短編56「喉がね、渇くの」 2/2
前回のあらすじ
進路に迷う高3の江里は、水が甘いという奇妙な異変に悩まされていた。高学歴を望む父と専門職を推す母の激しい口論が続く中、「私のこと、見えてない!」という孤独感から家を飛び出す。友人の優しさの中で安堵した江里は……。
お父さんとお母さんがいるメッセージアプリのグループにメッセージを投げようとしているが、送信ボタンはなかなか押せなかった。
『進路のこと、ちゃんと話したいです』
たかだかそれだけの言葉を送信するまで、どれくらいの時間がかかっただろうか。送ろう、やめよう、送ろう。何度か繰り返す。
家を出て登校して、入力したメッセージを見てはまた閉じる。そんなことを繰り返して、送れたのは放課後になってからだった。2人からすぐに、了承のスタンプが届く。
「今日ね、お父さんとお母さんと話すの」
放課後の教室で、そう切り出すと、朋代と宏行は驚いた顔をした。それからすぐに共感の笑顔を見せてくれる。
「いいじゃん! ちゃんと向き合うの、大事だから」
「そうだよ。うまくいくこと、祈ってる」
2人はそうやって、私の背中をそっと、優しく押し出してくれた。また喉が渇いていた。
……とはいえ。
緊張しない方が無理だと言うものだ。私は帰宅して、玄関ドアの前で鍵を握りながら、動けなくなっていた。
言い出したのは自分。話し合いしたいのも自分。ちゃんと覚悟を持って向きわなければと、私は思っていた。
「ただいま……」
恐る恐るドアを開けて、ダイニングへ向かう。ダイニングテーブルにお父さんとお母さんが2人で並んで座っていた。
私には反応しない2人をよそに、向かい側に座った。
「……あの……」
自分から始めたことだ。自分から切り出す。
「進路のこと、相談させてください」
そう言って、顔を上げた。
「……江里には、一流大学を卒業して欲しい」
お父さんがそう言う。それにお母さんは露骨にため息をついた。
「それは、なぜですか?」
私の率直な疑問に、お父さんは言葉に詰まる。
「それは、私が苦労したからだ。学生時代からちゃんと勉強して、大企業に新卒特権で入社しておけば、もっと豊かな生活ができたはずだ」
「……じゃあ、お父さんは、私にそういう思いをして欲しくないから。そう言うんだね?」
私がそう問うのに、お父さんは少し不思議そうな顔をしてから、「ああ」と静かに頷いた。
「お母さんは?」
「私は……江里に早く社会に出て欲しい。それに、看護職は学歴より実務経験が求められることも多いわ。だから、早く働き始めた方が有利だと私は思っている」
「……じゃあ、お母さんは、私の将来のことを考えてそう思ってくれている。ということだよね」
私がそう言うと、お母さんは「ええ」と静かに頷いた。
脳内でまとめる。
――結局、私のことを心配して言ってくれているだけなのだ。
それ以上でもそれ以下でもなく、ただそれだけ。それだったら、私はもう思いを伝えるしかない。
「私、まだ迷ってます。自分の未来に。だから、すぐ決められない。もう少し時間が欲しい」
そこまで言うと、お母さんはなにかを言いかけてから、やめた。お父さんも腕を組んで天井を見上げて、なんとも言えない唸り声をあげている。
「お父さん、お母さん。私、看護師を中心とした人生を歩みたい。でも、道が多すぎて、はっきりとした答えがいまの私にはない。だから、助けて欲しい」
そうお願いすると、2人はそっと頷いてくれた。
それから数時間話し合った。3人で私のキャリアプランを考えた。
お父さんは本屋で関連書籍を探してくれると言ってくれて、お母さんはWebサイトを調べて現場の声を集めてくれると言ってくれた。
私は、とにかく深い安心を感じて、微笑んでいた。まるで、心の中にのしかかっていた硬い氷が解けて、流れ出していくようだった。
「あれ、江里。もう帰るの?」
授業が終わって、カバンを持って立ち上がろうとする。それに気づいた朋代が、不思議そうな顔をした。
「ううん、今日はこれから図書室に寄って、進路について調べ物をしようと思うんだ」
「なるほど。じゃあ俺も行くよ」
宏行が座っていた椅子から立ち上がると、自分のカバンを掴む。
「じゃあ私も」
朋代もそう言って立ち上がり、スカートの裾をぱんぱんと叩いた。
「え、あの、嬉しいんだけど、その……」
私はすっかり驚いてしまっていた。素直で素敵な気持ちがとても嬉しい。けれど、貴重な青春の時間を自分のために使ってもらうのは、本当に申し訳なかった。
「気にするなよ。だって俺、もう進路決まってるし」
「私も」
気を遣わせないように、2人は優しい言葉をくれる。また喉が渇いてくる。私は赤面しながら、素直に頷いていた。
「これどう? 看護師のキャリアについて書かれた本」
朋代が私の前に本を置く。私はぱらぱらとページをめくっていく。うん、これならなんとか読めそうだ。
