短編26「もう、溺れない。でも、溺れたい。」
あらすじ
絶望に溺れ、何もできない日々を送る桂花。そんな彼女の前に現れた元上司の剣菱は、彼女に生きる力を与えてくれる。
「たすけて……」
その時の私は、最悪だった。うしろ頭が、アルコールでずっと痺れている気がしていた。
第二新卒で入社した職場の多忙さに勤務中に倒れて、医師に適応障害と診断された。仕事を辞めざるを得なくなった。
出社しなくて良くなった翌日、私は洗面台で長い黒髪をばっさり切った。そこにあったカッターで。毛先が揃っていないので、外出時はいつもパーカーで頭を隠すことにした。
毎朝、起きたら最寄りのコンビニエンスストアにアルコール飲料を買いに行く。酒を飲んで、朝の薬を流し込み、なにもない1日を過ごして、またお酒を飲んで、夜になったら睡眠導入剤を飲んで、そのまま倒れるように寝ていた。ずっと私は溺れ続けていた。
そうして、なにもできない1ヶ月が、ただ過ぎていった。
そして毎晩決まって、限界まで酔っ払った脳は自然と「たすけて……」と呟かせるのだった。
ある日の午後。やっと布団から起き上がった私は、今日初めてスリープモードを解除したスマートフォンに、ショートメールが届いていることに気付く。
『土居 桂花様
お久しぶりです、剣菱です。
退職時の書類が受け取られず返送されてきたので、連絡しました』
そういえば、しばらくインターホンが鳴っていても対応できなかった。恐らく、退職後に発送が必要な書類を本人限定郵便などで送ってくれていたのだろう。
『体調は大丈夫そうでしょうか?
もしよろしければ、帰り道にお届けに伺います。
ご返信をお願いいたします。
剣菱』
剣菱は6歳上の先輩で、直属の上長である男性だった。確か30代前半だったと記憶しているが、正直顔が思い出せない。前職の記憶は、自分の心を守るためか少しずつ消えていっているようだった。
だけど、少しだけ彼に憧れていたのは思い出した。仕事でミスをしてクライアントの前で大泣きしてしまった私を会議室に連れて行き、泣き止むまでずっと話を聞いてくれた。その時から、私の中に彼のためのスペースができていたと思う。
……そうだ。そうだった。
私は、大切ななにかを忘れかけているのかもしれない。酒に溺れてぼんやりとした脳が、我に返った気がした。
『剣菱様
ご無沙汰しております。
もしご都合がよろしければ明後日、お時間をいただけないでしょうか。
場所は最寄り駅だと有り難いです。
何卒ご検討のほどよろしくお願いいたします。
土居』
……酔っ払った頭で書いた文章で多少不躾だが、多分、大丈夫だろう。
ちなみに明後日と指定したのは、明日美容室に行って髪をなんとかしないとという理性が働いたからだ。
私はそれを送信して、すぐに眠りに落ちてしまった。
気を使ってくれたのか、剣菱はお店を予約してくれていた。少し高そうな中華料理店。桂花が日常的に行く場所ではないのは確かだった。
「土居さん。お久しぶりです」
桂花が待ち合わせの店に行くと、彼が立っていた。見た途端、記憶が蘇ってくる。彼は黒髪をセンターで分けて、グレーのスーツ姿。体型はやや細くて健康的には見えないが、穏やかそうな空気感を醸し出している。
そうだ、こんな人だった。私は勝手に納得して勝手に頷いていた。
「いえ、どうせなにもできないですから……」
「でも、急に対応してくれてありがとう。今日は奢るから、好きなだけ食べて」
剣菱は笑顔でそう言うと、店内へ入っていく。桂花はその後ろをついていった。
「高そうなお店ですね」
席についてすぐ、桂花は戸惑ったような声で言う。剣菱は大きな封筒を桂花に渡しながら、口を開いた。
「うん、この店、桂花陳酒が美味しいんだ。土居さん、好きだったでしょ?」
……え、覚えていてくれたんだ。
秋に生まれた私は、『キンモクセイが咲く季節だから』という理由で、桂花と命名された。それがお酒の名前になっているなんてことに気付いたのは大人になってからで、その御縁からよく飲むお酒になっていた。
「体調は大丈夫? 適応障害って辛いよね。俺も昔、なったことがあるから、気持ちは分かってあげられると思う」
「あれ、剣菱さんも……?」
「うん、新卒の時。あの時は本当に、なにもできない日々をただ過ごしていたんだ」
桂花は、それに頷きながら、考え込んでしまった。
「だから、いまはなにもしなくても、大丈夫。どうせ焦っても治らない。ただ時間にまかせてみるのが良いと思う」
この人は、まるで私の毎日を見ていたかのように話す。
そうだ。私はいま、なにもできない。それに焦りを感じている。動けない私、なにもできない私。私はいま、なんのために存在しているんだろう。
「私……」
桂花はそう言って、唇を噛みしめるようにつぐんだ。それから、不安定な彼女の感情は涙腺を叩いて、ぽろぽろと小粒の涙をこぼす。
「私、動けなくて、なにもできなくて」
剣菱は少し動揺したようだが、すぐに気を取り直して、桂花の言葉にただ頷く。
「あまりに無力で、情けなくて……」
桂花はそこまで言ってから、喉がしゃくりあげられるのをそのままに、涙をまたこぼす。
「うん。それでいいんだよ」
剣菱の言葉に、桂花は思わず顔を上げる。
……なんだろう、この感覚。
溺れてもがいて、水面から顔を出したような感覚。思わず大きく息を吸う。久しぶりに酸素を肺に取り入れた気がする。自分の世界が開けたような、目が開いたような、そんな感覚。
剣菱はそれだけ言ってから、運ばれてきた桂花陳酒を一口飲んで、静かに座っていた。なにも言わず、ただ空気のようにそこに居てくれることが、彼女にとっては嬉しいことだった。
それから小一時間ほど、2人は静かな時間を過ごした。桂花にとって、心地よい時間。
この時間がずっと続けばいいのに。
桂花がそんなことを考えていた瞬間、ぐうぅ、と彼女のお腹が悲鳴をあげた。
「……お腹減ったよね。なにか頼もうか?」
剣菱はそれに少し笑いながら、メニューを桂花に差し出す。彼女は頬を少し赤らめながら、それを受け取った。
「よしっ」
しばらくして、リサイクルゴミの収集日。桂花はスポーツウェアを着て、大量の空き缶が入った袋を収集場に出して、満足げな顔だ。それから、ゆっくりと走り始めた。
私は、お酒を辞めた。そして、この1ヶ月でだらしなくなった身体を整えるため、ランニングを始めた。毎日のノルマは5キロメートル。だんだん身体が慣れてくるのが分かっている。今日はもう少し長い距離を走ってみようか。
もう、私は溺れない。前を向いて進み続ける。
剣菱さんとは、また落ち着いたら食事に行くことになっている。私は、再就職先を決めて、彼に胸を張って報告したいと思っている。それまではしばらく、地道に頑張りたいと思う。
そして秋ぐらいになったら、彼と再会して笑顔で言ってやるのだ。
キンモクセイの香りに包まれた私は、強くなれたんだって。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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また次の作品でお会いできることを楽しみにしております。
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