短編90「猫になりたい」
【注釈】この作品は『スピッツ』の楽曲『猫になりたい』にインスパイアされて執筆しました。本文には歌詞で使われているすべての単語を引用しています。
あらすじ
琉奈は仁史の生活を支えることに喜びを感じていたが、いつしか献身は重圧に変わる。ある夜、逃避を夢見てシチリアの浜辺を思い浮かべて……。
「♪〜シチリアの浜辺の 絵ハガキとよく似てた」
夜の公園で琉奈は歌っていた。ただ、涙を流しながら。
琉奈は、パートナーの仁史の仕事を助けることに、ささやかな喜びを感じていた。
彼は、IT企業のマネージャー職で、家に仕事を持ち帰ってくることも少なくない。そういうときは、琉奈が手伝うということが日常になっていた。資料の整理、メール執筆の代行、プレゼンテーションファイルの作成……やれることは、たくさんあった。
でも、その献身はいつしか、終わりのない責務へと変質していたことは、彼女も気づいていた。
二人の夜は、いつも薄ぐもりの空気に包まれていた。仁史が寝息を立てて眠る隣で、琉奈は静かに目を開く。裸のまま立ち上がるとカーテンの内側に入り込み、思考はガラスの向こうで飛び回る自分の姿を連想している。
「♪〜灯りを消したまま 話を続けたら」
琉奈は静かに、仁史を起こさないような小声で、呟くように歌った。
「♪〜ガラスの向こう側で 星がひとつ消えた」
――最近の夜は、いつもこんな気分になる。
私は彼に尽くすことでここにいる意味を見出していた。
彼の生活はいつしか、琉奈という名前を持つ存在によって引かれた、綿密な補助線によってのみ機能していることは分かっていた――。
時折、耐え難い疲労と重圧から、琉奈は衝動的に家を飛び出したくなる。からまわりしながら深夜の通りを無目的に駆け抜けていた頃の自分を思い出す。
あのときの愛は、シンプルだった。でもいまはもう、違う。
二人の住むこのアパートは、広すぎる霊園のそばのすぐそば。二人の間に流れる穏やかな時間さえも、温かい幻を見てたのではないかと、琉奈は時々疑うことがあった。
それでも、仁史の腕の中にいる瞬間だけは、すべてを忘れられた。
……はずだった。
心のなかで何度も繰り返されるのは、彼の前で甘えることを許されない自分からの逃避。
いっそ、猫にでもなれたら、楽なのに。
寂しい夜が終わるまで、それだけでいいから。
「いっそ、猫になりたい」
琉奈は誰に聞かせるわけでもなく、呟いた。
それから目を閉じてゆっくり息を吐くと、砕ける気持ちを抱きしめながら、ベッドに戻った。
「この、シチリアの浜辺の絵ハガキによく似た場所に行きたい」
翌朝、琉奈が真顔で言うと仁史は一瞬驚いてから、笑った。
「いきなりだな。仕事が落ち着いたら行こう。もう少し待ってくれ」
それに琉奈はふーん、と曖昧な反応を示す。その言葉の意味は、仁史には伝わっていなかった。
それが、決定的な事件であることを。
――つくられた安らぎを捨てて、自由になる――。
琉奈の思考は、そちらに傾倒していた。
仁史が出勤のために出かけると、琉奈はふらふらと窓の前に立つ。今日の天気は強風。窓の外を眺めると、砂ぼこりにまみれて歩く人々の姿が、どこか痛々しく見えた。まるで、この街は季節を嫌ってるような、そんな光景。
それは、変わらない日常を変化させるタイミングを告げているような、そんな気がした。その時はいまなのだと、告げられていると琉奈は感じていた。
彼にとって欠かせない存在だった自分を壊す。そう決めた。
琉奈は仁史がサブとして使っているノートパソコンのディスプレイを開くと、プロジェクトのデータ一覧を眺めた。昨晩自分が修正したファイルが、今日の朝一番の会議で使われることを、琉奈は知っている。最終ページの売上予測。最後の統括で『180パーセント増』という数値を、1を消して『80パーセント増』に書き換えた。
着替えてから、私物を全てキャリーとゴミ袋に放り込むと、それを持って家を出た。入口のゴミ収集スペースにゴミ袋を突っ込む。
これで、ここから琉奈の痕跡はすべて消えた。
(ここにいたいよ――)
夜になって、仁史が帰宅した。鍵を回す手が震えて、何度も差し込み損ねた。ドアを開けて開口一番、
「おい琉奈! 今日のプレゼン用のデータに、お前のミスが――」
と、そこまで言って、部屋が静かなことに違和感を感じる。電気は点いていないし、彼女の靴がない。不審に思って仁史は恐る恐る室内に入る。自分の家なのに、自分の居場所がなくなっているような気がしていた。
ダイニングへの扉を開くと、真っ暗な室内に開けっ放しのカーテンが揺れていた。
――彼女は消えた。
理由は分からないが、彼女は消えた。
その事実だけ、俺は理解できた。
「琉奈――」
仁史は膝から崩れ落ちると、ただ琉奈の名前を呼んだ。
君の名前だけ、ただそれだけ、呼び続けていた。
その頃の琉奈は、遠く離れた街の片隅の公園で、小さなベンチに座っていた。ゆっくりと目を閉じて、ゆっくりと息を吐く。
――私の願いは、彼の中で永遠に変わることのない絶対的な存在になることだった。彼の腕の中で安らぐ、たった一匹の猫。それだけだった。
「♪〜砕けるその時は 君の名前だけ呼ぶよ」
呟くように歌い始めた。
涙がこぼれ始める。単純な悲しみではなく、複雑な想いがこめられた涙。
浮かべた密やかな逃げ場所は、ここなのか、そうではないのか、いまの彼女には分からない。ただ、新しい物語が始まる、いや、始めなければいけないとだけ、理解していた。
「♪〜猫になりたい 言葉ははかない 消えないように キズつけてあげるよ」
彼の中に深く刻まれた、欠落という名のキズこそが、琉奈の永遠の居場所になったのだ。
琉奈はただ泣きながら、夜の公園で歌っていた――。
©猫になりたい / スピッツ
注記
この物語は筆者の想像に基づいたフィクションであり、登場する人物、団体、および物語上の設定はすべて架空のものです。作中に登場する名称などは物語を彩るための舞台装置として用いており、現実の出来事や人物とは関係がありません。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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また次の作品でお会いできることを楽しみにしております。
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