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短編15「あなたが虚無に灯してくれた」

あらすじ

結婚後、パートナーとの関係が冷え切ってしまった倉下亜也子。 虚無感を抱えた彼女の心の拠り所は、マッチングアプリで出会った「Shi-ge」との他愛ないメッセージのやり取りだったが……。

 いつもの朝。私は自分のための朝食を作る。ご飯を1合だけ炊いて、ベーコンを炒めて、目玉焼きを作る。それがいつものルーティン。1人暮らしをしていた時も、そして結婚してからも、それがずっと私の毎日だった。同じ食卓を囲むことなどない、無音の日常。

 ばたん。パートナーの部屋のドアが開く音。彼はいつも通り紺色のスーツを着て、茶色のビジネスバッグを持って、ダイニングを通り過ぎて行く。彼は朝食を摂らない。いつものことだ。
「おはよう。今夜の晩ごはん、どうする?」
「時間見えないから、気にしないで」
 彼は振り向きもせず、優しい声で言う。それから革靴を履いて玄関から出ていく。

 これも、私の毎日だった。
 ふと、吐息が漏れる。実家にいた時は、朝は家族で食べる習慣があった。それが正しいとか普通だとかは思わないけれども、昔からの習慣が無くなったという事実はなんとも言えない気分になる。

 私は、倉下 亜也子くらした あやこ。36歳になったばかりだ。新卒で入社した商社で知り合ったのが、他部署である彼だった。お互い若かったこともあり、すぐに恋愛関係になって25歳で結婚した。そこまでは良かった。
 お互いに子どもを望んでいたのだが、どれだけ妊活に取り組んでも授かることはなかった。数年前から妊活は自然消滅して、2人の会話がなくなって、彼は家に寄り付かなくなっていた。

 亜也子は吐息を吐きながらスマートフォンを取り出すと、マッチングアプリを起動する。いつも通り「Shi-ge」からのメッセージが届いていた。
『ayakko、おはよう。朝日は暑いね。むしろ痛い。あなたが良い一日を過ごせますように』
 彼からの毎日の挨拶は、いつも中身がない。Shi-geはいつも、思いつくままの文章を思いつくままに書いて、投げてくる。しかし、その自然なコミュニケーションが心地よいと、亜也子は感じていたのだ。

 パートナーとは、すでにセックスレスになっていた。それから自然にセカンドパートナー専用のマッチングサイトを始めることにした。パートナーとは長い時間を過ごしてきたし、愛着もあるし、別れたり再婚したりと見捨てるつもりはない。だから、セカンドパートナーという選択肢に活路があるのではないかと考えていた。
 セカンドパートナー。定義は色々とあるが、亜也子にとっては「既婚者が配偶者以外に持つ、恋愛感情を持つ交際相手」。恋人ごっこでいい。性交渉は求めていない。ただ、こんな自分をありのままに受け止めて欲しい。求めることは、それだけだった。

 ……Shi-geは、不思議な人だ。マッチングアプリによくいるがっついた人ではないし、会いたいとか性交渉とか、そういうことは求めて来ない。だから毎日、ただ挨拶と、昨日見た映画や配信の話とか、そんな他愛のないことしか話さなかった。

 彼はなにを考えているんだろう?

 亜也子は少し考え込んでしまう。会話が楽しければそれでいい、ということならそれでもいい。しかし、彼女はどこかすっきりしない表情で、食べ終わった皿をキッチンに持っていく。それを手際よく洗ってから、いつもの仕事用ブラウスとビジネスパンツに着替える。鞄を掴むと、彼女は家を出ることにした。

『Shi-geくん、おはよう。これから出勤。こないだ教えてくれた恋愛映画、出勤中に見てる。見終わったら感想送るね』
 亜也子は電車に乗ってすぐ、彼にメッセージを返す。それから動画アプリを立ち上げた。
 内容は、いわゆる普通の恋愛映画。男性と女性が知り合って、バイオレンスして、結ばれる話だ。ストーリーは普通だが、ロケーションが良い映画だというレビューを亜也子は知っていた。

(恋愛……かあ……)
 ……恋心って、なんだろう?
 正直、思い出せない。思い出そうとすればするほど、心にぽっかりと空いた穴に、冷たい風が吹き込む。

 11年前は、確かに彼に恋愛感情を抱いていたはずだ。でも、なぜ消えたのか思い出せない。それから、私の心は穴が空いた空虚な空間になった。その空間には、映画で見たイケメンは入って来れない。男性に言い寄られても、入って来れない。面倒だから軽くあしらうだけ。

