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短編16「ずっと、あなたが居てくれたから」

※本文中に凄惨な事故を連想させる表現が使用されています。閲覧にはご注意ください。

あらすじ

高校時代に再会し、互いに惹かれ合った克昌と咲妃。彼らの人生は、結婚、出産、そして……。

「……?」
 藤牧 克昌ふじまき かつまさは、白い天井を見上げていた。ベッドに寝かされた身体に取り付けられた多くの計器と、差し込まれるたくさんの管。
 自分はなぜここにいるのか、思い出せなかった。曖昧な記憶をたどろうとするが、あいにく眠気が襲ってくる。抗えない。
 だから彼は、それに身を委ねていた。

 あれは確か、6歳の時。克昌は小学生への初登校前日、あまりの興奮に眠れなかった。母親に手を引かれて、近所の公園前に集合した集団登校の群れに近づいていく。
「あら、克昌ちゃん。かわいいわね」
 声をかけてきたのは、隣の家に住む夏目という女性だった。彼女は幼い少女の手を引いている。
「うちの咲妃さきも今日から入学だから。これからはよろしくね」
 夏目は嬉しそうな笑顔で、克昌と母親に微笑みかける。
「さきちゃん。よろしく」
 たどたどしく言う克昌に、咲妃は表情も変えず、
「しょうがないから、たまにはあそんであげる」
 と、ぶっきらぼうに言った。

 それからしばらくして、13歳になった克昌は中学校に進学した。この時、克昌と咲妃はやや疎遠になっていて、同じ中学校の同じ学年だったにも関わらず、話すことはあまりなかった。お互いに家を出る時にばったり出会うこともあったのだが、軽く会釈をするだけで、それ以上の記憶はない。

 2人がまた話すようになったのは、16歳になってから。高校生となり、偶然同じクラスになった時だ。それからまた少しずつ話すようになって、グループでみんなと遊びに行くことも増えた。
「なあ、藤牧と夏目も行くだろ? 来週の花火」
 グループの一人が、いつもの笑顔でそう言った。
「ああ、俺は行きたいなあ」
「行きたいけど……どうせ浴衣とか期待してんでしょ、男子は」
 克昌の素直な意見に、咲妃は少し尖ったことを言う。それに全員が笑った。

 翌週、男女3人ずつで花火を見に行った。咲妃たち3人の女性たちは結局、男子陣に押し切られて浴衣を着ている。
「浴衣って、意外と面倒なのよね。巻くだけじゃなくて、色々やることがあって」
 隣を歩く咲妃が、克昌に言った。それに彼は、ふぅん、相槌を打つ。
「そうなんだ。咲妃は詳しいな」
「私、ファッションデザイナーになりたいから、服には詳しいの。今日だって、自分で着付けてきたし」
 克昌は素直に驚いた表情を見せる。あまり関心のなさそうな彼でも、浴衣を自分で着付けることは、とても大変なことは知っていた。
「そこまで考えてるんだ……咲妃って、すごいな」
「そ、そうかな? 私、早く社会に出て、立派なデザイナーになりたい」
「いいね! 慌てず自分のペースで頑張れば、きっと結果が出るよ」
 克昌が言うのに、咲妃は頷く。少し照れたようで、目線を逸らして、その頬がピンク色に染まる。
 どん、と咲妃に通行人がぶつかった。彼女の身体が大きく揺れる。克昌は咄嗟に左手を伸ばし、彼女の右手を掴む。それから彼女の身体を、ぐいと引き寄せた。
「混み方ヤバいな。しっかり掴まってて」
「……!」
 克昌が自然に言うが、咲妃の方は驚いた表情で口をぱくつかせていた。

