短編89「満たされない孤独」 黒猫の日常#5
あらすじ
深夜のファミレスで、SNSの承認欲求に疲弊していた会社員マックスは、酔った黒猫みたいな少女に、本物の『承認』を教えられる。それは優しく、そして非日常的な温もりで……。
「送信――っと」
時計は午前2時を指している。
都心のファミレスは主要な席以外は清掃のために消灯していた。料金は深夜料金となり、10パーセントの金額が加算されるはずだ。
一人の男性が、カウンター席でビールのジョッキを、ぐい、とあおった。
デスクワークの疲れからかワイシャツはよれており、スラックスの折り目も消えている。肩が凝っているのかうつむき加減で、スマートフォンの画面を覗き込むように見ていた。
画面にはSNSのタイムライン。先程投稿したのは、凝った自作料理の写真。『彩り豊かなアボカドとエビのテリーヌ、バルサミコソース添え』だ。わざわざたまの休日を潰して作った自慢の一品。
発言にはどんどん『いいね』が付いていく。「美味しそう」というコメントが並んでいく。
だが、その通知音は彼の耳には虚しい拍手のように響いていた。
はあ、と大げさにため息をついて、彼はうなだれた。
――誰のためでもない、俺が自分を承認するための儀式のはずだ。
それなのに全然満たされない。
百や二百のいいねじゃ、俺の心は満たせない――。
「にゃっ……見つけたにゃん」
唐突な声に、彼は思わず振り向く。
いつの間にか、自分のすぐ隣の席に人が座っており、スマートフォンの画面を覗き込んでいる。物音一つしなかったことに、彼は背筋に冷たい鳥肌が立つ。
そこにいたのは一人の女性。黒髪をシニヨンにまとめ、猫耳のついたフードのワンピース。太ももは絶対領域を作っており、黒で統一された姿は黒猫を連想させた。
彼女は半分ほど残っているレモンサワーのグラスを、両手で大事そうに握っている。顔はほんのり赤く、酔いで瞳が潤んでいるが、その眼光は鋭く画面を見つめていた。
(なんだ……? でも、可愛いな)
彼は戸惑いながらも、その視線を彼女から剥がすことができなかった。
ふわっと甘い、石鹸の香り。心地よい香りが鼻先をくすぐる。
「ふぅん、『マックス』くんなんだね。私はねこにゃん、よろしくにゃーん」
グラスを揺らしながら、彼女は勝手にスマートフォンのプロフィールを読んで、ふわふわとした笑顔で言った。
マックスはなにも言えずに、彼女の勢いに押されて呆けたまま頷いた。
「マックス、遅くまでお疲れにゃん。そしてその料理、手の込んだ優しさの結晶だね。これ、褒めてほしくて無理して作ったんだよね? えらいね、頑張ったにゃん」
彼女の言葉にマックスは答えられない。ただ、すべて見抜かれているような言葉に、どう反応して良いか分からなかった。
「ねこにゃんは褒め活が得意にゃ。だから、マックスを褒めて承認してあげるにゃ」
彼女はグラスをカウンターに置いて、楽しそうに言う。酔っているからか頬は僅かに朱に染まって、それでも彼を見る眼差しは本気の瞳だった。
ぐい、とねこにゃんはマックスの耳元に吐息がかかるほどに、顔を近づける。ワンピースの胸元が開いているせいもあり、ちらりと谷間が見えたことに、マックスの理性が警報を鳴らした。身体が熱を帯びて、目を逸らすこともできない。
「マックスの浮き出た腕の血管、夜空の星図みたいで完璧にゃん。目の下のクマも生きてるって証拠にゃん、かわいいね」
褒め言葉は、彼がSNSで演じる理想の自分とはまるで違う、真逆の本質を突いてくる。
テーブルの下では閉じた両足の太ももが健康的な柔らかさを見せつけていた。
「だって、ねこにゃんは知ってる。マックスは本当は、誰にも邪魔されずゆっくり休みたいにゃんね。真面目に頑張ってるの、見なくても分かるよ。だから、嘘の笑顔が上手になったんにゃない?」
彼女は、カウンターの下でそっと、マックスの右手を両手で包み込むように握りしめる。真摯で強烈な熱が、ビールの酔いを一瞬にして奪ってしまった。
彼女の髪が揺れて、彼の肩にかかる。少し手を伸ばしたら、抱きしめられる。そんな距離感だった。
「ねこにゃんが言ってあげるにゃん。マックスは、誰かと比べる必要はない。疲れてても、嘘をついてても、誰にも褒められなくても。そのままで、本当に大切な存在にゃん」
握られた手の熱、耳元に心地よい囁き、そして内面を肯定された衝撃。SNSで集めたいいねとは比べ物にならない、重く温かい感情の奔流に、マックスの瞳からは一滴の涙が、カウンターに落ちた。
その涙を見て、彼女は満足そうな笑顔を見せた。握っていた手をすっと話してしまう。
「ねこにゃん――」
感情の爆発したマックスは、反射的に両手を伸ばして、彼女の身体を抱きしめ――。
――られなかった。
彼女はすでに、隣の席にはいない。彼の手は空を切り、カウンターにぶつかった。
ねこにゃんは席の後ろに立ち、両手を天にぴんと伸ばしていた。
「いやー、今日も褒め活頑張ったわあー」
先程までの猫撫で声は、素の声に戻っている。
「満足したにゃ。ごちそうさまー」
呆けたままのマックスをよそに、ねこにゃんは店を出ていってしまった。
……一体なんなんだ。
まるでこの世に存在していなかったような、引き際の早さ。完全な消失。
「そういえば……」
彼女が最後に見せた満足そうな笑顔、見覚えがある。
あれは、獲物を見つけた肉食動物が見せる笑顔だ――。
残されたのは、空になったレモンサワーのグラスと、彼の右手に残る肌の温もり。熱の残像。
彼は大きなため息をついてから、スマートフォンの虚ろな光に視線を戻す。
――本当に欲しかったのは、なんだったんだろうか。
心には、心地よい強烈な疲労感がある。初めて許されたような承認、本物の承認。
彼女の目的はよく分からないが、その言葉が心を動かしたのは事実だった。
安堵だけが自分を包んでいると理解する。
――僕の非日常は唐突に始まり、唐突に終わった。
もう少しだけ、頑張ってみよう。
僕は素直にそう思えたのだった――。
注記
この物語は筆者の想像に基づいたフィクションであり、登場する人物、団体、および物語上の設定はすべて架空のものです。作中に登場する名称などは物語を彩るための舞台装置として用いており、現実の出来事や人物とは関係がありません。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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また次の作品でお会いできることを楽しみにしております。
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