短編41「モスコー・ミュール」 バー・ローズデヴァン#2
あらすじ
仕事に疲れた潤一は、終電後の住宅街に現れた不思議なバーに迷い込む。カクテルの由来と、過去の自分たちの姿を重ねて見て……。
とぼとぼと歩く夜道。ぎりぎり終電に間に合わせて、最寄駅で降りた。
潤一は疲れた身体をなんとか動かして、自宅まで5分ほどの距離を歩く。だが、定時など関係のない連日の労働は、確実に彼を疲れさせていた。
街灯に寄りかかって、少し休憩を取る。
……一体、こんな生活を何年続けてるんだっけ……?
ふとそんなことを考えてしまう。冷静に数え出したら、おそらくキリがない。けれど、あまりに疲れた日は、そういうことも考えてしまうのだった。
「……?」
ふと、不思議なものが目に入る。
駅からの帰り道は住宅街で、一軒家からマンションなど様々な種類の建物が並ぶ。
その中にある、修繕中と思われるひとつの商業ビル。足場が組まれてメッシュシートに包まれていたが、1階に目立つ灯りが見えた。
ピンク色のネオン管で「BAR Rose des vents(バー・ローズデヴァン)」と書かれて、その下には黒く重厚な扉がある。
(……?)
潤一はそれを不思議そうに見上げていた。
……こんなところに、バーなんてあったっけ?
潤一は不思議そうに見ながら、腕時計を見る。深夜24時過ぎ。たまたま明日は午後からしか予定が入っていないので、時間には少し余裕がある。
(まあ、たまにはいいか……)
そう考えて、バーのドアを開いた。階段を降りていくと、意外と長い。地下1階程度だろうと思っていたが、何度か折り返してやっと次のドアに辿り着く。
ドアを開くと、カランカランと控えめにドアベルが鳴る。
潤一が店内を見渡すと、9人ほどのカウンター席と丸テーブルが2つのオールスタンディング。他に客はいないようだった。
「いらっしゃいませ。お客様も、迷われたのですね」
カウンターの中から、バーテンダーが声をかけてくる。
「迷われ……?」
言っている意味は分からないが、そういうコンセプトの店なんだろうと勝手に納得して、潤一はカウンター席に座った。
(しかし……)
いやに現実感のないバーテンダーだな、と潤一は素直に思う。そこに居るのに、物理的重量を感じないというか、なんというか。
彼は耳の上で薄緑の髪を揃えて、アップバングにまとめている。顔は細長く鼻筋が通っており、あっさり系美男子と言われればそうかもしれない。
だが、いやに白い顔は生気を感じさせず、不健康な印象を受けた。
「お客様、初めてのご来店ですよね?」
「ああ」
「では、当店のルールを説明させてください」
彼は潤一に暖かいおしぼりを渡しながら、続けた。
「ひとつ、未来が見えたら追い出します。ふたつ、座り込まないでください。良いですか?」
(……?)
座り込まないでというのは、立ち止まらずに前に進めということだろうか。問題は一つ目だ。
しれっと「追い出す」って言わなかったか……?
「あ、ああ。わかったよ」
潤一は答えないと話が進まないだろうなと思って、とりあえず了承した。
「ありがとうございます。それでは一杯目は、なにになさいますか?」
「そうだな……モスコー・ミュール。頼めるかな?」
「畏まりました」
バーテンダーは冷えた銅製のカップを取り出すと、適量の氷を入れる。それからウォッカとジンジャービアとライム果汁を注いで、慣れた手つきで軽くステアした。
「お待たせいたしました」
潤一の目の前にあるコースターにグラスが置かれる。彼はそれを掴むと、一口喉に流し込んだ。
……美味い。
ライムの酸味とジンジャーの旨みが入ってきて、それからウォッカのアルコールがぐい、と迫ってくる。シンプルながらも説得力ある味わい。
特に、ウォッカは初めて味わう味だ。清冽な水とライ麦の香ばしさ。
ふと彼の手元のボトルを見ると、霜が降りたようなすりガラスのボトルには「白夜」という、見たことのないラベルが貼られていた。
「モスコー・ミュール、お好きなんですか?」
不意にバーテンダーから問われて、潤一は我に返る。
「ああ、昔、仲間たちとよく飲んでたんだ。あの頃はさ、なんでも楽しかった時期で」
潤一は自嘲気味に笑って、モスコー・ミュールをもう一口飲んだ。
「分かります。思い出は、お酒を美味しくしますよね。……申し遅れましたが、バーテンダーのスィエルと申します。よろしくお願いいたします」