 ……克昌って、こんなに頼りがいあったっけ……? 知らない間に成長した彼に、初めて気づいた。胸板は厚く、身長も私と頭ひとつ違う。小学生の頃とは、全然違う――。

 それから、克昌は18歳になって、半年後には卒業を控えていたタイミングだった。
「咲妃は、進路決まった?」
 克昌は、咲妃と教室にいた。咲妃の前の席に後ろ向きに座って、そんなことを言い出した。
「私はまだ。将来は海外で活躍できることも視野に入れて、服飾・被服学を学べる大学を探しながら願書を出している最中かな。克昌は?」
「俺は、経営が学べたら、正直なんでもいいんだよな。まあ、レベルの高い大学を出ておくに、こしたことないとは思うんだけど……」
「克昌って意外と、先のこと考えてないよね……?」
 咲妃の呆れた声に、克昌は苦笑する。
「俺さ、それより家庭のために生きたいんだ。早く子どもが欲しくて。俺にそうしてくれた両親の気持ちを受け継ぎたい」
 ふと、克昌が真剣な表情を見せる。不意打ちに咲妃は、どくん、と心臓の音が大きく跳ねるのを感じる。
「私も……確かに子どもは欲しい。そして、ファッション業界での活躍も両立したい」
「いいね。無理せず自分のペースで、頑張りなよ」
 克昌が笑顔で言う。咲妃はそれに照れて、彼の顔を見つめられなくなっていた。

 ……心の中で、感情が暴れている。この気持ちは、卒業まで解放しないと決めていたのに。でも、彼の笑顔がダムを壊していく。私はそれに気づいていた。
「……ねえ、克昌。私たち、助け合わない?」
「? それはどういう意味……?」
「……付き合わないか、って意味」
 克昌は、瞳を見開いたまま、完全に固まってしまった。たっぷり5秒は動かなかったんじゃないだろうか。それから何度か口をぱくつかせてから、
「……あ。うん。俺もそうしたい」
 とだけ、言った。

 克昌と咲妃が22歳を迎えた年の、3月。無事に大学を卒業して進路が決まった2人は、繁華街の居酒屋でささやかな卒業を祝う会を行っていた。
「乾杯!」
 2人はビールジョッキを当て合う。一口飲んでから、克昌が口を開いた。
「お互い就職も決まって、本当に良かった。俺は来月から大手商社の営業職。咲妃は大手アパレルのデザイン職。すんなり決まって良かったよ」
 克昌は安心したように息を吐いて、そう言った。それに咲妃は頷いて、
「なんだか、不思議な気分。私たち、社会人になるんだねえ……」
 と、素直な気持ちを吐露する。
「そうだな。……俺達の付き合いも、長くなったな」
 その言葉に咲妃は考え込む。6歳の時から、18年。付き合ってから、4年。思えば長く一緒にいるな、と思うと、感慨深い。

「俺、咲妃が初恋だったんだ」
「克昌も? 私もだよ。高校生の時?」
「ああ、花火見に行ったあの時から」
 そんな甘い話と食事を楽しみながら、色々な話をする。将来の夢、家庭のこと。たくさんのこれからのこと。不思議と話題は絶えないもので、2時間ほど話を続けていた。
「……そういえばさ、咲妃」
「うん?」
 不意に克昌が真面目な顔をして、咲妃を見つめた。咲妃はそれに、鼓動が早まるのが分かる。どうも咲妃は、彼のこの顔に弱い。そう思っていた。

「結婚しないか」
「うん。いいよ」
 真面目な声を絞り出した克昌は、咲妃のあっさりとした了承に言葉を返せない。
「そんなあっさり……」
「でも、私も考えてた。覚えてる? 私が付き合って、って話をした時」
「ああ。助け合う、だったっけ……」
「そう。ここまで助け合ってきた。だから、これからも助け合える。そのために結婚するのって、自然な流れだと思わない?」
 咲妃が不敵に微笑むのに、つられて克昌も笑ってしまった。
「咲妃には、敵わないな」
「克昌だって」
 咲妃は微笑みながら言う。2人は楽しそうに、嬉しそうに、笑っていた。

 それから2人は籍を入れて結婚式を挙げた。克昌が27歳の時に第一子・順一郎じゅんいちろうが産まれる。その頃、咲妃の海外赴任が決まり、克昌も海外支社への異動願を申請して受理された。
 出産後、アメリカに移住した2人が30歳の時に、第二子・有香里ゆかりが産まれた。