「病院で働くだけが看護師じゃないんだな……」
宏行が図書室に設置されたパソコンの画面を見ながら、呟いた。
「へえ、そうなんだ」
朋代が不思議そうに画面を覗き込んだ。
「企業の産業看護師、テーマパークの看護師、治験コーディネーター……働ける場所、たくさんあるんだね」
「そうみたい。江里は、どういう働き方がしたい?」
朋代に言われて、私はすっかり考え込んでしまう。そういえば……『看護師になる』以外の考え方、したことがなかった。働く場所や、どういう風に関わりたいかなど、そういう切り口に気づけていなかった。
「テーマパークの看護師は? 江里んち、毎年旅行行ってなかったっけ?」
ぶわっと、視界の解像度が上がった気がした。まるで私の視界に色がついていくような感覚。突然、モノクロの世界にカラフルなパレードでも始まったような感覚。私は思わず目を見開いて、2人を見つめる。
「そうか……テーマパークに常駐して、来園者を助ける……!」
喉が渇く。興奮が私の体内で暴れて、心臓が強く脈動する。壊れてしまうのかと思うほどに。
「テーマパークに来ている来園者は楽しい時間を過ごしているはず。体調不良などを起こしたら、良い思い出にならない……。そういう人を助けたい……!」
視界が明るい。柔らかな光に覆われているように思える。両手のこぶしをぎゅっと握り、私は胸に押し当てた。
「……これで、決まったね」
それに、朋代が呟いていた。
その日の夜、夕食前の話し合いの席で、私は切り出した。
「お父さん、お母さん、話を聞いて欲しい。私、見つけたんだ。やりたいこと」
その言葉に2人は不思議そうな表情を見せた。
「去年までは毎年、旅行に連れて行ってくれたよね。それがヒントになった」
前置きを置いて、少し息を吸う。それから続けた。
「私、テーマパークで働く看護師になりたい」
「……なるほど、正看護師資格があれば、そういう選択肢もあるか……」
私の言葉に、お父さんが考え込むような顔をする。
「でも、どうしてそう考えたの?」
お母さんも不思議そうな顔をする。
「お父さんとお母さんのお陰だよ。ずっと毎年、旅行で色々なテーマパーク連れてってくれたよね?」
2人は思わず顔を見合わせていた。それから、少しずつ笑いだして、最後はいつもの笑顔になっていた。
「ただ、問題があって……求められるレベルが高いの。応急処置や救護室の管理はもちろんだけど、キャストとしての案内業務や来園者のフォローも必要になるみたいなんだ」
そこまで言うのに、2人は傾聴してくれている。
「だから私、勉強をちゃんとしていい大学出る。その間は社会勉強として、テーマパークでアルバイトも始める」
「うーん……」
「でもこれなら、お父さんの意見も、お母さんの意見も、両立できてるよね?」
「まあ確かにそうだ……」
お父さんは難しい顔になって、お母さんの方を見た。お母さんも難しそうな顔で、明らかに困っているのが見て取れる。
「だから、お願いします。勉強もアルバイトも両立させるから、やらせてください。それが、いまの私の答えです」
私は結論を言う。勉強もアルバイトも、夢への滑走路。どちらも手を抜くつもりはなかった。
「江里……いつの間に、そこまで考えるようになったんだ。嬉しいよ」
「……江里、大人になったわね」
お父さんは頷きながら、お母さんが微笑みながら、そう言う。
「……ちがうよ。お父さんとお母さん、それから友達、みんなが助けてくれたから。だから、決められたんだ」
それに2人は頷きながら微笑む。私も思わず、微笑んでいた。
「……いいだろう。ただ勉強もアルバイトも、絶対に両立するんだよ」
「そうね。それができるなら、いいわ」
「お父さんお母さん、ありがとう! 私、頑張るから」
少し上気した私は、明るい声でそう伝えた。
翌朝、日課の水道水を飲む。今日は少し、喉が渇いているなと感じていた。
一口飲むと、やっぱり甘いんだけど、昨日ほどではないんじゃないかと感じた。まろやかな甘さは少し控えめで、水本来の美味しさを少し、感じた。
注記
この物語は筆者の想像に基づいたフィクションであり、登場する人物、団体、および物語上の設定はすべて架空のものです。作中に登場する名称などは物語を彩るための舞台装置として用いており、現実の出来事や人物とは関係がありません。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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また次の作品でお会いできることを楽しみにしております。
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