短編49「私が見たかったマリーゴールド」
私の世界は、人々の感情が生み出す色で溢れかえっている。
私は、ぼんやりとそんなことを考えながら歩いていた。高校の放課後。いつもの通学路の帰路。
路上の所々に、ぼたぼたと『色』が落ちている。それはこぼれた絵の具が落ちたように、地面に落ちていた。
幸せそうな黄色の塊は、8Y 8/12。すこし悲しい青紫色は7.5PB 3.5/11。色彩検定1級を持つ私には、マンセル表色系で色の数値が分かってしまう。
いつもの光景だが、そんなものが路上に落ちている毎日に、私は少しうんざりしていた。
色を見たら、おおよその感情が理解できる。こめられたものが感覚で理解できるとでも言えば良いのだろうか。
こんな状況、面倒くさいという言葉以外にどう形容したらいいのか。誰か上手に説明できるなら、して欲しい。素直にそう思っていた。
帰宅して、座敷の仏壇の前に座る。お父さんとお母さん、それと私。3人で映っている色褪せた写真。
父の周りには、いつも穏やかな緑色があった。私が色彩検定に興味を持ったのは、その緑色を理解したいと思ったからだった。
私の眼球は光の反射を捉え、視神経を通じて脳へと送られる。そのメカニズムを納得に落とし込みたかったのだ。
でも、ある日突然お父さんはいなくなった。突然の事故で、あっけなく逝ってしまった。
最後に交わした言葉は、「行ってきます」「いってらっしゃい」だった。普段から友達のような付き合いだった私は、もっとたくさん話せば良かったと、ずっと後悔している。後悔しても後悔しても、それが解決されることなど、あるはずがないのに。
「こゆき、帰ったの? 一緒におやつにしようか」
そう声をかけてくるのはお母さん、知恵里。いつものふんわりとした笑顔で、彼女は座敷を覗き込みながら、そう言った。
「お母さん、ただいま」
私は微笑みながらそう言うと、お母さんの後ろからダイニングに向かった。彼女は戸棚から何種類かのお菓子を取り出してから、温かいお茶を私の前に置く。
ぽたり。彼女の伸ばした手から、色が落ちる。だが、彼女の落とす色は、いつも透明。そこに感情は感じられない。
それを私は、『無感情』と解釈していて、なんとも言えない孤独を感じるのだった。
それから私は、台所でお母さんの夕食の準備を手伝う。外は日が落ち始めていて、プルキンエ現象が起こっていき、室内の彩りは徐々にくすんでいく。
「なにか食べたいもの、ある?」
冷蔵庫を覗きながら、お母さんは言った。私はうーん、と言いながら冷蔵庫内を見る。
鮮やかな人参は緋色で7R 5/14、みずみずしいレタスは萌黄、4GY 6.5/9、綺麗な赤身の豚肉は朱色、6R 5.5/14。そういったものが並べられている。
お母さんは、お父さんがいなくなってから料理に没頭するようになったと思う。冷蔵庫に食材をぱんぱんに詰め込むことで、なんらかの安心感を得られているのではないかと私は感じていた。
「じゃあ、メインは豚肉にしようよ。生姜焼きがいい。私、サラダ作る」
それにお母さんは優しく微笑んで、頷いた。彼女はいつも、私の話をちゃんと聞いて、否定しない。もしかしたら意志がないのか、と思ってしまうほどだ。
「お母さんの色……」
思わず口にしていた。お母さんは私にそんなものが見えているなんて、知る由もない。
「……?」
「……ごめん、なんでもない」
不思議そうな顔のお母さんに、私はそれ以上話すのをやめた。言ってどうなるものかも分からないし、いらぬ心配をさせてしまうだろうと思ったから。
でも……。
昔のお母さんは、鮮やかな8YR 7.5/13、マリーゴールドのような色を落としていたはずだ。お父さんがいなくなってから、その感情は色を失ったんだと思う。
2人は生姜焼きとサラダを作って、お茶を入れて、夕食にした。私は炊飯器からご飯を盛って、お母さんに渡す。それから自分のご飯を持って席についた。
……そういえば、お父さんがいなくなった時、ちゃんとお母さんと話をできなかった気がしている。私もお母さんもあまりに突然の出来事に、どうしたら良いか分からなくなったからだ。
豚肉を箸で掴んで、口の中に運ぶ。醤油ベースの塩味が広がって、それから生姜のぴりりとした刺激が口内を包み込む。……うん、お母さんの味付けは、やっぱりいつでも美味しい。
「美味しい」
私が素直に呟くと、お母さんは微笑む。
いつもこんなに笑顔なのに、こぼれる色が透明なのはなぜだろうと、いつも不思議に思う。