 (……また、白い天井だ……)
 克昌はぼんやりとした頭で、天井を見つめている。
「咲妃……俺は……」
 絞り出すような声で、静かに言った。その声に、「お父さん、目を開けたよ!」という有香里の声が聞こえる。どこにいるのかは分からない。
 ふと、彼はその手に温かさを感じる。咲妃は克昌の左手に、自分の両手を重ねていた。
「ここにいますよ」
 咲妃は静かにそう言う。
 克昌は、時折襲う痛みと、慢性的に全身を包み込む眠気に、身体を動かす余裕すら持てていなかった。
 そしてまた、襲ってくる強烈な睡魔に、彼はまた眠りについた。

 克昌が32歳になった頃、父親に膵臓がんが見つかった。発見が遅くすでにステージ4まで進行しており、5年生存率は5パーセント未満と言われていた。
 咲妃は彼が両親を大事にしていることを知っていたから、帰国したいと言う克昌を優先した。実家の近くに新居を建て、いつでもフォローできる体制にした。
 だが、努力も虚しく翌年に父は亡くなってしまった。通夜で号泣する克昌は、咲妃にとって初めて見る姿だった。彼女はそんな彼を、順一郎と有香里の手を繋ぎながら、非現実な世界のように見ていた。

 それから、克昌が50歳を迎えた時だ。営業職として3年目の順一郎が仕事から帰ったと思うと、挨拶もせずに部屋に閉じこもる。以前は仕事の話を聞かせてくれる時もあるというのに、ここ3ヶ月ぐらいはいまのようなことが続いている。克昌と咲妃が顔を見合わせると、克昌が頷いた。

 克昌はこんこん、と順一郎の部屋のドアをノックすると、
「順一郎? 体調でも悪いのか?」
 と、なるべく柔らかく聞こえるように気をつけながら、言った。
「……なんでもない」
 返ってくるのは定型文のような、いつもの答え。その言葉は弱々しく、しかし拒絶していた。
 克昌は困ったように頭をかいて、ダイニングに戻る。咲妃が料理の乗った皿をテーブルに並べていた。有香里も心配そうな顔で克昌を見ている。
 そういえば、順一郎と最後に食事したのは、いつだっただろうか。克昌はそんなことを考えていた。食卓に息苦しい空気が蔓延している。
「克昌さん。順一郎を、先生に一度診てもらったらどうかしら」
 咲妃が静かに、そして神妙に言うのに、克昌は持って口に運ぼうとしていた味噌汁茶碗を、その場で止めてしまう。
「確かに……最近ずっと様子がおかしかったもんな……」
 克昌も咲妃も、順一郎の様子について、知人に相談したりWebサイトを調べたりして、どうすべきか悩んでいた。調べてみると、心理療法や薬物療法、デイケアなどの様々な方法があることが分かってきたのだ。
「……お兄ちゃん、大丈夫なの?」
 有香里が心配そうに聞く。彼女も20歳の大人だ。様々な事情を汲み取った上で、そう言ってくれたのだろう。
「いや、大丈夫にする。大切な家族なんだから」
「そうよ。そういえば――有香里、就職はどう考えてるの?」
 重苦しい空気を変えるため、咲妃はわざと話題を変える。それに有香里は考え込みながら右上を見上げて考え込むような顔をした。
「第一希望はパティシエールかな」
 それに咲妃は「そう」と微笑んでから、
「有香里なら大丈夫」
 と静かにそう言う。
「有香里も、慌てず自分のペースで頑張るんだぞ」
 咲妃の言葉に続けて、克昌も微笑みながら言った。

 翌日から順一郎は会社に行くことはなかった。それから約2年ほどの時間が過ぎ、徐々に通院ができるほどには回復を見せていた。
 ある日、克昌は彼を助手席に乗せて、いつもの病院へと向かう。
「……」
 今日はなにを話そうか、克昌は少しだけ困る。なにせ、順一郎は何度理由を聞いても話そうとしない。日常会話も共通の話題が少なかった。

