短編107「六十五光年を隔てて」
あらすじ
作家の彰人は、自分の作品は「過去の光」だと語る。絶望の底で生まれたデビュー作が、数年の時差を経て読者の心を照らすとき、彼は遠いアルデバランの輝きに、もういない過去の自分を重ねて……。
「僕の星は、あの時、もう死んだ。君たちが今見ているのは、過去の残像だ」
僕は、華やかな成功の舞台の裏で、常にそう感じていた。
新人作家としては規格外の成功者と呼ばれる大舘 彰人。
三十代前半という若さでデビュー作が二百万部を超える異例のベストセラーとなり、「文学界の救世主」とまで呼ばれていた。
彼が書くのは、壮大なスケールで絶望的な未来を描くSF小説だった。いまの時代、骨太のSFは売れないとされる中で、彼の作品は異例のヒットとなった。その理由は、その根底に流れる極限状態における人間の葛藤と、僅かな希望を信じる人々の人間ドラマが、「サバイバル・リアリティショー」として受け止められ、幅広い読者の共感を得られたからだと評されている。
読者は、彼が描く絶望的な世界を、映画の中で繰り広げられる過酷なゲームを見るように楽しみ、そして感動したのだった。
華やかな成功という眩い光の裏で、彼の瞳は常にどこか深い孤独の色を宿していた。それはまるで、遠い未来の情景を捉えているかのように、静かに遠くを見つめている。
新刊発表会として大規模な講演会が開催された。会場は満席で、熱狂的な期待と無数のフラッシュが彰人に向けられる。彼は、その熱狂からわずかに距離を取るように、会場の窓の外に見える夜空に目をやった。
彼が見つめているのは、都会の強烈な照明の中でも静かに存在を主張するオレンジ色の一等星、アルデバラン。
その落ち着いた輝きは、彼にとって『消滅したはずの、最も純粋な輝き』の象徴だった。
開催時間となり、司会の紹介が行われると、彰人はマイクを持ってステージに立つ。
「皆さんがいま、夜空に見ている星の光。あれは、数十年以上前の光ですよね」
会場が水を打ったように静まり返るのを感じながら、彼は熱意を込めて語りだす。
「牡牛座の一等星であるアルデバランは、地球から約六十五光年離れています。その光が僕たちの瞳に届くまでに、65年という長い時間を旅しているのです」
彰人は右手を大きく開いて、会場全体をゆっくりと見回した。
「つまり、いまこの瞬間に僕が見ているアルデバランの光は、僕の祖父母がまだ若く青春を謳歌していた頃に放たれた輝きなんです。星そのものもとっくに核融合を終えて静かに消滅している可能性すらあるのに、僕たちは死ぬ前の最も美しい、過去の輝きを見ています」
気持ちのこもった語りは、彼の天体への深い関心を示すように、知識というよりは、むしろ純粋な信仰に近い熱量を帯び始めていた。
彰人は照れたように苦笑して、
「すみません。少し熱が入りすぎました。大好きな星の話になると、つい」
と、そう言って深く頭を下げる。聴衆からは、彼の純粋な情熱に対する温かい笑みが漏れた。
「僕たち作家の仕事も、それと似ているんです」
彰人がいま読者から熱狂的に絶賛されているデビュー作。それは五年前、まだ世間が彼のことなど露にも知らなかった頃に書かれた。
当時の彼は未来への具体的な希望などまったく見えておらず、ただ「書かずにはいられない魂の奥底にある切実な叫び」だけを抱き、孤独な書斎で書き上げた一冊だった。
当時の彼はまさに、世間から隔離された絶望という名のサバイバル空間に生きていたことは、作品に影響を与えたことは想像に難くない。いまの成功からは想像もできない、彼の人生で最も暗い、孤独の絶頂期に生まれた作品だった。
「作品を書き上げた瞬間、僕の中の『想像の衝動という燃え尽きるエネルギー』は、そこで爆発して消滅している。僕の星は、そこでもう死んだのです」
あの頃の衝動はもう、彰人自身の中にはない。現在の彼は成功という舞台に立っていて、あのときの純粋な悲痛さ、極限状態でのリアリティを再現することはできない。
しかし読者は、数年の時差を経て、その死んだ衝動の光――つまり、過去の極限サバイバルの記憶を受け取っている。
「皆さんが感動してくれた、人生の支えになった、と手紙やコメントをいただくたび、あのとき確かに存在した感情が時間を超え、皆さんの心の中で輝いていることを心から嬉しく思います」
それに聴衆が大きな拍手を送った。彰人はそれに照れくさそうな笑顔を見せる。
彼が最も深い孤独を感じるのは、読者からの熱狂的な感想が届く、まさにその瞬間だった。
成功が確定した喜びではなく、過去の自分の感情が時間差で届いているという、静かで決定的な疎外感。彼が感じる孤独は、単なる寂しさではない。それは、過去の自分と、今の熱狂との間に存在する、65光年にも等しい孤独の時差だった。
称賛の言葉が届くたび、彼は胸の奥で「ああ、僕の星がやっと届いた。でも、僕自身の星はすでに、遠い過去に消滅しているのに」と静かに呟くのだ。
彰人は講演の最後に、聴衆一人一人を見つめるように視線を向けた。
「どうか、僕の想像と衝動という過去の光が、皆さんの今日の夜を少しでも長く、明るく、照らし続けますように」
静かにそう締めくくった。
鳴り止まない拍手の中で、彰人は舞台袖に向かって楽屋に入っていく。
控室の椅子に座って、ゆっくりと息を吐いた。
――僕がこの拍手を聞いているこの瞬間は、初めて誰かと時間を共有できた瞬間かもしれない。
けれど、彼らが本当に求めていたのは、もうこの部屋にはいない。
五年前の、もう存在しない僕の魂だ――。
ステージからはまだ拍手が響いている。
その中で彼は、遠く瞬くアルデバランの冷たい光と、遠い過去の孤独な自分自身に、そっと別れを告げるのだった。
注記
この物語は筆者の想像に基づいたフィクションであり、登場する人物、団体、および物語上の設定はすべて架空のものです。作中に登場する名称などは物語を彩るための舞台装置として用いており、現実の出来事や人物とは関係がありません。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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また次の作品でお会いできることを楽しみにしております。
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