「……お母さんの色って、透明だよね」
「?」
私が言うと、お母さんは不思議そうな顔をする。当然だ。
「お母さんの気持ちが、見えない気がしてるんだ」
とりあえず、素直にそう言った。それにお母さんは不思議そうな顔に、少しの悲しさを滲ませる。なんとも言い難い、という形容が一番しっくりくる顔だ。
「そうね……私はね、こゆきに悲しみを見せたくなかった、のだと思う」
プチトマトを頬張りながら、私は話を聞き続けていた。
「お父さんが急にいなくなって、どうしたらいいか分からなくなって。それから私の感情は、色を失ってしまったのかもしれない」
お母さんは笑顔で言う。その優しい笑顔とは裏腹に、鋭い言葉が私の心に深く刺さったような気がした。
「私、ね。お母さんの色が見えなくて、ちょっと寂しかったんだ」
私は素直な言葉を口にする。もちろん、お母さんにその言葉の意味は正しく伝わらなかったんだろうけど、彼女はにっこりと微笑んだ。
「そうかも。だって、こゆきに私の悲しみを、見せたくなかったんだもの」
ぱあっ、と光が注がれたような気がした。私の眼前で超新星でも爆発したかのように、いきなり世界が広がった。視界はちかちかと眩しく、明るすぎてなにも見えなくなる。私は一度、瞼をぎゅっと閉じてから、口を開いた。
「……ごめん。私、お母さんのこと、勘違いしていた。お父さんがいなくなって、辛いんだろうとは思っていた。でも、なにも言わないから、もしかして辛くないんじゃないかって、勘違いしてた」
そこまで絞り出すと、お母さんは驚いた顔をしてから、顔をくしゃっとして、悲しい顔をした。
「あの時ね、私にはどうすることもできなかった。ただね、遺体です、確認してください、と病院に言われて対応して。ずっと愛していた人が、色を失っていて。私、本当になにも考えることができなかったの」
その言葉に私は小さく頷く。それ以上、動けなかった。
「でもね、この私の気持ちは、こゆきには見せたくなかった。悲しむ私の姿を見せたくなかったの」
お母さんの言葉に、私は食事のために手を動かすことができなくなっていた。ただ、お母さんの顔を見つめ続けているだけ。
「私、きっと勘違いしていたと思う」
それだけ言うと、お母さんは不思議そうな視線を私に向ける。
「お母さんの周りには、いつも色がなくて。無感情なのかな、なんて思ってた。それが、すごく寂しかったんだ」
そう言うと、お母さんは驚いた顔をした。握った拳を胸に当てて、呼吸をするのが精一杯という風に映る。
「本当はとても寂しかったの」
お母さんは言いながら、ぽたぽた、と涙をこぼしている。それに私はなにも言えず、押し黙ってしまった。
「ずっと愛したお父さんが、もういないんだって。そんなこと、簡単に受け入れられない。理解もできない」
ぽた、ぽた。流れ落ちる涙。
「でもね、それと同じくらい、こゆきのことも大事で、大切で。ちょっと無理してたかも、しれない。……好きな人が多いと、大変なのよね」
お母さんは泣き続けて、そう言ってから笑った。
ぽたり。涙と共に、お母さんの色が落ちる。
8YR 7.5/13。お母さんのマリーゴールドだ。安堵と愛情の色。
「お母さん……」
「……泣いちゃってごめんね。なんか、色々思い出しちゃった。でも、こゆきが居てくれて私は幸せだから。心配、しないでね」
お母さんは泣きながら笑顔でそう言う。涙をこぼしながら、マリーゴールドを落としながら。
「ううん。私、お母さんのこと理解できて、本当に良かった」
素直な言葉を紡ぐと、お母さんはまたいつものように笑ってくれる。
「いいのよ。こゆきとの人生、これからも大事に過ごしていこうね」
お母さんは、そう言っていつものように笑った。
注記
この物語は筆者の想像に基づいたフィクションであり、登場する人物、団体、および物語上の設定はすべて架空のものです。作中に登場する実在の地名や場所は物語を彩るための舞台装置として用いており、現実の出来事や人物とは関係がありません。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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また次の作品でお会いできることを楽しみにしております。
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