「……お父さん、ごめんね」
 その空気を気遣ってか、順一郎が切り出す。照れ隠しなのか、白い襟付きシャツの襟を乱れてもないのに直し続けてたり、黒いリュックサックのチャックを弄んだりしている。それに克昌は頷いてから、
「気にしなくていい。大切な息子を手伝えるなんて、光栄だよ」
 と、わざとおどけて言ってみた。順一郎の硬い表情が少しほぐれて、わずかに微笑む。以前は表情が完全に消えていた彼は、少しずつだが笑えるようになっていた。
「慌てないでいい。自分のペースで頑張れば、それでいい」
 それに順一郎は少し驚いた顔をして、それから深く項垂れた。
「ごめん……俺、本当は、もっと頑張りたい。早く元気になりたい。でも、身体が動かないんだ」
「……」
 それに克昌はなんと答えれば良いのか、答えがすぐに出せない。

 ……一番辛いのは、順一郎本人なんだ。俺の無配慮な意見が、彼を傷つけるかもしれない。そう思うと、言葉は慎重に選ばなければいけない。

「……俺、お父さんとお母さんには、感謝してるんだ」
 先に話し始めたのは、順一郎の方だった。
「こんな状態の俺を責めたりしないし、献身的に向き合ってくれる。俺、この家に産まれて良かったと思ってる。本当に感謝してる」
 順一郎は言葉が堰を切ったように、言い出す。最後の方は泣きじゃくりながら、それでも、ゆっくりと言葉にした。
「いいんだよ。順一郎が産まれてきたことに、俺も咲妃も感謝している。生きててくれるだけで、それだけでいいんだ。慌てず自分のペースでやればいい」
 わあっ、と順一郎が声を上げて泣いた。とにかく泣いた。それに克昌はなにも言わず、ただ見守ることにした。

「……そろそろ、病院に着くぞ」
 ただそれだけ、克昌は言った。順一郎はうなずく。大きな病院の正門前に一時停車して、順一郎を下ろす。彼は手を振ってから門近くの塀に背中を預けた。
「じゃあ、駐車場に停めて来るから、少し待っててくれ」
 言って克昌は、駐車場に車を駐車する。駐車券を受け取って、正門に向けて歩き出した。

『! ――!』
 遠くからざわめきが聞こえる。克昌は、なんだろうと思いながら意識を向けた瞬間、ごっしゃああ、と激しい音が聞こえた。硬いものと硬いものがぶつかり、鉄がひしゃげる音。ガラスが砕け散る音。そんなものが聞こえてきた。同時に人々の悲鳴が聞こえてくる。
「正門の……ほうから……?」
 克昌の顔から一気に血の気が引く。身体を無理やり動かして、走り出す。正門へ。とにかく正門へ。順一郎のいるはずの正門へ。
 めちゃくちゃになった現場。病院の正門には、大型バスが突っ込んで、ひしゃげている。昇降口の前側の扉まで、完全に原型をとどめていなかった。強い衝撃でバスの車体は激しく歪み、門扉も塀から外れて病院の入口の方へ吹っ飛んでいる。
 飛び交う悲鳴。路上に倒れる人々。地面に広がる赤い水たまり。バスの中からドアを叩く音。緊急通報している人の声。
「順一郎……?」
 克昌は叫びながら、見回しながら、走る。とにかく近づく。順一郎。早く見つけるんだ。でも見当たらない。先ほど立っていた場所にはバスがある。
 彼はバスの後部を大回りに迂回して、運転席側へと向かう。運転席近くに落ちている、黒いリュック。確かに順一郎のものだ。
「順一郎!!」
 克昌は叫んでいた。どれだけ大きな声を出せば彼に届くのか分からない。だけど叫ばなければいけない。叫ばなければ彼には届かない。
 リュックに駆け寄って、掴む。赤い血にまみれたそれは、口が開いて中身がばらまかれている。彼の財布や筆記用具などが、散乱していた。
「順一郎!」
 周囲を見回して、彼の姿を探す。この近くにいるはずだ。

「……!」
 ――見てはいけない。
 本能がそう言っていた。バスが塀にぶつかっているその場所。それは先程、彼を降ろした場所。ちらりと、なにかが見えた気がした。見てはいけない。見えている。それでも見てはいけない。認識してはいけない。これ以上は絶対にだめだ。
 バスと塀の間から覗く、白いシャツの袖と、赤く染まった白い手首。
「順一郎ーーーーっ!!」
 克昌は叫んだ。叫ぶ以外になにもできなかった。理性は消え、ただ声を張り上げていた。

