短編84「ほどける、みつあみ」 保護猫カフェバー Il Gatto Errante #5
登場人物紹介(最新話を元に構成・更新しています。そのため本編のネタバレとなる場合がございますので、閲覧にはご注意ください)
あらすじ
栄門町にある保護猫を預かるコンセプトカフェバー、「Il Gatto Errante(イル ガット エランテ)」。完璧主義のサヤカは短期留学から戻り、分単位で保護猫を管理しようとするが……。
完璧でなければ意味がない。
なぜ、そう思うかと言われても……そういう環境で育ってしまったから。
ココが着替えてバックルームから出ると、急に裏口のドアが開いた。
突然のことに慌てて振り返ると、そこには小さな少女が立っていた。黒髪を二本の三つ編みに束ねて、顔の起伏は乏しい。襟の大きな黒いワンピースは胸元に3つのボタンをあしらっており、どこか制服らしい印象が、彼女をより幼く見せていた。
「……あ、あの、ここはお店の裏口で――」
ココは戸惑いながら声をかける。反射的に迷子の心配をしていた。
「え……? あ、新人さん?」
「……はい?」
少女は不思議そうな視線をココに向けると、そのままスタスタとレオンの診察室に入っていった。
「ココ、おはよぉ! ……どうしたの?」
カウンター回りの準備をしながら、ココに気づいたメイが声をかけて、その表情に気づいて不思議そうな顔をした。ココは診察室の入口を指さしたまま、固まっている。
「あの、三つ編みの少女が、入ってきて……迷子かなって……」
「……あ、ああ! サヤカかな? 短期留学から帰ってきたのかも」
メイがぽん、と手を打つのに、ココはまったく状況が分からず、首を傾げた。
「ココ、紹介するよ。キャストのサヤカだ」
しばらくしてレオンが三つ編みの少女を連れて、開店準備を進めるココに声をかけた。
「ココさん、初めまして。愛玩動物飼養管理士のサヤカです。短期留学で一ヶ月ほど離れていましたが、この店のキャストです」
言って彼女は深々と頭を下げる。厳格な家庭で育ったのだろうか、完璧な角度のお辞儀だった。それから顔を上げながら、知らず知らずのうちに呼吸が錠をかけられていたかのように、小さく息を吐いた。
「初めまして、新人のココです。よろしくお願いします」
それにつられて、ココも慣れないお辞儀を返した。
カフェタイムが始まる十五分前には準備が完了した。その間サヤカはカウンターでノートを開いて、たまに唸りながらずっとなにかを書いている。
「あ、あの、サヤカさん。いまお忙しいですか? なんだか大変そうに見えて……」
「……え、ええ。業務マニュアルの更新と、保護猫の管理マニュアルを見直しているの。こういうのずっと私の仕事だったから、レオンに指示されていて」
言いながら彼女はゆっくりと息を吐く。完璧なマニュアルを作成したいという思いがしばらく呼吸を忘れさせていたのだろう、久しぶりに深く吸った息は、ゆっくりと身体を満たしてくれた。
ばさー。サヤカのノートの上に、急にソラが滑り込んできた。
ソラはブリティッシュショートヘアのオスで、シルバーのソリッド。ノートの上で寝転がり、ペンをたしたしと猫パンチして、サヤカの邪魔をする。自由すぎる性格でお客さんには好かれていたが、なにかと世話が大変であった。
『にゃ、にゃにゃー!』
「ぎゃー! ソラ! やめて、ノート汚れちゃう」
突然のことにサヤカは、両手で頭を抱えて素っ頓狂な声をあげる。
サヤカの悲鳴をソラは気にせず、『うにゃ?』と不思議そうに首を傾げて、すんすん、とサヤカの手のにおいを嗅ぐ。完璧な猫らしさに、サヤカは瞳を閉じてため息をついた。
「自由人ですね……でもソラ、サヤカさんに懐いてるんですね。文字を書くのを邪魔してくるなんて」
「あ、あはは……そうね。本当に、世話のかかる子ね」
そう言いながらサヤカはソラを抱き上げる。ソラは嬉しそうにサヤカの顔をぺろぺろと舐めると、すぐに飽きたらしく、暴れて飛び出していった。
「……ほんと自由人ですね」
ココはそれを見ながらもう一度言って、なんとも言えない微妙な笑いを漏らした。
「レオンさん、マニュアルを更新しました。一度見てもらえませんか?」
サヤカは開いたドアを数回ノックしながら、ノートを手に室内に入ってくる。レオンが振り向くとサヤカは、少し自慢げな顔でノートを差し出した。
「ありがとう。どれ――」
びっしりと書かれた小さい文字で、分刻みの一日の予定が書かれている。
(まあ、業務マニュアルはこれでもいいけど……)
問題は保護猫の管理マニュアルだと、レオンは考えていた。
人間と違って、猫は思い通りに動いてはくれない。分刻みのスケジュールなんて、対応できるものだろうか?
