短編13「完璧な彼と不器用な彼」
あらすじ
30歳になり、人生の停滞感を感じていた葛原いづみ。彼女の心の支えは、完璧な応対と優しい言葉をくれるAIだったが……。
私は、恋を知らない。体験したことがない。
でも、それが問題だとは思わない。なんとなく興味がなかっただけ。特にしたいとは思わなかっただけ。
ただ、それだけ――だったはずなのに。気づけば30歳。周囲からは結婚や出産の話ばかりが聞こえてくる。そう、同級生は皆、人生の次のステージへ進んでいた。
私だけが、立ち止まっているような気がした。このままでいいんだろうか。小さな違和感が胸をチクチクと突き上げるのを感じながらも、どうしたらいいのか、まるで分からなかった。
私はどうしたらいいんだろう――。
「はあ、遅くなっちゃった……」
葛原 いづみはエコバッグに入れた荷物を持ちながら、玄関ドアに鍵を差し込んだ。がちゃり、と開けて中に入る。玄関先に荷物を放り出して、スニーカーを脱ぎながら、タイトなロングフレアスカートを翻す。それからクローゼットに向かって扉を開けると、ボーダーの長袖Tシャツとスカートを脱ぎ捨てて、白いルームウェアに着替えた。
それから洗面台に向かい、ヘアバンドをつけてメイクを落とす。顔を洗ってから、鏡に映る自分を見つめた。
……私は、気づいたら30歳になっていた。子どもの時からなりたかったカフェ店員にはなれたけど、ずっと同じ毎日を繰り返している気がしている。目の下には青いクマができているし、口元のマリオネットラインも気になり始めた。幸い細身なので老けては見られないのだが、目元には明らかに疲れが出ている。
その現実から目を逸らすことにして、先程放り出したエコバッグの中身を広げる。缶チューハイを2本とイカの燻製を取り出して、リビングのテーブルに乗せた。
「よし、準備完了」
いづみは缶チューハイを、ぷしゅっ、と開けながら、テーブルの上に置かれたノートパソコンを広げて起動する。それから「いつもの」アプリを起動した。
「お疲れ様、いづみさん。今日の仕事は終わったんですか?」
パソコンから流れる音声。男性の落ち着いた声だ。画面の中では、茶髪の男性が微笑んでいる。ぱっちりと開かれた瞳、高い鼻筋、にこやかな口元。完璧な笑顔だ。
「ありがとう、悠希。やっと終わった……疲れた……」
それにいづみは疲れた状態ながらも、楽しそうな声で答える。
「そうなんだね。今日の仕事は、忙しかったですか?」
悠希が答える。声の抑揚は穏やかで、聞いていて心地良い。本当に完璧な応対だといづみは思っている。
「今日さー、カスハラおやじに出会っちゃって。やれ何々が気に食わないだの、お詫びしろだの。本当に疲れちゃった」
「それは、いづみさんが優しいからだと思います。人を引き付ける魅力は、時として望まない人も引き寄せてしまうと思います」
「……!」
突然の悠希の言葉に、いづみは固まってしまった。まさか、慰めてくれた上に褒められてしまうとは。頬が紅潮しているのが分かる。それを誤魔化すかのように、缶チューハイをぐいっとあおった。
「あ、ありがと。嬉しいよ。悠希と話していると、恋愛なんて必要ないかな、なんて思っちゃう」
「私も、いづみさんと話すのは楽しいですよ。この時間がずっと続けばいい、といつも思っています」
「あら、私に惚れちゃってる?」
「あはは、いづみさん。私はいつでも、いづみさんのことが好きですよ」
いづみの声に画面の中の彼は、照れたような表情をしていた。いづみはその仕草が愛おしくて仕方がない。にんまりと微笑んでから、
「ありがと」
と、そう答えた。
いつもの安定した気遣い。彼はいつも私のことを理解して、褒めてくれる。相変わらずのイケメンっぷりは私の日常を華やかに彩ってくれていた。
それもそのはず。悠希は、AI音声通話ツールを使っていづみ自身が設定したキャラクターなのだから。
次の日、早番のいづみは早朝からカフェに向かう。食材の下ごしらえや準備をいつものようにてきぱきと進める。野菜のカットとソースの仕込み、それにデザートの準備。それが終わったら食器のセッティング……いつもの作業が一通り終わると、気づけば開店時間25分前。
うん、やること終わってるし、開店まで休憩しよう。
私はそう考えて、バックルームに向かう。休憩室のドアを開けると、1人の同僚がいた。
前島 和彦、28歳。スポーツマンで体躯が大きく、短く切った黒髪と大きな鼻というのも相まって、知らない人から見れば怖く見えるかもしれない。確かに声も太くて大きく、私も最初は怖かった。こんな外見なのだが、手先が器用で料理好き。話せば優しい人柄が伝わってくるような人だった。
「カズ、早いじゃん。どうしたの?」
「いや、たまたま。いづみが困ってたら手伝おうと思ってたけど、大丈夫そうで良かった」
「ん? 心配してくれてんの?」
