短編132「琥珀色の行間」
あらすじ
「的確すぎる」文体に悩み、描写の才能を渇望する建作。憧れの女性・透子の『琥珀色』の感性に触れ、彼は初めて言葉を使わずに感情を綴ろうと試みるが……。
僕の書く文章は、あまりにも的確すぎた。
『彼女は悲しんでいた』
パソコンのディスプレイには、その一文が剥き出しの骨のように横たわっている。
本来なら、『震える指先』や『伏せられた睫毛に落ちる影』、あるいは『遠くで鳴る踏切の音』などを配置すべきなのだろう。文芸とは、伝えたいことを直接的に伝えないための高度な迂回運動だ。
それなのに、僕の脳は最短距離で結論を導き出してしまう。
数少ない友人は、僕の小説を読んで言う。
「誠実な文体だね。君は、嘘がつけない性格だから」
フォローのつもりだったのだろうが、それは僕にとっては『才能がない』と言う宣告に等しかった。
つまり僕は、物書きとして致命的な弱点を持っている。そういうことだった。
話題の小説を買い込み、赤いボールペンを握って描写を解剖する日々。
けれど、どれだけ美しいメタファーを摂取しても、僕の指先から零れ落ちるのは、診断書のように味気ない情報の羅列だった。
地域の文芸サークルで、彼女は僕の隣に座っていた。
人の良さが滲み出ている女性。優しさに包まれた彼女の文章は、僕のそれとは対極にあった。
『雨の匂いが、古い図書館の埃と混じって、消したい過去のような色をしていた』
彼女の原稿を読み、僕はめまいを覚えた。消したい過去のような色。
それは何色だ? 光学的にも論理的にも説明がつかない。
けれども、その行間からは、僕が一生かかっても書けないような湿った熱量が溢れ出していた。
僕だけの正しさという名の病を壊した、それが透子さんだった。
彼女への憧れは、次第に形を変えて、僕の文体にさらなる混乱をもたらしてくれた。
「建作さんの文章って、なんだか手術室みたい」
閉館間際の図書室で、透子さんは僕の原稿を覗き込んで、言った。
「手術室?」
「ええ。すごく清潔で、正確で。いつも誰かを助けようとして必死にメスを入れているように見えるの。もう少し、麻酔をかけてあげても、いいかもしれませんね」
彼女がそう笑うと、窓から差し込む西日が、彼女の輪郭を琥珀色に縁取った。
透子さんは美しい。
だけれど、その文字をキーボードで打とうとした瞬間、脳内でなにかが激しく抵抗した。
美しいとは、どの程度の美しさなのか。
西陽の波長は何ナノメートルなのか。
彼女の口角が何ミリ上がったのが美しかったのか。
——違う。そうじゃないんだ。
僕は何度かかぶりを振ってから、作業デスクの上に頭を放り投げる。
彼女の美しさを、この気持ちを、ただの数文字で定義してしまうことが、耐え難い背徳感を感じさせている。
彼女へのこの感情を。触れたいという衝動を。隣にいたいという願いを。
どうにかして『言葉を使わずに』表現したかった。
思い出す。先日の彼女はどんな様子だっただろうか。
読みかけの本に栞を挟む、その僅かな指の迷い。
紙の端をなぞる、頼りなげな爪。
言葉に詰まったとき、彼女の喉が僅かに上下する、その一瞬の空白。
僕は、それを執拗に書き写した。
『彼女は寂しそうだった』とは書かない。
その代わりに、彼女が窓の外を見つめる時間の長さと、そのとき床に落ちた僕たちの影の距離について、原稿用紙三枚分を費やした。
それからしばらくして。
またサークルの集まりで彼女に出会えたとき、出来上がった原稿を彼女に渡した。心臓の鼓動が耳の奥でうるさく鳴っていた。
彼女はゆっくりとページをめくる。読み終えたあと、彼女は本を閉じるようにそっと原稿を置いて、僕の目をじっと見た。
その瞳には、切なさとかそういった、言葉にならない情熱が混ざり合っていた。
「建作さん。この文章……すごく、嘘つきですね」
彼女の頬が、琥珀色に染まる。それは、僕の人生で初めて受け取った最高の賛辞。
的確すぎる僕の文体は、まだ完全に変わっていない。
けれど、嘘をつくための『真実の欠片』をどう配置したら良いのかを、僕は少しずつ理解し始めていた。
僕は再び、指でキーボードをなぞる。
愛してる、とは書かない。
ただ、彼女と一緒に飲んだ、少し冷めたコーヒーの苦味が、いつまでも舌の奥に残っていることだけを——そんなこと、現実的にあり得るはずがないのに——正確に記述するために。
注記
この物語は筆者の想像に基づいたフィクションであり、登場する人物、団体、および物語上の設定はすべて架空のものです。作中に登場する名称などは物語を彩るための舞台装置として用いており、現実の出来事や人物とは関係がありません。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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また次の作品でお会いできることを楽しみにしております。
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