が来なくなった塾にいつも通り出勤して、いつも通り授業をこなす。他愛もない日常。違うのは、生徒は毎年変わっていく。俺の毎日は、それだけだ。
「先生、この問題なんですが……」
「ああ。この解き方は……」
いつものように教壇に立つ俺の前に時折、席に座って真剣な眼差しで黒板を見つめる彼女の姿が見える。彼女はいま、どんな物語を紡いでいるのだろうか。きっと、彼女にしか書けない、誰かの心を震わせる優しい物語を届けようとしているのだ。そう確信できることが、いまの俺にとって静かな誇りになっている。
俺自身も。少しだけ、ほんの少しだけ。
……適当ではない自分を、見つけられたと思うから。
最後までお読みいただきありがとうございました。
もし気に入っていただけましたら、スキを頂けると励みになります。
また次の作品でお会いできることを楽しみにしております。
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