短編79「コリオリの力」
あらすじ
論理的なエンジニア涼が、バグや恋人との関係で「ズレ」に直面。それはコリオリの力のように避けられない軌道修正だと気づいて……。
見えない「ズレ」。
人生の全てをソースコードのように設計してきた涼には、納得のいかないことだった。
完璧な噴水と、コード。
どちらも、僕の生き方に必要なものだ。
涼は36歳のシステムエンジニア。特にソフトウェア開発の経験が長い。
几帳面で論理的な彼には、人生とは計画通り、かつ論理的に進むべき一切のズレのない一本の美しい直線だった。昇進時期、結婚のタイミング、老後の資金設計。全てがデータ化されて表計算ソフトの上に整然と並べられている。
(今日は少し、疲れたな)
帰宅した彼は、ソファにカバンを置くとバルコニーへと足を向ける。想定より業務が忙しかった夜は、決まってそちらに足が向く。
ぱしゃぱしゃと水を放つ小さな噴水。水盤の中央から水が吹き出す、シンプルな仕組みだ。
彼はその前に座ると、目を細めて水流を眺めていた。水準器で完璧な水平を保って設置した噴水。
これはきっと、論理と制御欲求の象徴。そんな位置付けのものだった。
(それでいい。絶対ズレないことが完璧だ……)
流れる水流を見つめながら、彼はそんなことを考えていた。
「おい、涼」
出社して席についてすぐ、先輩エンジニアの神崎が涼に声をかけてきた。
「先日ローンチしたプロジェクト、バグが出てるって報告があったぞ。確認してくれ」
涼は思わずディスプレイを睨みつける。それから進行管理ツールを開いて、バグ報告のスレッドをスクロールさせた。
……そんなこと、あるものか。
コードは一字一句、完璧。デバッグも従来より多いフェイズを設けて徹底した。大きなトラブルもなくローンチに漕ぎ着けた、完璧なプロジェクトだったはずだ。
『バグ報告No.2048:ファイルの移動時、ダイアログをキャンセルしてから同じ動作を行い、OKを押すとファイルが1階層上に保管されます』
涼は石のように固まってしまっていた。身動ぎもせず、ただ画面を見つめながら、ただ時間が流れている。
「完璧なソースコードを書いたはずなのに……」
動かないままで、ただそれだけ呟いた。
額には汗が浮かび、顔色がわずかに白くなる。がちがち、と歯と歯がぶつかる音が頭の中に直接、小さく、響いていた。
『まっすぐ進んでいても、地球の自転によって、わずかに曲がっていく』
ふと、子どもの頃に科学館で見たコリオリの力を思い出した。理屈では理解している。実際に噴水の水は、ほんのわずかに右に揺れているように見える。
小さな噴水の水流が地球の自転の影響を受けるなど、科学的には無視できるレベルだ。それに、水流の回転方向が変わるなんて話は様々な科学者から否定され続けている。だから気にすることはない、と自分に言い聞かせるような思いを抱えていた。
だけど、問題はそこではないと涼は思い始めていた。
人生に、どこかバグが混入したように感じ始めていた。この小さな失敗が、人生の巨大な羅針盤に、目に見えない亀裂が入ったのではないかと。
……少しずつ、ズレていく。
まるで、この見えない力に少しずつ押されて、設計図からズレた地点へと導かれているように、そう感じ始めていた。
涼のパートナー、友里恵は、まさに理想通りの女性だった。
仕事は安定していて、感情に動かされず、会話は常に論理的。結婚のタイミングも、住む場所も、全てが2人のプランニング通りに進んでいた。
……はずだったのだが。
ある週末、涼は綿密に計算したプランを提案していた。評価の高いカフェへランチに向かい、決められた歩行ルートで映画館に向かい、一定時間を休憩してから、展望台で夜景を見る。完璧なプランだった。
しかし、休憩中に友里恵は『想定外の返答』をした。
「ごめん、涼。今日はちょっと体調が良くないみたい。家でゆっくりしたいんだけど、いいかな?」
涼の頭の中のロジックツリーが、がらがらと音を立てて崩壊した。彼は握った拳をみぞおちにぎゅっと当てて、荒れる呼吸を制御しようと努める。だが、自分の身体は思い通りに動いてはくれない。
その姿に友里恵は驚いて、動けなくなっていた。
「計画した通りじゃないと、意味がないだろう」
涼の口をついたのは、そんな言葉だった。彼が一番嫌っていたはずの、感情的なナイフ。それは自分自身を傷つけるだろうことは、本人が一番分かっていたはずなのに。
「……涼は完璧を求めすぎだよ。私たちは人間だから、少しズレることもある。それはそれで、価値があると思わない?」