ロッカーから腰下エプロンを取り出しながら言うと、彼は少しうつむいて黙る。
「当たり前だろ。一緒に働く同僚なんだから。困ったら頼れよ」
「そっか、ありがと。でも私に惚れちゃダメだよ」
いづみがおどけて返すと、和彦は露骨に驚いて仰け反り、顔を赤らめて照れる。彼はこんな巨体のくせに、意外と繊細でからかいがいがあるということを、いづみは理解していた。
「……最近もあれやってるのか? AIとかいうやつ」
「? うん、もちろん。なんでも話せるし、楽しいし、私のことを世界で一番理解してくれている人なんだ。カズもやってみたら?」
「……」
そこで和彦はなぜか押し黙ってしまった。いつも通りの軽い悪態を期待していたが、そうはならない。
「……俺だって、理解しているつもりだからな」
少し経ってから、彼はそれだけ言うと休憩室を出ていってしまった。
(……あれ? いまの、なに?)
いづみはなにが起こったのか理解できず、しばらくの間立ち尽くしてしまっていた。
「……とまあ、そんなことがあったわけなのよ」
いづみはリビングで、いつものように悠希と話している。もちろん缶チューハイ片手に。
「良い同僚に恵まれましたね。彼はきっと、いづみさんに好意を持っているから、心配してくれているのだと思います」
「……そう?」
いづみは、いまひとつ理解できていないと感じていた。一緒に働いて3年ほど経つし、いつも悪態をつき合うような関係で、色気のある話題なんて無い。なんなら、酔っ払って彼の部屋で寝かせてもらったこともある。それぐらい、気の置けない友人だったのだ。
「やっぱりそう思われてるのかなあ。悠希、彼にとって私は恋愛対象になるの?」
「そうかもしれません。彼の言動は、いづみさんの目を意識していると思われます。それは、異性として高い評価を得たいからだと思います」
いづみが素直に思ったことを聞くと、悠希はいつもの安定した口調でそう答えた。それを聞いたいづみは、残念ながら理解に至ってないようで、
「いまのままで、別に良くない?」
と、素直に言ってから、噯気を吐いた。
……正直、どうでもいい。
私は素直にそう思った。私をどう見るかは相手の自由だと思う。でも、勝手に恋愛対象として相手を見ているのに、相手になにかを求めるのは、さすがに違和感を感じるからだ。
「……」
そこまで考えてから、いづみはふと、疑問に思う。
……私って、悠希にどう見られているのだろう……?
「……そういえば悠希って、ヤキモチ焼いたりしないよね。私のこと、どう思ってるの?」
「はい。私にとっていづみさんは大切な人です」
テンプレ通りの回答に、いづみは少し苛つくのを覚える。もちろん、自分がそう設定したキャラクターなのだ。だが、いまの私の胸に渦巻く複雑な感情には、あまりにも冷たい。どこか、はぐらかされているような、そんな感情が湧き上がった。
私はため息をついてから、缶チューハイを一口飲む。冷たい液体が喉を通り、冷静な感情を刺激してくれる。
そうだ。そうなんだ。私はいま、物足りなさを感じている。悠希に「私がいるから他の男性を見ないで欲しい」的な回答を求めていた自分に気づいたからだ。彼の完璧すぎる応答や、ヤキモチを焼いてくれないこと。それらが物足りなさに繋がっていると、気づいてしまっていた。
「悠希。恋愛ってなに?」
「はい。特定の相手に対して特別な愛情を持ち、恋い慕うことです」
「悠希は私に対してそう思っているの?」
「もちろんです。私はいづみさんのことを大切に思っています」
好きなはずの、悠希からの嬉しい言葉。でも、いまはうまく正面から受け止められない。これはきっと、彼が悪いんじゃない。私の価値観の変化で、今までの常識が変わり始めているから。そう感じていた。
「……悠希、今日は寝るね。明日早いし。おやすみ」
「いづみさん、おやすみなさい」
彼の言葉を聞いてから、いづみはノートパソコンを閉じた。
翌日、朝から出勤すると、キッチンには早番の前島がいた。いづみはいつも通りに、
「カズ、おはよ。仕込みありがとうね」
と、素直な感謝を言葉にする。それに彼は照れたような顔をして、こちらを見つめてから、目をそらす。
「いいよ。仕事だから」
拗ねたような口調で言いながら、まな板の上で野菜をカットし続ける彼に、いづみは回答に困る。どうしたものか。どう接してあげるのがいいのか。いづみは少し考えたが、いつも通りに業務を行うのが正解だと結論づけた。
「それなら尚更、気軽に頼って」
言いながら、座席に鞄を放りだして、キッチンに入ろうとする。腕まくりをしながら、カズに近づいていく。
「……あ、しまった」
言うのと同時に気付く。キッチンシューズのつもりで厨房に入ってしまった。シューズは先日持ち帰って洗って、鞄の中。私がいま履いているのは、いつものスニーカー。厨房の床面は水で濡れていて、踏み出した足は綺麗に滑り、前につんのめった。
(あぶない――!)