 ブルル、ブルル。スマートフォンのバイブレーションが揺れる。通知を見ると、Shi-geからの返信だ。亜也子はうきうきした顔で、メッセージを開いた。

『ああ、あれね。話はアレだけど、風景がすごくいいんだ。俺は恋愛とかあまり分からないから、風景の感想ならぜひとも聞きたい』
 Shi-geのメッセージはいつもこんな感じだ。思考に素直というか洞察力が高いというか、指摘が的確というか、ぶっきらぼうというか……とにかく、だいたいいつもこんな内容を返してくる。亜也子は、もう少し共感とかあってもいいんだけどな、と思いつつ、そんな彼との付き合いは気楽だと感じている。

 彼は前に、パートナーを作りたくないという考えだと言っていた。嫉妬という感情や、肌を重ねる心地よさは理解できないと言っていた。それならなぜマッチングサイトに登録したのかと聞くと「心豊かな時間を共有できる人と話したい」だけだと言っていた。
 彼の飾らない言葉や鋭い洞察力に、惹かれているという自覚がある。私の空虚な空間に少しずつ暖かさを与えてくれる。そう実感していた。そんなことを考えながら、思うままにメッセージを書いてみる。それは、ちょっと恥ずかしい内容だった。

『そういえば話変わるけど。Shi-geくん、こないだ見たいって言ってた映画あるじゃん。私も見たいから、土曜日行かない?』
 ……見返してみると、ストレートすぎるお誘いだな、と自分でも思ってしまった。もし、これを受け取ったら彼はどう思うんだろう。きっといつものように、そんなことは求めてないとか、面倒くさいとか、そんな風に返ってくるんだろうか。

 でも――私は、それでも見たいのかもしれない。彼の世界を知りたい。どうせ匿名の付き合いだ、どう思われてもブロックされても私の生活には影響がない。それに、もし、受け止めてくれたら、それはそれで素直に嬉しい。

 私はそんなことを考えてから、ゆっくりと大きく息を吸ってから、えい、と送信ボタンを押す。すぐに職場の最寄り駅に着いて、私はスマートフォンを鞄にしまった。

『いいっすよ。池袋の映画館、上映時間は15時から。14時45分に入口前で落ち合うってことでどうですか?』
 仕事が終わって帰りの電車の中。スマートフォンを見ると、彼から返ってきた返事に、亜也子は少し驚いてしまっていた。

「あらら……」
 ……あっさり了承されてしまった。

 亜也子はそれに戸惑いつつも嬉しい感情もあり、どうリアクションすれば良いか少し迷ってしまう。考えてから、『大丈夫です。当日よろしく』とだけ返す。

(ん……んん?)
 亜也子は、胸の中に小さな炎が燻っていると感じている。少しずつ身体を焼いている気がする。言葉では表現できない。勇気を出して送ったお誘いが、あっさり了承されて気が抜けたということ。男性と2人きりで会うのは何年ぶりか、というリアルな感情と。亜也子の頭は軽くパニックを起こしていた。

(待って、どんな服装で行けばいいの……?)
 亜也子がそんなことを考えているうちに、時間はあっという間に過ぎる。危うく最寄り駅で降り損ねるところだった。

 そして土曜日が来た。来てしまった。
(大丈夫かな……)
 亜也子は、待ち合わせ場所近くのショップで、ガラスに映る自分の姿を見直す。金曜日に美容室に行って、肩口まで伸ばした黒髪に軽いパーマを当ててきた。白いトップスはテロッとした素材で首の後ろに紺色のリボンがついているのが可愛らしい。スリムで足のラインが出るデニムを履いて、明るい紫のパンプスと黒いバッグを合わせる。

 ……どうだろう。あまりに狙い過ぎてると思われるのは本意じゃないけど、ダサいと思われるのも違う。何より、あまり派手過ぎると出かける時にパートナーに悟られる。そういう意味で、今日の自分は及第点だと思うのだが……。

