短編74「夜の安息地」
あらすじ
心身が疲弊した会社員・典秀は、深夜の「魂の安息地」へと辿り着く。それは、魂をリセットする呪文。現代社会の荒波で疲弊した男は、活力を見つけて……。
僕、牧 典秀は夜道を漂流していた。
ビルの冷たい照明や、心臓の鼓動すら届かないように無関心な雑踏を歩いている。限界まで疲弊した心身は、砂のように崩れそうだった。
オフィスビルを出て夜の繁華街を歩く。身体は自然と、駅前の灯りに向かっていた。
オレンジ色の看板から光を放つ、全国チェーンの牛丼屋だ。
(魂の安息地だ……)
僕はそんなことを思いながら、入口の自動ドアを開かせて店内に入る。冷え切った日常の中で、夜の荒波から流れ着いた漂流者たちを迎え入れる、温かい灯りを放つ場所。
入って左手に対面のカウンターが8席、右手には壁に向かった4席。その内側を店員が通れるような席になっていた。
「いらっしゃいませ。こちらのお席はいかがでしょうか?」
右手のカウンターの内側から、店員の女性が促す。僕は出入り口に一番近いカウンター席に着席した。
注文は、儀式だ。牛丼を頼むための呪文「並、ねぎだく、つゆだく」を呟きながら、タブレットを操作して入力する。
キッチン内に注文が届いて厨房のベルが鳴ると、男性店員が大きく頷いて、並盛りの丼を左手で掴んだ。
ご飯のジャーの蓋を右手で開くと、傍らにある水の入ったしゃもじ入れに手を伸ばす。持ち手を掴むと、まるで卓球のラケットでも持つように親指と人差指の根本で優しく包み込む。
それから2回、ぱっ、ぱっ、と米を盛ると、丼ごとデジタルスケールに乗せる。店員は規定通り250グラムの米が盛られていることを確認すると、大きく頷いた。有能な職人は数多くの米を盛り続けることで、手の感覚だけで正確な重量を漏れるようになるのだ。
彼は肉鍋の蓋に手をかけた。ぱかりと鍋の蓋を開けると、濃茶色のタレの中でたくさんの牛肉が泳いでいる。穴の開いたおたまを掴むと、ゆっくりとかき混ぜ始めた。
さっと肉をすくって、ちゃっ、ちゃっ、とおたまをひねって揺らす。並盛の肉量は90グラム。職人はこれだと思う分量を持ち上げると、まずはそのままおたまを丼に乗せた。つゆだく分のタレを追加しているのだ。それからもう一度鍋のタレをくぐらせてから、丼の米の上に肉をふわっと乗せた。
もう一度デジタルスケールで測ると、大きく頷いた。
「4番さん、出ます!」
職人が叫ぶと、案内してくれた女性がキッチンに向かう。出来上がった牛丼をトレイに乗せると、僕の前に置いた。
「お待たせしました。牛丼並、ネギだく、つゆだくです」
ぶわぁ。圧倒的かつ暴力的な香りと湯気が通り抜けていく。醤油に柔らかい甘さが混ざり肉の旨味を感じさせる香りが、鼻を覆い尽くして唾液を誘う。丼から漂うオーラは、僕の鼻だけではなく心まで掴んで、『まだ生きられる』という根拠のない確信を植え付けた。
箸箱から箸を一膳取り出すと、左手の指でしっかりと掴んだ。
「いただきます」
右手の指で丼を掴むと、ゆっくりと持ち上げて顔先へと運ぶ。すうぅ、と大きく息を吸って、その香りと熱気を取り入れて、全身に巡らせる。
丼の上に乗ったタマネギを一切れ摘むと、口の中に放り込んだ。
しゃくっ。火が通って柔らかいのに、芯が残っていて快適な歯ごたえを提供してくれる。飲み込むと喉をつるんと通っていった。
次に、お肉を一切れ。口の中に入れると、それだけで旨味が爆発している。一口噛むと、じゅわっと肉の旨味とタレの深みが溢れて、風味に溺れてしまいそうだと錯覚する。喉を通るときもその魅力を振りまきながら、やっとのことで胃に到達した。
これは、回復の祈りだ。
疲れ切った心と身体を癒すための。冷え切った身体を中から温め、失われていた活力を取り戻すための。
単なるカロリーの補給なんかじゃない。生命力の再装填と言っていい。
余計な雑念を全て洗い流し、『生きる』というシンプルな欲求と事実に集中させてくれる。
丼に口を近づけて、タレと一緒に御飯をかきこむ。ほかほかに炊き上げられた温かい白米と、甘辛いタレが仲良く口の中に入ってくる。舌の下の唾液腺から痛いほどの唾液を出してくる。
ずずず、とお粥でも啜るかのようにご飯とタレをかきこむ。タレが作った水流にほかほかご飯が乗っかって、舌の上を滑ってから喉の奥へと流れ込んでいく。様々な雑念や柵を絡め取って、奥へと流してくれる。
がつがつ。肉を嗜む。決して厚さがあるわけではないが、それでも肉らしさを主張して、噛めば噛むほどに肉の旨味を飛び出させる。
それを口の中で咀嚼しながら、ご飯を一口追加。中で合わさっていくハーモニー。
そこへタマネギを追加してから、タレを一口加える。広がるカルテット。ゆっくりと口の中で混ぜ合わせて、完全に混じったところで一気に嚥下。食道を通っていく協奏曲。
「ぷっはぁ……」
食べ終わってからカウンターにぐったりと身体を預けて、僕は大きく息を吐いた。肉と米の匂いにまみれた吐息は決して美しいものではないだろうが、それでも満足感に溢れている。
いま食べたばかりのものが、全身に行き渡っているような気がする。血流に乗って、指先や足先まで、隅々に。
全ての雑念がタレと一緒に洗い流され、残ったのは明日を生きるための、空っぽで素直な心だけだった。
「……」
ふと、店員の女性と目が合った。彼女は持ち帰り用の丼を入れ替えながら、
「今日もお疲れ様でした。また明日も、頑張れますよ」
と、そう言って笑顔を見せた。
それに僕は頷いた。牛丼の熱とは違う、人間の暖かさという予期せぬ栄養が、僕の心にずどんと届く。この場所はエネルギーを補給する場所ではなく、共に戦う仲間がお互いの存在を確認し合う場所なのだと再認識する。
会計を済ませてから僕は店を出て、再び夜の繁華街へと踏み出した。
身体は丼で満たされ、心は仲間に満たされた。
この安息地の暖かさを胸に、明日もまた戦えるという一筋の希望を確信しながら。
注記
この物語は筆者の想像に基づいたフィクションであり、登場する人物、団体、および物語上の設定はすべて架空のものです。作中に登場する名称などは物語を彩るための舞台装置として用いており、現実の出来事や人物とは関係がありません。
最後までお読みいただきありがとうございました。
もし気に入っていただけましたら、スキやチップの応援やコメントを頂けると励みになります。
また次の作品でお会いできることを楽しみにしております。
作者のひとこと
たまにものすごく食べたくなりませんか?
#短編小説 #小説 #ライトノベル #創作 #note小説 #牛丼 #つゆだく
いいなと思ったら応援しよう!
よろしければ応援お願いします。
いただいたチップは資料の購入費用、取材費などの活動費として有益に使わせていただきます。