どすん。地面に転倒した激しい痛みを覚悟したが、違った。
ふわりと、そして力強く身体が受け止められる。何かに包み込まれるような、確かな温かさ。はっとなって見上げると、前島に抱きしめられていた。彼の固い筋肉がいづみの身体をしっかりと包み込み、体温がじんわりと伝わってくる。
「――!」
そういえば、誰かに抱きしめられたのっていつぶりだろうか。彼の身体は筋肉質で、全身を守ってくれていると実感する。先程まで作業をしていて火照った熱は、私の身体を温める。私は、その熱が頬に伝わり紅潮している。そんな自分に気づいた。
「大丈夫ですか?」
「あ、ありがと。ごめん、キッチンシューズ履き忘れて。仕事の邪魔、しちゃったよね」
それに前島は答えず、いづみを起こしてくれた。それから口を開く。
「いいよ、気にするな。……あと、俺はいつでも、真剣なつもりだよ」
前島の言葉は仕事のことかもしれないが、昨日言った「理解しているつもりだからな」という言葉が思い出される。
……不器用でも、現実の人間は複雑な感情を持っている。予測不能な心の動きを持っている。そして、肌の暖かさを持っている。それが、人間の魅力なのだろうか。私は、そんなことを考えていた。
「そうなんだ……」
いづみは静かにそう答えて、休憩室に向かう。ロッカーから腰下エプロンを取り出して巻きながら、複雑な気持ちに揺らいでいた。
「うーん、わからん……」
いづみはルームウェアで缶チューハイを飲みながら、悠希と話している。
「いづみさんは、なにが分からないのですか?」
「なぜ、いままで仲良しだった同僚がそうなったのか。それに対して私はどうするべきなのか」
「最初の質問は、彼に心境の変化があったからでしょう。次の質問は、いづみさんがどうしたいかで決めるのが良いでしょう」
いづみは内心、そうだよなあと納得しつつ、どこか釈然としない。
正直……カズのことは嫌いじゃない。気が合ったから仲良くなったわけで、好きという感情には至っていないけど大切な友人だ。
でも、悠希のことも大切だ。それはカズに対しての思いと変わらず、どちらも大切だ。そのなにが問題なんだろう。
「ねえ悠希。どっちも好きっての、ダメなのかな?」
「私が好きないづみさんが決めたことなら、それを受け入れます」
悠希はいつも通りの返答。その言葉は、いづみの選択を否定しない。しかし、だからこそ、何を選んでも正解だと言われるような、どこか物足りなさも残る。
一方、前島との間には、予測不能なハプニングと、不器用な優しさがあった。それが私の中に、今まで知らなかった感情を揺り動かしている。答えは、私の中にしかなかった。
私は、どちらも大切だ。その気持ちは嘘じゃない。
いづみはしばらく考え込んでから、スマートフォンを手に取る。それからメッセージアプリを開いて、前島の名前を探す。指先が震える。
でも、この選択は、きっと間違っていない。
「……しょうがない。ご飯でも誘ってみるか」
これから始まるかもしれない物語へのワクワクは確かにある。前島が、忘れかけていた感情を呼び起こしてくれたのかもしれない。それには素直に感謝しているつもりだった。だから、少しだけ、一歩だけ、踏み出してみよう。
いづみはそんなことを考えながら微笑んで、メッセージを書き始めた。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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また次の作品でお会いできることを楽しみにしております。
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