「えっと、akakkoさん?」
 不意にかかる声。彼だ。想像していたより声が低くて、安定感がある。
 私はそれに振り向いて、声をかけてきた人を見つめる。
 彼は暗めの茶髪を耳が出るくらいに切り整え、前髪は目にかかるぐらいに伸ばしていた。丸首の白いTシャツに、グレイのジャケットとテーパードパンツ。革製の黒いバッグを手に持っていた。清潔感のある落ち着いた綺麗めスタイルは、イメージ通りでありながらも、どこか現実感を感じないと亜也子は思っていた。

「……はい、そうです。Shi-geくん?」
「そうっす。会えて良かったです」
 亜也子はShi-geの顔を見て、微笑みを返す。緊張していて、どこかぎこちなかったかもしれない。
「今日はありがとう。突然誘ってすみません」
「いいえ、そんなことないっす。……というかayakkoさん。めちゃくちゃ仕事できる感じで、綺麗っすね」
 彼は素直に感心したように、しかし無表情に、言った。挨拶と同時に飛んできた褒め言葉に、亜也子は困惑する。
「そ、そう? 褒めてくれてありがとう。……あ、映画もうすぐだよね」
「そっすね。入りましょう」

「やっぱ、風景綺麗だったっす。シナリオはアレでしたけど」
 映画館を出てすぐ、彼が切り出した。亜也子はそれに頷いてから、
「そうだね。彼女がどうして今彼を振って新しい彼に心変わりしたのか、その辺りの描写がもっと欲しかったかなあ」
 と、素直な感想を述べた。
「まあ、理屈じゃない勢いみたいなのを表現したいんだったら、狙い通りじゃないっすかね」
 彼が言うのに亜也子は頷く。制作者の意図まで考えているところが、彼らしい。

 私はちらりと時計を見ると、17時30分を過ぎたところだった。これからどうしたらいいんだろう。
(いや。どうしたいかを、考えなきゃ)
「……ねえ、Shi-geくん。私、お腹減っちゃった。近くに美味しいスペインバルがあるんだけど、行かない?」
 亜也子は事前にお店を調べてから言っている。もちろん彼がお酒と食事が好きなことも知っている。さらに、この店がダメなら他の候補もいくつか調べあげている。
「あ、いいっすね。ちなみに、ayakkoさんの時間は大丈夫ですか? 俺、だらだら飲むのが好きで、いつも長くなりがちで……」
「あ、そうなんだ。私は22時前に出れたら大丈夫だから。気にしないで」
 少し恐縮しているShi-geに、亜也子は安心させようとそう伝えた。それに彼は頷いて、二人は店に向かう。

 数分歩くとお店が見えてきた。石造りの壁に両開きの木材のドア。2人が中に入ると、カウンター席に案内される。2人は横並びに座って、お店お薦めのカーニャを頼んだ。
「Shi-geくん、今日は付き合ってくれて、ありがとう」
「いえ、こちらこそっす。ちょうど見たい映画だったんで、嬉しかったです」
 届いた木製のジョッキを掲げて、彼のジョッキと乾杯をする。美味しそうな泡がしゅわしゅわと揺れた。

「そういえばayakkoさん、旦那さんのことは大丈夫なんですか?」
「……」
 彼は空気を読まないというか、読む気がないというか、いつも思ったことを口にする。それに亜也子は一瞬戸惑ったが、すぐに冷静さを取り戻した。
「うん。今日もいつ帰ってくるか分からないし。だから、マッチングサイトを始めたの。前にShi-geに話した通り」
 それにShi-geは三度ほど頷いて、カーニャを一口飲んだ。
「……でも、俺から見たら幸せに見えるっすよ。同じ家に住んで暮らして、家族がいるっていう感じがして」

 そう言う彼の瞳は、どこか淋しげに見える。そして、触れてほしくないという空気も流れている。亜也子は詳しく聞きたいと感じてはいたが、話を続ける努力をする。
「前に話したけど、私はパートナーのことが嫌いなわけじゃないの。別れるつもりもないし、見捨てるつもりもない。それだけ」

「……」
 それにShi-geは考え込むような表情を見せた。言葉を選んでいるのだろうか、口を開いては閉じるということを何度かしてから、
「結局、大切な相手なんだと思うっすよ。大事にしてあげて欲しいっす」
 と、静かに言った。
(……)
 驚き。安堵。戸惑い。そういったものが私の中を通り抜けていく。複雑。言葉は分かるけど理解に至っていない。そんな感情に私は支配されていた。
「……Shi-geくんは立派だね。とても誠実な意見、ありがとう」
「いや、そんなことないっす。ayakkoさんが色々なことを考えているのは分かるし、幸せになって欲しいってだけ」