 順一郎の事故から1年ほどが過ぎた。ダイニングに食卓を運んでくる咲妃に、克昌は言った。
「咲妃……俺、今日はパンの気分なんだ」
 ダイニングにご飯を運んでくる咲妃に、克昌は言った。
「じゃあ自分で買ってきたらいいじゃない」
「……なんだと」
 その景色を有香里はぼんやりと見つめている。

 ……いつものことだ。お兄ちゃんがいなくなってから、家族はぐしゃぐしゃになってしまっていた。有香里はため息を一度ついて、それから口を開く。
「お父さん、お母さん。私、就職決まったから。一人暮らしする部屋も、もう決めた」
 それに克昌と咲妃が、驚いた顔で振り返る。
「高校時代からずっと貯めてたお金使うから、問題ない。職場の近くに住む」
「おい、待て――」
「私、こんな家にはもう住みたくない。ごちそうさま」
 有香里は箸を置くと、言いたいことだけ言って出ていってしまった。

 克昌が54歳を迎えた時。彼の母が亡くなった。老衰だった。
 ……彼の号泣を見たのは、父親の通夜の時以来、二度目だ。通夜を終えて待合室に戻ると、彼はまだ涙を流していたが、しゃくりあげる喉は落ち着いたようだった。
「……」
 咲妃はその姿に声をかけられず、ただ見ていた。ゆっくりとため息をついて、時間が流れるのに任せる。
「……父さんと母さん……順一郎もいなくなってしまった。どうして、家族がいなくなるんだ……」
「……」
 咲妃はそれに答えられなかった。どんな言葉が良いのかも分からなかった。だからなにも言わなかった。
 だが彼女は少し考えて、素直な心の中を話すことにした。

「……私、正直なことを言うと……克昌さんとの離婚も考えてた」
 咲妃の言葉に克昌は振り向き、驚いた顔で凍りつく。その瞳は見開かれ、明らかに恐怖に染まっている。
「順一郎が死んでから、克昌さんは変わってしまった。克昌さんはいつも、家族を失うと理性を失う。父親の時も急に日本に帰ると言い出して。自覚ある? 家族のことになると、おかしくなる自分のこと」
 その言葉に克昌は黙り込んだ。返す言葉がない、というのはこういうことを言うのだろう。
「……でも、それが克昌さんの良いところだというのも、分かってる。私、克昌さんと付き合う時に言ったはずよ。『助け合わないか』って。覚えてる?」
 咲妃の言葉に、克昌は考え込むように眉根を寄せて、苦い表情を見せた。
「私はあなたを救えない。でも、支えることはできる。それは、克昌さんが教えてくれたこと。どんな時でも慌てず、自分のペースで頑張ることを」
 それに克昌は顔を上げる。軽い驚きの表情は、感動したような、不思議そうな、複雑な視線で咲妃を見つめている。それから真顔に戻って、
「……悪かった。俺は、家族のこととになると、冷静になれない」
「克昌、ひとつだけ言わせて欲しい」
 咲妃はそこまで言ってから、大きく息を吸う。それから吐き出した。
「私だって、『家族』なんだよ」
 そんな当たり前のことに……俺は素直に落胆した。そんな、そんな当たり前のこと。シンプルすぎるすれ違いと齟齬。そんなこと。そうだったのか。そんなことが。
「……咲妃、すまない。そして、支えてくれて、ありがとう」
「いいえ。それはお互い様。私は、もっと頼っていいんだよ、ってことが言いたかっただけ」
 それから克昌は咲妃に抱きついて。また嗚咽を上げ始めた。

 克昌と咲妃は65歳で定年を迎えると、温泉旅行が共通の趣味になった。2人で国内を旅しては、有香里にお土産を持っていく。有香里も学生時代から交際していた相手と結婚し、男の子と女の子、2人のかわいい子どもを授かっていた。
 ……幸せな時間よ、いつまでも続け。ずっと、家族と楽しい時間を過ごすんだ。
 克昌は、ずっとそう思っていた。

