短編32「ジントニック」 バー・ローズデヴァン#1
あらすじ
人生に行き詰まった男が不思議なバー「BAR Rose des vents」に迷い込む。そこで過去と向き合った彼に、一杯のジントニックが再び歩き出す勇気を与える物語。
帰り道、僕は不思議なものを見つけた。
毎日通る寂れた商店街。コンクリート打ちっぱなしのビルの壁に、見慣れない扉ができていた。壁に埋め込まれた、黒く重厚な扉。
見上げると、ピンク色のネオン管ライトで「BAR Rose des vents(バー・ローズデヴァン)」と書かれている。
「こんなところにバーなんて、あったっけ……?」
僕は不思議に思いながらも、なんとなくその扉に手をかける。理由は分からないけど、入らなくてはいけない気がした。
ドアをくぐって地下へと続く階段を降りる。全てが黒色の景色は不気味に見えた。地下1階だろうと思っていたら、折り返した階段はまだ地下へと続いている。どのくらい降りたかは分からないが、やがて次のドアが見えてきた。
カランカラン……ドアを開くと、小さく控えめなドアベルが鳴って、バーテンダーらしき男が会釈する。
店内は9人ほど並べるカウンター席と、4人ほどで囲める丸テーブルが2つだけという、オールスタンディング形式。バーテンダーの後ろには沢山のボトルが並び、店内には僕以外の客はいないようだった。
促されるままにカウンターに座り、ジャケットを脱ぐ。そんな僕を正面のバーテンダーが見ていた。
彼の第一印象は、現実感の無い男性だな、だった。
耳が隠れないほどの薄緑の髪をアップバングにまとめている。細長く鼻筋の通った顔はあまり生気を感じられないが、それは落とした照明のせいかもしれない。
「いらっしゃいませ。お客様も、迷われたのですね」
彼は言いながら、僕の前にコースターと熱いおしぼりを置く。
「迷……われ……?」
彼の言葉の意味が分からず、僕はおしぼりを受け取りながら、呟いていた。
「お客様、簡単に説明させてください。このバーには、2つだけルールがあります」
「は、はあ……」
僕は手を拭きながら、突然始まった説明に耳を傾ける。
「ひとつ、未来が見えたら追い出します。ふたつ、座り込まないでください。良いですか?」
「は、はい」
彼の言葉に押されるように、僕はただ頷く。
なんだろう? お店のルールなのだろうことは理解できるが、どうも主張が強いような……?
彼は僕が頷くのを確認すると、にっこりと笑顔を見せた。
「では、一杯目。なにを飲まれますか?」
「じゃあ……ジントニックで」
彼は頷くと、冷えたグラスを取り出してきてドライジンを注ぐ。バーガンを引き寄せてトニックウォーターを注いで軽く、手慣れた様子でステア。カットしたライムを添えると、僕の前のコースターに置いた。
グラスを運んで、軽く一口飲む。あまりお酒に詳しくない僕でも、良いドライジンなのだなということぐらいは分かる。
……奥深い香り。爽やかでクリアな味だが、複数の柑橘類やハーブも感じる。ちらりとボトルを見ると、「航路」という聞いたことのない名前がボトルに書かれていた。
「バーテンダーさん、名前は?」
「スィエルです。よろしくお願いいたします」
彼が軽く会釈しながら答えて、店の名刺を差し出す。バー・ローズデヴァンの店名と、彼の名前が書かれていた。
「僕は藤谷だ。よろしく」
僕も名乗ってから、もう一度ジントニックを飲んだ。炭酸とトニックウォーターの爽やかさが喉を通り抜けていく。
ちらりと彼に視線を向ける。まだ若いバーテンダーに見えるが、どこか独特の雰囲気と落ち着きを感じさせている。
正直、なにを考えているのかよく分からない。
「……もしよろしければ、なにに迷っているのか、お聞きしても?」
僕が一息ついたタイミングで、バーテンダーが控えめな声で言う。
「ああ……今夜、妻と離婚について協議するんだ。娘が独立して自立するから、そのタイミングってことで」
僕は努めて明るく言うが、ちゃんと笑えていたのかは分からない。
「ああ、どうしてこうなっちゃったんだろう。3年前、勤務していた会社が倒産しなければ……」
僕はそこまで言って、頭を抱えてしまう。
3年前、勤めていた企業が倒産した。その時すでに数ヶ月の未払いが発生しており、家計の状態は悪化した。
「それで、1年ほどで再就職はできたんだけど、それから夫婦の会話はなくなっていた」
「……それは大変ですね。あなたは、どうしたいのですか?」
「……どう、したい……?」
僕は答えられなかった。
明確なビジョンが無い。
そうだ、僕はなにがしたいんだろう。なにがしたかったんだろう。
「僕は……、僕は」
そう呟くことしかいまの僕にはできなかった。
「……良かったら、こちらをご覧になってみますか?」
スィエルが指を、ぱちん、と鳴らす。壁のスクリーンに映像が映し出された。
若い頃の自分と、パートナー。幼い子ども。みんな笑顔だった。
「なっ……!」
僕は思わずスィエルに振り向くが、彼は人差し指を口に当てて、微笑んでいた。
映像に視線を戻す。いくつも映し出される、様々なシチュエーションの動画。初めて子どもを連れていったテーマパーク。家族で乗った観覧車からの夜景。
そういった思い出が、次々と映し出されていた。
(そうだ……)
この頃は、一所懸命だった。いつも妻と子どものことだけ考えていたし、それで幸せだった。
全ての歪みが始まったのは、会社の倒産。なかなか仕事が見つけられない僕は、彼女に対してあたりが強くなっていたし、それを見ていた子どもは怯えていた。
それを映像でまざまざと見せつけられる。
「僭越ながら申し上げますが……出港された場所を思い出すというのは、いかがでしょうか?」
彼が言うと同時に、映像が切り替わった。
結婚式の時の映像に。
「そうだ……2人で頑張ると決めたあの日……」
あの時の気持ちが蘇ってくる。心の奥にまだあった、確かな気持ち。高鳴る鼓動。
「……ジントニックは、元々薬として飲まれていた、トニックウォーターを飲みやすくするために生まれたそうです。今宵の一杯は、あなたの心に効きましたか?」
「……ああ。ありがとう」
戸惑う僕を、彼は目を細めて見つめていたが、急に下からハンドベルを取り出すと、ちりんちりん、と鳴らす。急に奥のドアが開いて、強面な黒服が2人、奥から飛び出してきた。
「お会計、1500円になります」
彼がにっこりと微笑むと同時に、僕は強面に両脇から抱え上げられてしまう。その体勢のまま会計を支払うと、黒服は僕の身体を軽く抱えあげる。
そして僕は、そのまま店外に放り出されてしまった。
「いたた……なんなんだ……?」
乱暴に放り出された僕は、痛む身体を起こして……振り返ると、ドアはなかった。
「……え?」
……僕が見たものは、一体なんだったんだろうか。
胸ポケットを触ると、もらった名刺が確かにある。
でも、いまはそれより、帰ろう。帰って話し合おう。
蘇ったこの気持ちを、家族にちゃんと話そう。
標準的なレシピ
ドライ・ジン - 45ml
トニックウォーター - 適量
ライムもしくはレモン
カクテル言葉
「強い意志」
「いつも希望を捨てないあなたへ」
最後までお読みいただきありがとうございました。
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また次の作品でお会いできることを楽しみにしております。
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