 彼の言葉は、いちいち温かい。亜也子は体温が数度上がったのではないかと錯覚する。
「でも、私……」
 亜也子はそこまで言って、続きを話すべきか迷った。たぶん、彼に引かれてしまうのではないかという心配があって。
「私、子どもが欲しかった。毎日一緒に御飯を食べたかった」
 かろうじてそこまで絞り出して、彼の反応を待つ。だが無表情な彼は首を揺らしたり視線を逸らしたり。どうやら、冷静な彼も動揺しているらしい。それからしばらくそんな様子だったのだが、不意に右手を差し出して、

「……ayakkoさん、握手しましょう」
 と、いきなり言う。亜也子はどう返したらいいのか分からず、その手と彼の顔を何度か見比べていた。
「うちの親父が言ってました。『人間関係は、だいたい握手で解決できる』って。俺はayakkoさんの存在を認めることはできるっす」

 ……そうなの? いや、そんな話だったっけ。私は戸惑いながらも、おずおずと右手を差し出すと、彼はその手をぎゅっと握り返す。
 彼の体温が、私の掌から全身へと伝わっていく。熱い炎を注がれているような、そんな感覚。その熱が、私の空虚な空間に灯されていく。

(……)
 どくん、と鼓動が高鳴るのが分かる。感情が高揚している。私はいま、彼の体温を感じている。熱に焼かれているという実感がある。
「詳しく分からないけど、ayakkoさんはとても幸せな人に見えてる。だから、そんなに悲観的にならないで欲しいっす」
 彼の言葉が少し遠くに聞こえる。私は、自分の空虚な空間に火を灯してくれたと感じる。どんどん吸い込む空間に、さらに大量の火が与えられる。それを私は吸い上げる。彼は火を灯す。その繰り返しに体中が熱を持ち、体中と下腹部が熱さを放っているのを感じる。違う、こんなはずじゃなかった。私はセカンドパートナーが欲しいだけ。

「……Shi-geくんは私のこと、どう思っているの?」
 亜也子は思うままに言ってから、あっ、と自分の過ちに気付く。この言い方は、まるで彼に対しての駆け引きと受け止められても仕方がないから。
「素敵な人だと思ってるっす。話しやすいし、綺麗だし、目の前で起こっていることに向き合ってる立派なオトナに見えてるっす」
 Shi-geがいつもの調子で言うのに、亜也子は顔まで赤くなっていると自覚する。彼から受け取る純粋な優しさ。それにいつも抑圧されていたなにかが放たれるのが分かる。両膝を閉じる力がぐっと強まり、足がぷるぷると小刻みに震えているのが分かる。

(――まずい)
 私は自覚していた。まるっと受け止めてもらえているという事実に、本能が首をもたげる。違う。違う、私はそうじゃない。反抗する。しなければいけない。
「でもayakkoさん、今日みたいな映画好きなんすか? またこの系見る時、一緒にどうっすか?」
 亜也子ははっと我に返る。それから何度か不自然に頷いてみてから、口を開いた。

「……うん、もちろん。また声かけてもらえると、嬉しい」
 素直な言葉に、彼も頷く。
 楽しい時間がしばらく続いて、22時をまわった頃。彼は朝まで飲み続けるということなので、亜也子は先に店を出ることにした。彼は相変わらずマイペースだ。
 外に出て、涼しい風が頬を撫でるのに、少しずつ冷静さが戻って来る。

(……)
 結局、私は彼の優しさに慰められただけの一日だった。……むしろ、色々と思考をこじらせていた自分が恥ずかしい。帰宅してまずやることは、シャワーを浴びることと、着ていた服を下着ごと全て洗濯機に放り込むことなのは間違いない。

 亜也子は駅までの道を歩きながら、思考の渦に巻き込まれていた。相当に心を揺らされたという自覚がある。元々、彼にはそんなことを求めていたはずではないのに。でも、流されかけたことも事実だ。

(でも、それは……)

 彼の優しさを知れた、良い機会であったことは確かだ。きっと私は、これからも彼を頼るのだろう。優しさを受け取るのだろう。
 彼が、そんな私を許容し続けてくれている限り。仲良くできるといいなと。
 亜也子はそう思いながら、夜空を見上げた。


最後までお読みいただきありがとうございました。
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また次の作品でお会いできることを楽しみにしております。

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