言いながら彼は、店の名刺を取り出して潤一に渡す。それには「バーテンダー・スィエル」と書かれていた。
「モスコー・ミュールの起源はご存知ですか?」
スィエルの言葉に潤一は頷いて、
「もちろん。アルコール度が高いことを『キックする』と言うだろ。モスコー・ミュールのミュールはラバのことで、彼らも後ろ足で『キックする』」
「さすがです」
潤一の言葉に、スィエルは微笑みながら答える。嫌味のない穏やかな表情に、潤一も微笑み返した。
「……もしよろしければ、なにに迷っているのか、お聞きしても?」
潤一の顔から、微笑みが消えていく。それから彼は、小さくため息をついた。
「共同経営がうまくいってなくて。みんなで作った家計簿アプリがヒットして、それを3人で起業してビジネスにしたんだが……なかなか収益化ができていない。最近は、顔を合わせればケンカばかりだ」
潤一がそう言うのに、スィエルは頷く。
「僭越ながら申し上げますが……出港された場所を思い出すというのは、いかがでしょうか?」
スィエルが指を、ぱちん、と鳴らすと同時に、壁のスクリーンに映像が映し出された。
潤一と、2人の仲間。確か、起業した時にメディアからの取材を受けたときの動画だ。照れながらも3人はそれぞれの思いを語り、未来を見据えている。
「えっ……?」
潤一は思わずスィエルに向き直るが、彼は人差し指を口に当てたまま微笑んでいた。
……そうだ。
この時、僕たちは夢を持っていた。
たかが家計簿アプリ、されど家計簿アプリ。将来的には家計簿から連動してライフプランニング領域まで踏み込んで、ユーザーの生活をフォローするという壮大な計画を立てていたはずだ。
「諸説ありますが……モスコー・ミュールには、ジンジャービアの大量在庫に困ったバーテンダーと、銅製のカップの在庫に困った2人が始めたという説があります。もしかしていまのあなたに必要なのは、そういう視点なのではないでしょうか?」
それに潤一ははっとした目線をスィエルに向ける。
それからうつむいて、少し肩を震わせながら笑い始めた。
「はは……そうだよ。そうなんだよな。3人いるんだから、もっとうまくやれるはずだ。そうなんだ。でも、それをしていなかったのも僕なんだ……」
「……もう、あなたは大丈夫ですよ」
スィエルは言うと、下からハンドベルを取り出して、ちりりんと鳴らす。奥の扉が開いて強面の男性が2人現れると、潤一を両脇から押さえつけてしまう。
「えっ……!?」
「お会計、1500円になります」
潤一はなにが起こったのか分からなかったが、とにかくお会計を済ませる。それから強面たちに抱えられて、店の外に放り出されてしまった。
「いたっ!」
夜中の路上に転がりながら、潤一はかぶりを振る。一体、あの店はなんだったんだろう……。
しかし、振り向いた彼の視界には、先程入ったはずのドアはなかった。
「……?」
一体なにが起こっているのか分からない。先程のバーは、なんだったんだろうか。
口の中には、飲んだモスコー・ミュールの味が残っている。胸ポケットには受け取った名刺がある。
だから、現実に体験したことに違いないのだ。忘れられない、あの味が。
「……明日、話してみるか」
どうなるかは分からない。
でも、ずっと楽しい時間を共に過ごして、共に闘ってきた仲間のはずだ。
けんかなんかしている場合じゃない。仲直りしないと。
ちゃんと話し合えば、きっと歩み寄れるはずだと、信じたい。
潤一は大きく息を吐いてから立ち上がる。
使ってくれるユーザーの生活を支えたい。その気持ちに偽りはない。
だから、3人でもう一度、それに向き合いたいから。
やってみようと、彼は思っていた。
標準的なレシピ
スミノフのウォッカ - 45ml
ジンジャービア - 120ml
ライム・ジュース - 10ml
作り方
1.「ミュールカップ」とも呼ばれる銅製のマグカップ、またはロックグラスにウォッカとジンジャービアを入れる。
2.ライム・ジュースを加え、混ぜ合わせる。
3.スライスしたライムを飾る。
カクテル言葉
「けんかしたら、その日のうちに仲直りする」
最後までお読みいただきありがとうございました。
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また次の作品でお会いできることを楽しみにしております。
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