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鬼足袋工業【東の鬼足袋】鬼タビ通りの物語 (下) (大森西特別出張所) #79

※本記事は
 Otapedia 公式note(https://note.com/fine_rat5784)のみで
 公開しています。
 無断転載・改変・商用利用を禁じます。
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はじめに

前編では、
静岡県磐田市福田町
コールテンの鬼足袋」が生まれ、
西の福助、東の鬼足袋
と呼ばれるほどの
大成功を収めたお話でした。

今回は、
創業者の寺田淳平の志を継いだ
二代目淳平が、
どのようにブランドを東京で花開かせ、
そして時代の波に翻弄されながらも、
その記憶を大田区に残していったのかを
紐解いていきます。


東京進出と大成功の影

大正時代、鬼足袋工業は
東京・大森大規模な
東京工場
を建設します。

その工場は、
当時まだ珍しかった
丸に平」のロゴをあしらった
イルミネーション看板がありました。
※「オ・ニ・タ・ビ
 の文字が掲げられていたとする
 史料も残されています。

夜には、
東海道本線の汽車の窓からも
はっきり見えるほど、
東京への発着のシンボルとして
輝いていたそうです。

大森工場の目の前を通る道路は
いつしか「鬼タビ通り」と
呼ばれるようになりました。

二代目淳平は
加盟店に琺瑯看板を掲げるなど
経営努力を重ねました。
その結果、
最盛期には大阪にも支店を構え、
従業員数は約300名に達しました。


当時の社内体制

1927年 (昭和2年)
従業員264
内工員225
そのうち女子工員183
主に15歳以下の少女でした。

生産は季節によって
大きく変動し、
春夏は比較的閑散でしたが
冬場には繁忙期を迎え、
1人が5,000足
製造するほどの
忙しさとなりました。


労働争議

1928 (昭和3年) 2月13日
待遇改善を求め
250名規模の運動 (ストライキ)
が行われました。


工場縮小への動き

1934年 (昭和9年)
敷地の北側半分
大森高等小学校用地として
売却しました。
1935年 (昭和10年) 11月15日
同敷地内に
大森高等小学校開校しました。

この頃
前出のイルミネーション看板が
撤去されたと記録されています。


自己見解による鬼足袋工業規模縮小

昭和12年地図の
地図史料によれば、(下画像)
敷地の北側には
大森高等小学校」の表記が
確認できる。

鬼足袋工業の敷地の
北側半分が売却された
とされる記録と照合すると、
地図上に示された
鬼足袋工場右側の
記名のない土地についても、
1934年 (昭和9年) の売却時
あるいはそれ以前に
売却された可能性があります。
地図表記と史料の照合により、
鬼足袋工業が
何らかの理由により
用地を売却していった跡が見て取れます。

上記の
イルミネーション撤去の話からも、
業績の不振や
その他の影響によって
土地を売約していった可能性を示唆しています。

昭和12年測量の地図
出典 日本地形社

戦争の足音と事業の終焉

戦争が激化し、
日本が物資不足に陥ると、
本来の生産ができず、
1940年 (昭和15年) 頃
陸軍指定工場へと
変貌していきました。
主に兵隊用外套
軍足を作っていました。

そして、
1945年 (昭和20年)
4月15日の城南大空襲

軍需工場の多かったこの地域は
集中的な爆撃を受け
鬼足袋工業の工場は
大きな門柱だけしか残らないほど
壊滅的な被害を受けました。

ブランドとしての「鬼足袋」は、
再建されることなく
その歴史に
静かに幕を下ろしました。


工場跡地

跡地2,400坪 (約7,920㎡)
全てを東京都に売却しました。

1948年 (昭和23年) 12月15日
大森第八中学校
この跡地を買収して拡張しました。

鬼足袋工業があった
現在の大森第八中学校

終戦後の再建と終焉

1948年 (昭和23年) 
鬼足袋工業に在籍していた
橋本明吉氏が、
戦前の商売を発展させ、
日本橋横山町に鬼足袋 (株) を設立
取扱品目を足袋から靴下に移行し、
昭和50年代まで存在したとされています。


―橋本氏の興した鬼足袋考察―

戦後間もない
1948年 (昭和23年) の混乱期に、
日本橋という商業中心地に、
新たな会社を設立することは、
相当な困難を伴ったと推測されます。

橋本明吉氏が、
旧鬼足袋工業に在籍していた、
という記述に加え、
もし彼が解体以前の役員等であり、
かつて日本橋に置かれていた、
本店機能を果たしていた拠点の資産や
前出の跡地の売却益などを
何らかの形で活用できた人物だとすれば、
この再出発がより現実的なものとなります。

静岡の福田町側に残っていたであろう、
生産拠点や流通のネットワーク、
そして旧会社の資産といった基盤が、
彼の事業再建を可能にした、
主要な要因であった可能性も
十分に考えられます。

これは想像の域を出ませんが、
彼の事業再建の背景には、
そうした旧来の資産や人脈が
影響したのではないでしょうか。


街に残る工場の記憶

「富士見通」と呼ばれていた通りは、
鬼足袋工業の隆盛によって
「鬼タビ通り」
呼ばれるようになりました。 

鬼足袋工業が姿を消した後、
「東邦医大通り」と名称を変え、
現在に至ります。

しかし、
地元の人々や Google Map では、 
今でも「鬼タビ通り」の名が
併記されており、 
寺田一族がこの街に残した足跡が、 
通りの名を通じて
深く刻まれていることを実感します。

工場の面影は消えましたが、 
彼らが刻んだ息吹は
今も地域に根づいています。


最後に

東京に進出してからの
鬼足袋の物語は、
頂点を極める成功を収めながらも、
戦争という
時代の大きなうねりに翻弄された、
まるで一本の映画のようでした。

一時は頂点を極めた会社が
大田区にあった事実は
以前投稿した「新高製菓」に
被って見えます。

静岡佐賀で大成功を収め
共に当時の大森 (現在の大森西) に
工場を設置する辺りは
とても似た境遇の会社に
映ってしまいます。

Otapediaは、
寺田淳平
「大田区無名の偉人」

鬼足袋工業
「大田区無名の企業」

鬼タビ通り
当時の「イルミネーション看板」を
大田区未顕彰の地域遺産」として
登録します。

大田区の記憶を呼び起こす
「Otapedia」の活動

私たちは
その“名を失いかけたものたち”に、
もう一度まなざしを向け、
記憶の岸辺に呼び戻す営みです。

彼らの活動や
痕跡は消えても、
地域に遺した軌跡
未来へと伝えていきます。

これらの呼称は
Otapedia独自」の記録上の呼称であり
大田区公式の認定ではありません」。

皆さんの街にも、
かつて有名だったけど
今は失われてしまったものはありませんか?
ぜひコメントで教えてください。

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無断転載・営利利用を固く禁じます。
本記事は、地域の記憶を未来に残すための
デジタルアーカイブです。
引用の際は出典明示と事前連絡をお願いします。

出典
1.『遠州福田地方における
  別珍・コール天工業の性格』 河合康夫
2.『日本別珍コール天五十年史』藤田錦司 著
3. 大田区史
4. 路上観察と琺瑯看板、マンホールのふた
5.大森区史
6.大森第八中学校 沿革
7.働いてきた女性たち おおた女性史をつくる会
8.大森歴史散歩 伊藤一也編 平成26年
9.日本地形社 昭和12年測量
ヘッダー
 AI生成
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