感覚的にはやり過ぎだと感じているが、もしこの通りに進められるなら確かに理想的だとレオンは判断していた。それに、復帰してすぐ、大変な業務に対応してくれたサヤカの誠実さは、素直に尊重すべきだと思っている。
「――わかった。ありがとう、ひとまず、これでやってみよう」
レオンは微笑みながら、ノートをサヤカに差し出した。
「ソーーーラーーー! ご飯の時間なのにー!」
天井近くのキャットウォークで、ソラはグルーミングに勤しんでいる。下で叫んでいるサヤカのことなんてお構い無しだ。
(ソラがあんな高いとこまで登るの、珍しいな……)
その光景をココは静かに見つめていた。
それから数日、サヤカの計画は完璧に実行されていた――。
……なんてことはなかった。
業務マニュアルにはバッファがないため、ひとつの作業が遅れるとその後のすべてが遅れていく。開店前に遅れを取り戻せず、オープンして接客しながら清掃をするようなことが増えた。サヤカは他を頼らずに一人で無理に取り戻そうとし、顔から表情がだんだんと消えていった。
保護猫の管理マニュアルは言うまでもない。
例えば食事の場合、猫は出されたご飯を自分のペースで食べる子が多い。少し食べてから時間を置いて、後から残りを食べる子の方が多かったのだ。サヤカは『計画通り』に食べない猫たちを見て、完璧な計画を乱す予測不能な自由に、静かに苛立ちを募らせた。
「レオンさん! ソラの調子が――」
突然、ココがソラを抱いて、診療室に駆け込んでくる。
「どうした?」
「ソラが、嘔吐したんです。吐き戻しじゃなくて、嘔吐です」
レオンは苦しそうなソラをベッドに寝かせると、触診を始めた。
猫は食道から胃までの距離が長い。野性時代の名残で、有害なものを食べてしまったときにすぐ吐き出せたり、毛づくろいで飲み込んだ毛を吐き出せるようになっていたりするため、単なる吐き戻しは日常で特に問題がないケースが多い。
だが、嘔吐となると話はまるで変わる。
まさか、そんな。
あの元気なソラが嘔吐――?
(もしかして、私のスケジュールの所為――!?)
カウンターでその光景を見ていたサヤカの顔から、血の気が引いていく。
胃の内容物を嘔吐したという事実に、サヤカは強いショックを受けていた。結び目の固い三つ編みのように、完璧でなければならないという自身の信念が、ソラを壊したのだと思い始めている。
(私の管理が自由を奪い、体調を崩させたの? 私の計画は間違っていたの――?)
