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高柳淳之助『池上線の父』 蒲田の価値を高めた男 (蒲田西特別出張所・池上特別出張所) #31

【前段】
 蒲田が
 多様な産業と文化が
 融合する都市へと
 発展していく陰には、
 いくつかの鉄道会社の存在がありました。
 蒲田の発展を促した
 「陰の功労者」として、
 池上電気鉄道 (現在の東急池上線) の
 存在は欠かせません。

 しかしその道のりは、
 決して平坦なものでは
 ありませんでした。
 そしてそこには、
 「大田区無名の偉人」が存在しました。

 後の1976年 (昭和51年) 4月25日発売された、
 西島三重子さんの歌う池上線
 広く知られるなど、
 地域にも深く親しまれてきました。

 その偉人が
 池上線にどのような影響を与え、
 現在に至るのか、
 辿って行きましょう。


高柳淳之助肖像
出典 Wikimedia Commons
([ファイル名:Jun'nosuke Takayanagi.jpg]より)

【彗星の如く現れた『黒い鉄道王』】

 高柳淳之助
 1882年 (明治15年) 10月16日~
  1964年 (昭和39年) 11月14日
  
茨城県行方郡出身の実業家政治家
  著述家、詐欺師
 1920年 (大正9年) 
  
第14回衆議院議員総選挙
  茨城8区から立憲政友会
  候補として出馬し当選しました。
 同年
  江東区・江戸川区を走っていた、
  路面電車・城東電気軌道に目を付け、
  株を買い占めました。
  乗っ取りを恐れた経営陣に
  株を買い取らせることで、
  20万円もの巨額の利益を得ました。
  ※彼のやり方は、
   一般の資産家から資金を集め、
   資金繰りに行き詰まった企業を、
   支援し再生させるという、
   現代で言う企業再生ファンドに類する
   事業を行っており、
   それは、いささか怪しい手法でした。
 1921年 (大正10年) 5月
  神田区小川町の自宅に高柳信託株式会社を、
  
その後、高柳第二信託株式会社
  高柳信託第三株式会社を設立する。
  ※この頃から資金集めのためのダミー会社を
   多数設立して、
   「黒高柳」が本格的に表れ始めます。
 1923年 (大正12年) 3月
  
神田区小川町の自宅に日本共益株式会社
  
その後、日本第二共益株式会社
  日本第三共益株式会社を設立する。
 1925年 (大正14年) 
  
3つの会社を合併して、
  高柳金融株式会社と改称する。
 1925年 (大正14年) 9月29日
  多額納税者の互選選挙で当選し、
  貴族院議員となる。
  ※高柳事件については後述します
 1935年 (昭和10年) 11月6日
  詐欺容疑の刑が確定して、
  第一回国勢調査記念章大礼記念章(昭和)
  ・紺綬褒章を褫奪されました。
  その後、数冊の本を出版するも
  表舞台から完全に姿を消しました。
 1964年 (昭和39年) 11月17日
  茨城県
にて満82歳死去しました。

昭和初期の城東電気軌道
出典 江戸川区

・池上電気鉄道の生い立ち

池上電気鉄道の誕生】

 1912年 (大正元年) 12月28日
  松方五郎らが発起人となり、
  出願した軽便鉄道に始まります。
  池上を経由して
  目黒大森を結ぶことで、
  参詣客の便宜を図るとともに、
  東京市外への
  人口増加に対応することを
  目標に掲げました。

  ※松方五郎 1871年 (明治4年) 4月生
   第四代総理大臣松方正義の五男 
   東京瓦斯電気工業
二代目社長を務めました。

池上電気鉄道 初期計画線(紫点線)と現ルートの比較図
出典元 木造院電車両マニア(2025年11月1日現在閉鎖)
XWIN II Weblog 池上電気鉄道、
池上~蒲田間 支線開業90周年 20121006

【池上電気鉄道の認可とその後】

 1914年 (大正3年) 4月8日
  
認可までに、
  およそ2年もの月日がかかりました。
 1915年 (大正4年) 2月7日
  工事施行認可申請
  期日までに提出できませんでした。
 1915年 (大正4年) 4月23日
  
