大森八景園 久我邦太郎1 (入新井特別出張所) #30
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久我邦太郎
(くが くにたろう)
生年不明~
1926年 (大正15年) 10月19日
「開拓狂」と評された
実業家
大森八景園の開園と
八幡海水浴場を開場させ、
地域の観光・レジャー産業の礎を
築いた人物です。
開拓狂との異名を持ち、
画期的な行楽地を創設しながら、
その功績や具体的な生涯、
詳細な情報は
一般に知られていません。
大森八景園
1884年 (明治17年)
郊外初の遊園地として、
現在の大森駅西口一帯の、
(現在の山王2丁目 ジャーマン通り~闇坂)
約1万坪という広大な土地を買い取り、
東京湾を一望できる景勝地として開園した
さらには、鉄道唱歌にも
「梅に名を得し大森を」と歌われ、
人気の行楽地となる。
※闇坂は、木が鬱蒼としていて
昼間でも暗かったことから、
その名が付いたという説があります。
開園間もないころは、
目立った施設もなく
時折相撲や人寄せを目的とした
催しが行われていました。[⁷]

左に見えるのが八景園
(蒲田駅側から撮影)
出典 三井トラスト不動産
「このまちアーカイブス 大森・蒲田」
この場所は、
江戸時代から八景坂という場所で、
鎧掛松は
歌川広重の浮世絵にも描かれました。
※鎧掛松は
大森天祖神社の境内にあったとされますが、
現存しません。

国立国会図書館 デジタルコレクション所蔵

出典:大田区立郷土博物館
大森八景園通史
1887年 (明治20年)
園内に50坪もの大広間を持つ、
わらぶきの家屋を立て、
桜や梅の木を植樹し
園内の風致を整えました。[⁷]
1888年 (明治21年) 5月1日
東京府東部27校の
連合運動会が開催されました。[⁷]
これは明治期の学校体育普及を
象徴する大規模行事で、
八景園が単なる行楽地にとどまらず、
教育の舞台としても
地域社会に重要な役割を
果たしていたことを示しています。
同年 (時期不明)
府下で最も著名であった
両国の中村楼の中村いね子が
武者料理と称する
蟹料理を名物とした
料亭「三宜樓 (さんぎろう)」を
上記の大広間で開業させました。[⁷]
これにより八景園は、
教育・文化・食の三拍子が揃った
総合的な行楽地として、
さらに多くの人々を
惹きつけるようになりました。
この頃から
八景園の名が宣伝されると共に
学生の遠足や運動会などの
団体の来園も増えました。[⁷]
1891~1892 (明治24~5年)
「三宜樓」のオーナーが
中村の縁者に移りました
経営は傾いていき、
明治30年に廃業に至りました。[⁷]
1897年 (明治30年)
久我氏と
元正金銀行頭取・加藤文武氏との間で
八景園の譲渡契約成立しました。[⁷]
遊園地としての行楽は
益々繁盛しました。[⁷]
1902年 (明治35年) 11月13日
皇后陛下 (のちの昭憲皇太后) が
行啓されました。
それを記念する記念碑、
隣接する加納久宜子爵邸に
建てられました。
※ぎょうけいとは、
皇后・皇太后・皇太子妃が
外出されること。
※加納久宜(かのうひさよし)子爵 [⁴]
上総国一宮藩主
入新井村に住み
東京初の信用金庫
「入新井信用金庫」
(現 城南信用金庫) の創設など、
地域の発展に大きく貢献した人物です。
1907年 (明治40年)
大森海岸で料亭を営業していた
松浅が松浅支店として
志村博敏氏が
園内で営業を始めました。
1912年 (大正元年)
若尾幾太郎が
園の南直近に、
望翠楼ホテルを開業する。
後に「木原会」を前身とする
「大森丘の会」と称した会合が、
このホテルで開かれ、
文士たちが集まるようになります。[⁶]
※この頃から
芸術家や詩人達が
山王一帯に住むようになり、
東京近郊の別荘地として
開発されるようになります。
1913年 (大正2年) 5月
「松浅支店」が廃業。[⁷]
来園客が減少していきました。
このころから
園内の手入れが
充分に行き届かなくなったようです。[⁷]
1916年 (大正5年)
元正金銀行頭取
加藤文武氏から
服部時計店 (現セイコー)
2代目社長
服部玄三氏に
所有権が移りました。[⁷]
※文献によっては
玄三氏の父
金太郎氏へとの記録もある。[⁸]
この頃になると
茨繁る野原と化して
美しかった八景園の面影は
すでに失われていたようです。[⁷]
1920年代~1930年代
文士たちが続々と
大森に集まり、
本格的に馬込文士村が
形成していきました。
1922年 (大正11年) ~ 1924年 (大正13年)
かつての敷地は、
40余りの区画に分譲化され、
住宅街となりました。[⁷]

出典:大田区立郷土博物館
現在
当時の遺構は全くありませんが、
池上通りやそのほかに
「八景坂」の名が残り、
かつての面影を今に伝えています。

住所は山王になる前の
新井宿時代に竣工している
最後に
新たな史実の発見により
具体的な
園内や所有者の変更が
明らかとなりました。
最終的には
広大な園内を持て余し
管理が行き届かなくなったことも
閉園の一因となったようです。[⁷]
20251030加筆
結び
現在の大田区大森駅前に
これだけの観光地を築きながら、
久我邦太郎本人の詳しい史料が、
ほとんど残されていないのは、
その偉大な功績を思えば、
たいへん惜しまれます。
Otapediaは
久我邦太郎を
「大森の行楽王」として
大森八景園を
「大田区未顕彰の地域遺産」
ここに記録したいと思います。
今後、新たな史料が見つかり次第、
加筆修正を重ねていく所存です。
彼の遺業に
スポットライトの当たる日が来るのを、
心から願っています。
大田区の記憶を呼び起こす
「Otapedia」の活動
私たちは
その“名を失いかけたものたち”に、
もう一度まなざしを向け、
記憶の岸辺に呼び戻す営みです。
彼らの活動や
痕跡は消えても、
地域に遺した軌跡を
未来へと伝えていきます。
これらは
「Otapedia独自の呼称」であり
「大田区公式の認定ではありません」。

出典
1.Wikipedia 『八景園』
2.『このまちアーカイブス 大森・蒲田』三井トラスト不動産
3.『国立国会図書館 デジタルコレクション』
4.Wikipedia 『加納久宜』
5.Wikipedia 『若尾幾太郎』
6.『望翠楼ホテル』 馬込文学マラソン
7.『大田区史』 下巻
8.『花香るおおたの梅林 ~愛でられる花々~』
大田区立郷土博物館 令和5年度企画展
ヘッダー写真
9.大田区立郷土博物館 所蔵
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