 視界が霞んでいる。白い天井だったものはぼやけていて、まるで雲か霧のようだ。克昌はそんなことを考えながら、ぼんやりとまどろんでいた。
「お待たせ。……お母さん」
 先ほど医師に呼ばれた有香里が戻ってきたようだ。それから咲妃の耳元でなにかを囁くと、
「ちょっと、叔父さんに電話してくるね」
 と、病室を飛び出した。
 咲妃は、克昌の手を握ったまま、ただ佇んでいた。

 74歳になって、克昌は胸元辺りの違和感を訴えた。検査の結果は、膵臓がん。ステージ4。皮肉なことに、父親と同じ疾病に克昌は蝕まれてしまった。できる治療はしたが回復することはなく、いま彼が入院しているのは緩和病棟。つまり、進行を遅らせたり、完治するための治療はもうしないという意味だった。

(そういえば……)
 克昌は先ほど有香里が飛び出していったことを思い出す。そうだ。父の時も、母と一緒に医師に呼び出されて。「今夜が峠だから、親族に連絡してください」と言われたことを思い出した。
 そうか、そういうことなのか。
 意識が遠のきかけている。痛み止めのモルヒネではない、本当の最期。少しずつ、しかしゆっくりと、自分はそちらへ向かって歩いている。
「……咲妃、ずっと傍に居てくれて、本当にありがとう」
 克昌がしっかりとした声でそう言うと、咲妃は頷いた。その瞳から、静かに涙がこぼれている。
「咲妃への気持ちは……ずっと昔のまま。初恋の時からずっと……変わらない」
「克昌さん。……うん。こちらこそ、ありがとう」
「……孫を……勝敏と、優奈が、大きくなるのを……もう少し……見ていたかったなあ」
 咲妃はなにも答えられない。
「咲妃……」
 咲妃の手を握る克昌の手から、徐々に力が抜けていく。
「……本当に、本当に……ありがとう」
 克昌がそう言ってしばらく、病室に静寂が訪れた。
 咲妃はただ、泣きながらうつむいていた。

 それから数年後――。
「お母さん、ただいまー」
 藤牧家のリビングに入ってくるのは有香里だ。後ろから勝敏と優奈も入ってくる。
「はい、いらっしゃい。……2人とも、大きくなったわね」
「そうだよ。勝敏は来年から中学生、優奈は小学5年生。……ほら、おじいちゃんに挨拶しよっか」
 有香里は仏壇に向かって、座る。勝敏と優奈もそれに倣った。しばらく手を合わせてから立ち上がり、リビングに向かう。それに咲妃は微笑んで、リビングテーブルの椅子を促した。
「もう3年かあ」
 咲妃が出してくれた湯呑みを受け取りながら、有香里が呟く。
「そうねえ……勝敏くんと優奈ちゃんは、おじいちゃんのこと、覚えてる?」
 咲妃の質問に2人は顔を見合わせると、勝敏が口を開いた。
「そうだなあ……覚えてるのは小学校の時。みんなで旅行に行ったじゃん。山登りした時」
 それに咲妃は頷いて、
「ああ、高尾山に行った時のことね?」
 と、答えた。
「そうそう。あん時、おじいちゃんと2人で話す時があって。学校のこととか話したんだ。その時に、『慌てないで、自分のペースでいいんだよ』って、教えてくれたことかな」
 それに咲妃は「まあ」と驚いてから、吹き出してしまう。
「それ、高校生の時からずっと克昌さんの口癖なのよね」
「そんな昔から? 確かに口癖だなとは思ってたけど……」
 咲妃の話に有香里が驚いて振り向いた。

(……克昌さんに、届いてるかな)
 彼の言葉や思い出は家族の中で確かに生き続けている。
 咲妃は窓の外に目を向け、夕焼けの空を見上げた。
 ……克昌さんと出会ってから別れるまで、色々なことがあった。喜びも、悲しみも、怒りも、そして深い愛情も。すべてを彼と分かち合ってきた。彼の人生は、私の人生そのもの。
 私にとって、かけがえのないもの。ずっと私の心に残って、決して忘れることはなく、これからも生き続けるのだと思う。
 いままでも、そして、これからも。


最後までお読みいただきありがとうございました。
もし気に入っていただけましたら、スキを頂けると励みになります。
また次の作品でお会いできることを楽しみにしております。

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