工事施工認可申請延期を届出。
  ※組織の維持に努力は見られましたが、
   資金難からか、
   工事は一向に進まない状況でした。
 1916年 (大正5年) 2月18日
  工事施工認可申請延期を再度届出。
 1916年 (大正5年) 10月18日
  
工事施工認可申請延期と発起人追加を届出
  ※この申請からも、
   発起人の信頼性や
   資金難といった、
   問題が続いていたことがうかがえます。


【池上電気鉄道の設立】

 1917年 (大正6年) 6月24日 
  池上電気鉄道は
  ついに会社を設立しました。
  しかし、設立までには
  5年もの歳月がかかっており、
  その主な原因は、
  発起人の交代
  信用力の低い者が多かったことと、
  資金難にありました。
  工事は、池上駅から池上通りを通り、
  大森駅方面への建設を目指しましたが、
  大森駅周辺の宅地開発が進んでいたため、
  用地買収は困難を極めました。
 1918年 (大正7年) 12月28日
  大森は本線として保持しつつ、
  「やむを得ず」(真偽は定かではありません)
  蒲田支線として、
  池上~蒲田間の免許を取得しました。
 1921年 (大正10年) 5月18日
  池上~蒲田間起工式を行いました。
  しかし、相変わらずの資金難により、
  工事はなかなか進みませんでした。


【「救世主」高柳と池上電気鉄道】

 1921年 (大正10年) 9月
  城東電気軌道
の大成功で、
  「鉄道は儲かる
  と考えたのか、その利益を投入し、
  
池上電気鉄道株式会社の株を
  買い占めます。

 1922年 (大正11年) 4月19日
  池上電気鉄道株主総会前日、
  田園都市会社 (目黒蒲田電気鉄道) は、
  臨時株主総会を開いて、
  自社との連携を目的に、
  池上電気鉄道への投資を決議しました。
  しかし、
  すでに高柳に掌握されていた
  池上電気鉄道は、
  これを拒否します。

 1922年 (大正11年) 4月20日

  高柳は、目論見通り株主総会で、
  池上電気鉄道の経営権を握りました。

  その後、前途を悲観されていた
  池上電気鉄道を、
  10月のお会式までに
  開業させるべく奔走しました。
  新車輛の導入が
  間に合わないと判断すると、
  静岡県の駿遠電気 (現在の静岡鉄道)
  に直談判し、
  中古の電車2両を調達、
  開業に間に合わせました。

  この迅速な判断と実行力は
  特筆すべきものでしたが、
  調達された電車には、
  駿遠電気鉄道の社名が入ったまま
  運行されていました。

 1922年 (大正11年) 9月22日
  池上電気鉄道は、
  起点 (終点) を、
  従来の目黒から五反田
  変更届を提出しました。
  これは、
  同月2日設立された
  目黒蒲田電気鉄道を、
  意識した動きとみられますが、
  実際の許可が下りたのは
  1925年 (大正14年) 4月14日でした。

 1922年 (大正11年) 10月6日 
  計画から10年の月日を費やしましたが、
  蒲田~池上間1.8km単線ながら、
  池上電気鉄道蒲田支線が、
  お会式前1922年 (大正11年) 10月6日
  高柳が社長に就任してからは、
  何とおよそ6か月という短期間の間で、
  目黒電気鉄道よりも早く
  開業にこぎつけました。 
  
  ※当初は大森駅を
   ターミナルとする計画でしたが、
   蒲田駅に変更されたことで、
   現在のターミナル駅としての
   「蒲田駅」確立しました。
  
  ※しかし、
   その早期開業の裏には、
   鉄道省の指導の
   工事レベルを下回る、
   低コストでの工事
   
という実態がありました。

   その他、
   多くの申請が
   事後承諾で行われるなど、
   異例の進め方が
   多数見られました。
  
  ※池上駅で
   大きく左にカーブしているのは、
   当時はすでに閉鎖されていた、
   「池上競馬場」にあった、
   「」を避けたためかもしれません。

参考資料 大正14年の池上の地図
中央のソーセージのような形状の線が堀を示しており、
その外側が元競馬場のコース
出典 古地図で巡る消えた競馬場
(※このページは2019年3月アーカイブ)

