短編71「ゆれた、きずな」 保護猫カフェバー Il Gatto Errante #4
登場人物紹介(最新話を元に構成・更新しています。そのため本編のネタバレとなる場合がございますので、閲覧にはご注意ください)
あらすじ
保護猫を預かるコンセプトカフェバー、「Il Gatto Errante(イル ガット エランテ)」。完璧を求め疲弊する獣医師レオンに、NPO代表の親友・熊崎が猫の引き上げを警告する。過去のトラウマに縛られるレオンは……。
「おはようございまーす!」
裏口のドアを勢いよく開けて、ココが入ってくる。いつもの黒髪ツインテール、白いブラウスに紺色のパンツ。小さなメッセンジャーバッグは、彼女の基本スタイルとして定着していた。
店内に入ると、ちょうどレオンが部屋から出てきたタイミングだった。店内には簡単な診察ができる部屋が用意されている。そこからレオンが、ふらり、と疲れた顔で出てきたタイミングだったのだ。
彼女の背には、目に見えない分厚い鉄板が貼り付いているかのような、重い影が落ちていた。
「……あ、おはよう」
彼女はなるべく気丈に振る舞おうとしているのだろうが、声には明らかに疲れが出ている。いつものキレは失われ、足取りもどこかおぼつかない。
クールな面持ちは崩さないが、目の下にうっすらと浮かんだ青いクマが、彼女の疲労を物語っていた。
彼女の疲労は、いまに始まったことではない。
獣医師として一匹たりとも見落とすまいと、レオンは自らの首に見えない鎖を巻きつけ、自分に限界を強いていた。店内の保護猫すべてを厳密に管理するという過度な神経質さが、その疲弊の最大の理由だということは、ココも気づいている。
「あははぁ……忙しそう、だねぇ」
気づけば後ろにメイがいた。長い茶髪をたなびかせて、すでに制服に着替えている。
「メイさん、レオンさんは……?」
「あれだねぇ。最近、うちで預かる猫が入れ替わり立ち替わりで増えてるからぁ……」
メイは困ったような顔で、言った。
確かに最近、保護猫の入れ替わりが激しい。キャストに懐いているモカやラテ、ベルなどの定番猫はともかく、他の猫たちは預けられては他の子に交代するようなケースが増えていた。
「おーい、お邪魔するよ」
裏口のドアを開けて壁を拳で叩いている女性が現れた。身長は180センチ近く、がっしりとした体格。濃紺のデニムに厚手のニットを羽織って、短く刈り上げられたサイドのベリーショートが、安心感を与える人柄を映していた。
「レオンいる?」
メイがカウンターを促すと、彼女は椅子に腰掛けた。ぎしぎしと椅子が悲鳴をあげる。レオンが隣に座って、彼女に疲れた視線を向けた。
「メイさん、彼女は……?」
「NPO法人『ねここここねこ』の代表、熊崎さん。この店で預かっている猫は、すべて彼女が手配してくれてるの」
メイの言葉にココは頷いた。
「レオン、単刀直入に言うよ」
カウンターに座ってすぐ、熊崎は口を開いた。
「いまこの店に預けている子たちを、一旦すべて引き上げさせて欲しい」
「熊崎……」
レオンはそれだけ言って、押し黙ってしまった。視線を少し落として、様々な自責の念だけが表情に表れている。
「あんたは昔から、神経質すぎる。やりすぎだ。その疲労で、判断が鈍って猫に影響が出ることを私は懸念している。あのときのように、取り返しのつかないことが起きる前に、なんとかしたいんだよ、こちらは」
熊崎の言葉に、レオンは身体を少し震わせる。
彼女の言葉は、非難ではなく警告。いつもクールなレオンも、さすがに顔から血の気が引いていた。
「ちょっと待ってください、熊崎さん!」
ココは思わず、一歩踏み出しながら叫んでいた。
「レオンさんは誰よりも猫を大切にしています! 私たちが言っても夜中まで一匹一匹の体調をチェックしてくれています。それなのに……!」
熊崎はココの剣幕に目を見張ったが、それからレオンを振り返って、ココを指さした。
「……ココ、気持ちは嬉しい。けれど、これは私の責任だと思う」
『にゃあ……』
レオンの足元で、モカが遠慮しがちな声で鳴いた。彼女はレオンと熊崎を交互に見つめて、小さく、しかし切実な声で、鳴き声をあげていた。
その声は率直な願い。『信じて、支えて』という素直な気持ちが込められた鳴き声に、熊崎はばつの悪そうな顔になる。
「……分かった、分かったよ」
熊崎はモカから視線を外して、レオンの顔を見つめた。
「これから時間作れる? いつもの店で話そう」
レオンはそれに大きく頷いて、
「ココ、メイ。少し店を離れるわ」
と、疲れた声でそう言った。
駅前にある『立呑処 ねぐら焼き』。ロータリーから1本入ったところの、人通りの少ない細い路地の一角に、お店があった。
煤けた古い木造の店構えで、引き戸を開けると外の喧騒を断ち切るように備長炭と秘伝のタレの香りが優しく漂ってくる。神棚には招き猫が飾られていた。
「鉄平ちゃん、ビールといつものやつ頼まぁ」
入店するなり熊崎は言った。カウンターに2人で並んで、すぐ届いたビールに口をつける。
「乾杯なんて気分じゃ、ないよなあ」