彼女は少し顔をしかめながら、ゆっくりと、滑舌良く、言葉にした。
「……」
涼はそれに言葉を返せない。ただうつむいて、視線を足元に落として、少し身体が震えていた。
……言葉が胸に刺さるとは、こういう体験なんだ。視界がぐにゃりと曲がっている。
この力に逆らっても意味はない。身を委ねるしかないことなど、彼も理解していた。
「……ああ。今日は帰ろうか」
かろうじてそれだけ、言葉にすることができた。
「おい涼。あのバグ、良い方向に転がっているよ」
涼が出社すると神崎が嬉しそうに声をかけてきた。
「?」
神崎が手に持ったカップからホットコーヒーを飲んでいるのを、涼はリアクションできずただ見つめていた。
「あのバグ、現場の運用でフォローできているらしい」
「……?」
涼の頭はますます苦くなっていく。理解には届かない現実に、ただそれだけ反応していた。
「つまり、ファイルの保存者が上の階層に保存する。それを次の担当者がチェックして正しい場所に移動する。つまり、結果的にダブルチェックができる、ということになったらしい」
「……」
神埼の言葉に、涼は返答できない。固まったまま、まるで全身で「理解できない」と訴えているような様子だった。
「……気にするなよ。完璧なシステムなんて、存在しないからさ」
神埼はもう一度、コーヒーを飲んでから続けた。
「小さなバグなんて日常だし、予期せぬズレもある。でも、それが新しい流れを作るときもある。俺たちはそれを仕様として受け入れるしかないんだよ」
彼は涼の様子に気づいていながら、その内心を読み取りながら、あえて明るい声を出しているのかもしれない。
「直線は壁にぶつかったら止まってしまう。でも、わずかなズレがあるからこそ、循環できるものだと思わないか?」
神埼はホワイトボードに、左から右へと真っ直ぐな直線を描く。それから、斜めの矢印をいくつか書き込んだ。
「……!」
涼は顔を上げてホワイトボードを見つめていた。言葉にできない感情を表情にして、ただボードを見つめていた。
涼は帰宅してから、またバルコニーの噴水を見つめていた。相変わらず、水流はわずかに右にズレているように見える。水準器で測ると、噴水はちゃんと水平になっていた。
もし水が完全にまっすぐ流れるだけなら、いつしか覆水盆は汚れてしまう。わずかなズレがあるからこそ、盆の隅々まで行き渡り、淀むことなく循環し、流れ続けることができる。
涼は理解し始めていた。ズレは失敗なんかじゃなく、淀まずに流れ続けるための軌道修正ではないかと。完璧を求めると息苦しくなり、立ち止まってしまう。
見えない力は、新しい流れへと導いていたのだ。
それから涼は、仕事のやり方を変えた。
設計思想を根本から変更して、最初からわずかなズレを許容する柔軟な設計に切り替えたのだ。
結果として、発生するバグは許容されることが多くなった。
何より、彼の心に余裕が生まれた。完璧を背負う重圧から開放され、むしろ仕事が面白くなっていったのだ。
もちろん、友里恵にも謝罪した。
「ごめん。僕はあなたに完璧を求めていた。けれど、ズレを許容した方が面白いということが、理解できたと思う」
友里恵はそれに微笑み、安堵したような笑みを浮かべた。2人は新しい計画は立てるけれども、以前のような強迫観念に近い空気感は消えていた。
今夜も涼はバルコニーの噴水を眺める。水流はやはりわずかに右に曲がっている。
そのカーブはもう、恐ろしいズレじゃない。それは、自分の人生が『生きていて、流れ続けている』ことを示していたのかもしれない。
彼はリビングのソファに座って、大きく息を吸った。
新しい流れは、もう始まっている。
見えないなにかに導かれることを恐れず、新しい一歩を踏み出そうと、していた。
注記
この物語は筆者の想像に基づいたフィクションであり、登場する人物、団体、および物語上の設定はすべて架空のものです。作中に登場する名称などは物語を彩るための舞台装置として用いており、現実の出来事や人物とは関係がありません。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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また次の作品でお会いできることを楽しみにしております。
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