 1923年 (大正12年) 5月4日
  池上電気鉄道は
  半年以上をかけて、
  ようやく
  雪ヶ谷駅まで延伸しました。

  しかし、
  この延伸も
  低コストで行われたため、
  単線開業となりました。

  ※この延伸の裏で
   資金調達のために設立された会社が
   
実質的に「高柳個人の懐の潤すため」の、
   ダミー会社でとして機能しており、
   鉄道の運営資金には、
   ほとんど回されていませんでした。
   この頃には、
   高柳が当初まとっていた
   「救世主」としての仮面は、
   すでに剥がれ落ちていたのです。
  
  その後、
  目黒から五反田への
  起点変更認可を待つ間、
  工事は停止しました。
  会社は洗足池での観光開発にも
  乗り出しましたが、
  乗客増加には繋がりませんでした。
  呑川の橋梁設置
  石川台駅周辺の台地開削といった難工事も、
  さらなる延伸を阻む要因となりました。


【事件発覚による失脚】

 1925年 (大正14年) 9月
  高柳淳之助氏による、
  長年にわたる不透明な資金運用が、
  ついに社会の白日の下に
  晒されました。

  こうして「高柳事件」が発覚します。

  巧妙に仕組まれた詐欺行為、
  大規模な横領、
  
そしてそれらを隠蔽するための
  組織的な公文書偽造
といった、
  看過できない数々の不正の結果、
  市ヶ谷刑務所に収容されました。

 1925年 (大正14年) 12月
  「高柳事件」
を受けて、
  池上電気鉄道取締役
  辞任するに至ります。


・回想

   初めに
   この投稿は
   池上電気鉄道の歴史を中心に
   まとめたものです。
   高柳淳之助の人物像や
   生涯については一部触れていますが、
   詳細な伝記的記述を
   目的としたものではありません。   

   池上電気鉄道は、
   設立当初から問題を抱えていました。
   発起人達は資金集めに苦慮し、
   「松方五郎」のような有力者の
   名義を借りなければなりませんでした。
   それでも
   認可に2年創立に5年も要するなど、
   通常であれば事業が頓挫しても
   おかしくない状況でした。
   そんな「死に体」に手を差し伸べたのが、
   高柳淳之助でした。
   彼は、潤沢な資金を元手に、
   池上電気鉄道掌握し、
   わずか半年で
   路線の開通に成功しました。

   その一方で、
   衆議院議員でもあった高柳は、
   自身の地位も利用して
   ダミー会社を設立し、
   多額の資金を私物化しましたが、
   当然ながらその不正は発覚し、
   犯罪者として失脚しました。
   
   池上電気鉄道の在籍は、
   わずか5年
という短さでしたが、
   高柳の行動力が
   現在の池上線の基礎を築いたことは、
   紛れもない事実です。


・最後に

   Otapedia
   功罪はありますが、
   現在の蒲田発展に
   多大な影響を与えた
   高柳淳之助
   『池上線の父

   池上電気鉄道を
   『大田区無名の企業』 
   
として登録します。

   また10月6日
   池上電気鉄道の
   開業日を記録する
   「大田区記憶の日」
   として登録します。

   大田区の記憶を呼び起こす
   「Otapedia」の活動
   
私たちは
   その“名を失いかけたものたち”に、
   もう一度まなざしを向け、
   記憶の岸辺に呼び戻す営みです。

   彼らの活動や
   痕跡は消えても、
   地域に遺した軌跡
   未来へと伝えていきます。

   これらの呼称は
   「Otapedia独自の呼称」であり
   「大田区公式の認定ではありません」。

     出典 Wikipedia 高柳淳之助
      Wikipedia 池上電気鉄道
      東急100年史
      木造院電車両マニア XWIN II Weblog 
      (2025年11月1日現在閉鎖)
      古地図で巡る消えた競馬場
ヘッダー写真 池上多摩川線内1編成の「きになる電車

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