熊崎が一口飲んでから、呟くように言った。レオンはそれに答えず、ビールを一口小さく飲む。
厨房の中で、網の上にねぎまと砂肝が2本ずつ、乗せられた。じゅうじゅうと焼ける音と匂いが食欲をそそる。
「……それで、この話の落着点を留香はどう考えてるの?」
レオンが冷静に言うのに、熊崎は静かに頷いた。留香と名前を呼ばれた熊崎は、一度静かに頷いた。
「あのなあ。頼むから、冷静になってくれよ、蓮」
熊崎はレオンをそう呼ぶ。絆の深い戦友にだけ許された呼びかけ。
レオンは一瞬目を瞑って、静かに頷いた。
「店でのあんたは、あのときの蓮に戻ってる。判断の重圧に潰されかけていたときの、あんただ。私はただ、限界を迎える前に休ませたいけど。立場上、猫の扱いについて口を出さざるを得ない」
言って熊崎はジョッキを掴んで、ぐい、と一口飲んだ。
「……そうよ。あのときと同じ。私は、アッシュを死なせてしまったときから、なにも変わってない」
「忘れろとは言わない。でも、もう、いいんじゃないか?」
「……」
レオンは熊崎の言葉に、無言の不満を表明している。その沈黙は居酒屋の喧騒を押さえつけて、すべてを包み込むのではないかと思うほど、重かった。
――かつて、熊崎とレオンが同じ動物病院で働いていた頃。アッシュという一匹の猫が運ばれてきた。雑種で全身シルバーの成猫。
「……アッシュはすでに重度の腎不全だった。多忙で疲労困憊だった私は、微細な脱水兆候を見逃した。それが原因で症状が悪化して、アッシュは死んだ。私はそれ以降、自分の診察ミスで命を奪うことに、神経質になっている」
「……」
今度は熊崎が黙り込む番だった。
「はいよ、お待ち」
2人の前に、鉄平がねぎまと砂肝を2本ずつ乗せた皿を置く。塩焼きのそれは、よく焼けた素材そのものの良い香りを漂わせていた。
「蓮、違う。あんたは、あの失敗を誰より反省して、たくさんの命を救ってきただろ? そんなに自分を追い詰めるな。獣医師を辞める必要なんてなかったんだ。あんたはもう、あのときの蓮じゃないだろ?」
熊崎は思わず、レオンの手を握りしめていた。レオンの手より一回り大きな熊崎の手が、そっと包み込む。
「あんたの誠実さは見事だよ。でもな、それが疲労になっている。あんたの技術も情熱も知ってるけど、そこまで追い詰めるのは、もう終わりにしないか?」
熊崎の言葉に、またレオンは黙り込む。それからジョッキを持って、またビールを流し込んだ。
「……ありがとう、留香。いますぐに変わることはできないけれど、心配されているということは、深く理解できた」
レオンは弱々しい笑顔を見せながら、熊崎の瞳を見つめ返す。少し泣き出しそうな瞳が、彼女の気持ちを表していた。
「私だってNPO立ち上げのときに相当苦労したし、蓮の気持ちが分からないわけじゃ、ない」
熊崎は照れくさそうに微笑みながら、ほんのり頬を赤らめながら、ジョッキを掴んでビールをぐいぐいと一気に飲んだ。
「――留香。私を見守ってくれないか?」
「……分かった。分かったよ。提携解消の件は、撤回する。ただし、管理作業の割り当てを変える。蓮、すべてをあんたが診断するんじゃなく、こちらで診断して預ける数を増やす。そこは、協力して乗り切らないか?」
「……!」
熊崎の提案に、レオンは少し目を開いて、驚いた表情を見せた。
「いいか、蓮。私たちは、1人じゃない。協力しあおう。いいね?」
言って熊崎は、レオンの手をまた握る。先程の優しいスキンシップとは違い、今度は強く握った。
それにレオンは、視線を一度熊崎に向ける。それからまたうつむいて、大きく頷いた。
それからレオンは熊崎と別れて、イル ガット エランテに戻る。ちょうどバータイムが終わったタイミングで、ココとメイが閉店の片付けに勤しんでいるタイミングだった。
カウンターの上には、モカが静かに鎮座している。まるでレオンを待っていたかのように、彼女の姿を見ると優しい安堵の鳴き声を上げた。
レオンはモカを抱き上げて、強く抱きしめる。
「……大丈夫だよ、モカ。あなたの信頼に、私は必ず応えてみせるから」
それにモカはまた、優しい鳴き声を上げた。
翌日から、管理体制は大幅に変わった。保護猫のケア体制が大きく変わり、レオンの診察回数が大幅に減った。いつしか、彼女の瞳から過去の影は消えていた。
親友と分かち合った重圧は、彼女に獣医師としての静かな闘志を宿らせていた。
注記
この物語は筆者の想像に基づいたフィクションであり、登場する人物、団体、および物語上の設定はすべて架空のものです。作中に登場する名称などは物語を彩るための舞台装置として用いており、現実の出来事や人物とは関係がありません。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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また次の作品でお会いできることを楽しみにしております。
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