「――診たところ、恐らく大丈夫だろう。胃の中が空っぽだから、次のご飯をがっつく可能性がある。消化のいいおやつを与えて、しばらく様子を見よう」
「はい!」
レオンの言葉にココは元気のいい返事を返して、ソラを抱えてバックルームへと走って行った。
「……?」
レオンはその背中を見送ってから、カウンターのサヤカに視線を移して、その違和感に気づく。サヤカは口を小さくぱくぱくとさせて、顔色が白く見えた。
「……サヤカ、少し出れるか?」
時計は二十二時過ぎ。バータイムが終わって、あとは片付けだけという状態だ。
レオンの言葉に、サヤカは静かに頷いて、更衣室へと向かって行った。
「お、毎度!」
駅近くの焼鳥居酒屋『立呑処 ねぐら焼き』。目立たない裏路地にある隠れた名店といった風体だ。
「……ん? 隣のお嬢ちゃん、未成年かい?」
「大丈夫です、成人していることを確認しています」
おやっさんとレオンがそんなやりとりをしてから、レオンとサヤカはカウンターに並んで座る。ビールとハイボールといつもの串を頼んで、二人はおしぼりで手を拭いていた。
「……サヤカ、大丈夫か?」
「え、えっ……いや、私よりソラの方が――」
「触診した限りは大丈夫だった。彼のことだから恐らく、サヤカが帰ってきて、はしゃぎすぎたんじゃないかな。だから心配することはないよ」
暗い顔のサヤカに、レオンはあえて明るい口調でそう言う。だがサヤカの視線は床に貼り付いたままだ。レオンは過去の自分をそこに重ね、これ以上言葉をかけるのを止めて静かに時間を緩めた。それ以上はなにも言わずビールを一口飲む。
それからたっぷり3分ほど、静かな時間が過ぎた。
「……私――完璧でなければ価値がない、って思っているんです。我が家ではミスは罪でした。だから、完璧に管理しないと、私が存在している価値がないような気がして……」
不意に、サヤカが口を開いた。
「厳格な家庭で、何事も完璧を求められて生きてきました。……でも、そのせいでソラが――」
レオンはサヤカを見つめたまま、なにも言えなくなってしまう。それは、かつての自分もそうだったから。
「……サヤカのせいじゃないと思う。単なる偶然だよ」
少しでも心が軽くなるよう祈って、レオンは静かにそう言った。
「……サヤカが初めて出勤してくれたときのこと、いまでも覚えてる。猫たちを幸せにしたい、って語ってくれたよね」
「はい……」
レオンの言葉にサヤカは少し不思議そうに、頷いた。
「その気持ちが大切なんじゃないか? 命はなにかで測れない揺らぎの中にいる。完璧を求める誠実さは素晴らしいが、自分を縛る重い鎖は、自分の意思でほどいてもいいんだよ」
それにサヤカは少し目を見開いた。それから視線をジョッキに向けてから掴むと、一口ハイボールを飲む。
「はいよ、お待ち」
二人の前に、ねぎまと砂肝が二本ずつ乗った皿が置かれる。肉が焼けるにおいが香ばしく、口に含めば唾液が溢れそうだなと思えた。
「サヤカ、私はあなたを信頼している。その真面目さ、丁寧さ、誠実さ。どれも店に必要だと思っている。でも、だからこそ。私や他のキャスト、それに猫たちを、もう少しだけ信じてはくれないか?」
はっとなってサヤカがレオンに向き直る。それから視線をまたジョッキに戻すと、手を伸ばしてジョッキを掴んだ。それから、ぐい、と大きく一口ハイボールを飲む。
「レオンさん……こんな私に、ありがとうございます」
「サヤカ、覚えておいて欲しい。私たちは一人じゃない。仲間なんだ。だから――これからも、よろしく頼むよ」
その言葉にサヤカは泣きそうな顔をしてから、「はい」と大きく頷いた。
そして、翌日。
『にゃーん!』
ソラが店内を走り回っている。店の奥まで全力ダッシュして、百八十度ターンしてから今度は入口の方まで全力ダッシュ。解放された気まぐれな自由そのものの姿を見つめて、サヤカは微笑んでいた。
ソラの軽やかな自由が、重い自責の念を少しずつほぐしてくれる。心の結び目が、少し緩むのを感じていた。
……私は、完璧じゃなくていい。
自由な猫たちと一緒に、自分のペースで歩いていけばいいんだ。
少しずつ、重い鎖を外していこう――。
サヤカは強い決意を胸に、大きく頷いた。
ほどけたのは三つ編みではなく、心の結び目だった。完璧ではない自分を縛る重い鎖が外れ、心の余裕が生まれた。
その変化は、彼女の結び目の固い三つ編みをほんのわずかに、でも確かに、緩ませていた。
注記
この物語は筆者の想像に基づいたフィクションであり、登場する人物、団体、および物語上の設定はすべて架空のものです。作中に登場する名称などは物語を彩るための舞台装置として用いており、現実の出来事や人物とは関係がありません。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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また次の作品でお会いできることを楽しみにしております。
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