短編42「黒鉛の道標」
あらすじ
作家の細見は、人生の道標を見失っていた。自身の創作に行き詰まりを感じていたが……。
HBの鉛筆1本で書ける距離は、50キロメートルぐらいあるらしい。
だったら、俺はいままでの人生で、一体どのくらいの距離を歩いてきたのだろうか。
「先生」
障子の扉を広げて、1人の恰幅の良い男性が声をかけた。
「ああ、ようこそ」
座卓の前で原稿用紙と向き合いながら、紺色の甚平を着た初老の男性が座っていた。白髪の交じった髪を後ろに流し、細い体躯はやや不健康に見える。
彼は細見 悠介。ベテラン小説家で、パソコンなどの電子機器を一切使わず手書き原稿、しかも鉛筆という非常に珍しい執筆スタイルの作家だった。
「先生、前に話した通り担当が私、小森から、この笹川に変わります」
「先生初めまして。編集の笹川 かな、です」
小森の隣に立つのは、若い女性。長い髪を後ろで1本に縛り、白い襟付きシャツにブラウンのパンツ。緊張しているのか、どこか笑顔にぎこちなさを感じる。
「本当に……こんな若い女性が俺につくのか? 俺の作品を理解できるのか?」
「まあまあ、ちょっと落ち着いてください先生。いまの時代、そういう年齢とか性別とか言うの、本当にうるさいんですから」
細見がそう言い出すのに、小森が慌ててフォローする。吹き出す汗をハンドタオルで拭いながら。
「先生の手書き原稿、拝見しました。手書きにこだわる熱量に感動しました!」
そんなやりとりを気にせず、笹川はぐっと両手を握って言う。それに細見は一瞬驚いた顔をしたが、悪い気はしないらしく、にんまりと笑って見せた。
「それに、最近の先生の作品……どう言われているか、知っているでしょう?」
「……」
小森の言葉に細見は考え込んでしまう。
出版不況による時代の変化はずっと続いている。電子書籍やSNSでの短編などが増えていて、彼の作品は時代遅れだと揶揄されることも少なくない。
先日も編集長がわざわざやって来て「読者の心に響くように、もっと寄り添って欲しい」とのお言葉をいただいたばかりだ。
「だから先生には、笹川のエッセンスを取り入れて欲しいってわけなんですよ」
「はい、笹川は、先生がもっと良い作品を書けるよう尽力します!」
細見は複雑そうな顔をして、それを見守っていた。
夜になって、細見は押し入れの襖を開く。中には大量のクリアファイルがぎっしりと詰め込まれていた。
全て、過去の生原稿だ。細見はそれを発表順でしっかりと整理していた。
一番古い原稿を取り出す。
新人賞をとったときの原稿。赤入れの文字はすでに色褪せ始めていた。
……俺はもう、50キロメートルどころか、それ以上走ってきたはずだ。
しかし、その道の終着点が見えない。どこへ向かって走っていたのか、分からなくなっていた。
この原稿を書いていたときの俺は、一体なにを考えていたのだろう。
若い熱意と無軌道な勢いだけで書き上げた原稿。根拠のない自信だけは持っていて、文学界を変えてやるとか、そんな大それた野望を持っていたと思う。さすがにいまはそんな野望など持っていない。
だが、気づけばこの道をずっと歩いてきた。自分には、これしかないのだ。
それからしばらくして、笹川から話がしたいと連絡があった。
細見が玄関を開けると、彼女はどこかぎこちなく笑っていた。
「先生、急にすみません。ちょっとお願いがあって……」
「いや、それはいいんだ。ただ、先日の非礼を詫びさせて欲しい」
「え?」
「その、こんな若いとか、作品を理解できるのかとか、失礼なことを言ったと思う」
それに笹川は少し驚いたようで、不思議そうな顔を見せた。
「気にしなくて大丈夫です。事実ですから」
彼女は困ったように頭をかきながら、笑顔を作ろうとしている。
「それより、です」
急に真面目な編集者の顔になって、拳を握りながら熱く語り始める。
「私、先生のことをもっと理解しようと思って。いままでの本、全部読みました」
「……全部?」
「はい。58冊全部」
笹川、こんな穏やかな顔をしているがただ者ではない。細見はその勢いに気圧されてしまっていた。
「それでお願いというのがですね。過去の生原稿を読ませてもらえませんか。その方が、絶対に先生の魂が伝わるから」
彼女の瞳に、炎が灯っているように見えた。
細見が押し入れを開けると、笹川はまるで宝石でも発見したように瞳を輝かせて「あ、これは賞をとった……」「おお、これはドラマ化された……」などとぶつぶつと呟きながら眺めていた。
彼女は薄手の手袋を着けてから、マスクで顔を覆うと、そっとファイルに手を伸ばした。
それから数日、笹川は毎日のように通って、原稿を読み進めていく。
時には笑い、泣き、怒ったりして。
そのときの彼女の表情は、いつものぎこちない表情ではなく、心からのものだと細見は感じていた。
「はぁ……やっぱり、先生の作品はどれも最高です」
「ありがとう。そんなに俺の作品を知ってくれているとは、思ってもみなかった」
「はい。実は……私、もともと先生のファンで。担当になれて嬉しかったんです」
笹川はにっこりと微笑むと、照れくさそうに言った。
それに細見は少し驚いた顔をしているが、少しずつ彼女に対しての信頼感が芽生え始めたと感じている。
「先生の作品の持つ暖かさ……それを、もう少し前面に出した話を書いてみませんか?」
「……暖かさ?」
「先生の父性とでも言えばいいのでしょうか。あまり口を出さないけどいつも心配してくれていて、要所要所では手も出す。そういうスタイルって、現代人にも響くと思うんです」
それに細見は少し考え込んでしまう。確かにそういう登場人物を書くことが多いというのは、自覚があった。
「先生の作品に登場する男性キャラクターたちは、みな口数が少ないけれど、いざという時には行動で示す。それが、読者が先生に感じる安心感なんだと思います。だから例えばですけど……主人公が自分の子どもの成長を見守るような、そんな話はどうでしょうか? 私、すごく読みたいです」
笹川は生き生きとした瞳で細見に語り続けている。どうやらその熱意は本物のようだ、と細見は真面目に耳を傾けていた。
夜になって、細見は座卓の前に座る。原稿用紙に向かって、鉛筆を手に取った。
ずっと自分を支えてくれた鉛筆たち。彼らは戦友であり、同時に道標でもあった。
細見は、原稿用紙の最初の行に、タイトルを入れる。
『君の明日への道標』
「よし」
細見はそう呟いて、鉛筆を走らせ始めた。
まるで、これまでの長い道のりと、これからの道標を繋ぐように。
丁寧に、大切に。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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また次の作品でお会いできることを楽しみにしております。
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