大森海苔之道 (Omori Seaweed Road) Part 2 海苔養殖の始まり 歴史と進化 (大森東・糀谷) #17
1 大森海苔養殖の起源と進化
【江戸時代の漁業】
江戸時代、
漁民たちは自給のために
魚を採っていました。
【御菜八ヶ浦】
いつの日からか
御菜八ヶ浦と呼ばれ
毎日将軍家へ鮮魚を
献上するようになりました。
献上は必要に応じて、
または特定の時期に
行われることが
多かったようです。
【漁法が生んだ漁業の発展】
いつでも安全に
鮮魚を差し出せるように、
沖合に枝竹を用いた
柵囲い (生け簀) を設け、
獲った魚を
一時的に確保しておく
設備を整えました。
「献上する義務の中で、
漁民たちは日々の生活を守るために、
自然の恵みと備えを
両立させていたのです。」
この枝竹を
用いた生け簀が
のちの
海苔の海苔養殖の
発展に繋がりました。
【食文化としての魚貝類のポジション】
江戸時代には、
将軍家や幕府関係者への
献上以外にも、
市場での販売や自給自足のための漁業など、
様々な形態で魚が流通していました。
例えば、
徳川家康は
江戸城内で働く人々の食事のために、
大坂の佃村から漁師を呼び寄せ、
幕府に魚を納めさせました。
また、
漁師たちは獲れた魚の残りを、
日本橋の魚河岸で売るようになり、
これが
現在の東京都の市場の始まり
とも言われています。
「こうした流通の多様性が、
江戸の食文化と経済活動の幅を
広げる基盤となっていたのです。」
【海苔養殖の前夜】
ある冬の日、
通常の作業中に漁民たちは、
その柵囲いに海苔が、
繁茂しているのを発見しました。
この自然現象に、
海苔がこの環境で栄養を得やすい
という性質を漁民たちは感じ取り、
これが、海苔養殖という新たな技術への、
着想の種となったのです。
「この発見が、
新たな挑戦への第一歩となりました。」
野口六郎左衛門による海苔漁の開始
1682年 (天和2年)
大森の漁師
野口六郎左衛門が
幕府に願い出て
海苔養殖を始めたことが、
日本の海苔産業の
起点とされています。
およそ300年にわたる
“海苔のまち・大森”の、
歴史の始まりとなりました。
【海苔養殖初期の試行錯誤】
1684年~1703年
(貞享・元禄年間) の期間、
偶然の発見を契機に、
漁民たちは試行錯誤を重ねながら
伝統的な海苔養殖技術の基礎を
確立していきました。
記録書『武江年表』などにも、
当時の貴重なエピソードが
伝えられており、
大森地域での海苔養殖の始まりが
後世に示されています。
「基礎が固まるにつれ、
さらなる発展への期待が
高まっていきました。」
【道具の開発による海苔養殖の夜明け】
1717年 (享保2年)
浅草の漁師弥平は、
品川の海に、
初の海苔養殖専用具
「ソダヒビ」を設置し、
海苔がつくか試したところ、
みごとに成功。
これが「海苔養殖の始まり」
となりました。
海苔養殖は新たな転換期を迎え、
偶然による収穫から
意図的な養殖へと進化する
大きな一歩を踏み出しました。
(「ソダヒビ」とは、
葉を落とした枝を束ねて
作ったものです。)

出典 大森海苔のふるさと館
のりのりたんけんガイド
【安定した収穫が出来ない博打草】
当時は海苔の生態が
解明されておらず、
海で収穫できるのは、
偶然に左右される性質から
『博打草』『運ぐさ』などと
呼ばれていました。
(のちに『運のいい草』として
縁起物として扱われました)
「技術の進展は、
生産の安定化と収益の拡大に向けた
新たな可能性を切り開いていきました。」
【幕府の手厚い保護を受けた海苔漁】
幕府は海苔を
貴重な財源として位置付け、
市場での流通を
積極的に推し進めました。
海苔養殖は幕府の保護を受け、
次第に江戸の特産品としての地位を、
確固たるものとしていきました。
これは徳川家康が
海苔を好物としていたことも
一因と考えられています。
【浅草海苔の誕生】
養殖技術の進歩により、
従来よりも多くの海苔が市場に
出回るようになり、
経済面でも重要な役割を
果たすようになったのです。
さらに、
改良された製法と
工夫が重ねられた結果、
大森で収穫された海苔は
独自の加工技術により、
江戸名物「浅草海苔」として誕生。
浅草を中心に普及し、
その味と品質の良さから
広く愛される商品となりました。
「加工技術の革新と市場戦略が、
海苔を一大産業へと
押し上げたのです。」
【海苔養殖 全国へ旅立つ】
浅草海苔の人気は
やがて全国に広がり、
海苔養殖の技術も各地に伝播。
地域ごとに
独自の工夫や
製法が取り入れられ、
海苔産業は
全国的な大産業へと
発展していきました。
こうして、
漁民たちの工夫と偶然の発見、
幕府の市場戦略、
そして
技術革新と加工・普及の取り組みが
融合することで、
大森海苔養殖は
確固たる伝統技術として
確立されました。
海苔という食材に込められた
人々の知恵と情熱の物語は、
今日に至るまで受け継がれ続け、
全国の食卓にその存在感を
示し続けています。
「全国へと広がるその影響は、
江戸時代の後半に
さらに勢いを増していきました。」

【御用海苔の制度化】
1773年 (安永2年)
幕府への献上が
制度化されました。
【板海苔技術の確立】
当時の生海苔は日持ちがせず、
自家消費が主でした。
江戸時代の中期から後期にあたる
1772年~1780年 (安永年間) の頃、
浅草では、
古紙の再生が盛んでした。
その「紙を漉く」技術が
海苔業者にも転用されました。
試行錯誤の結果
紙状の板海苔の製法
「海苔つけ」が
確立しました。
この革新こそが、
その後の海苔文化の礎となり、
大森が海苔産業の中心地となる
きっかけとなったのです。
ー免責事項ー
板海苔の記述に関しては
所説あるようです。
【技術の一般化と「海苔巻き大流行」の全盛時代】
簀 (す) で漉かれた
四角い板海苔が登場し、
「海苔巻き」が
庶民の間で大流行。
屋台寿司の出現と相まって、
海苔料理は
全盛時代を迎えました。
【浅草海苔の由来】
名称の由来については、
以下の諸説があります。
浅草和紙と同じ製法である。
東京湾が浅草近くまで入り込み、
浅草川 (隅田川) の河口で採れたため。浅草寺の境内で販売されていたため。
一般には説2が有力ですが、
いずれにしても海苔と浅草は
切っても切れない関係となりました。
「この革新の流れを受け、
さらに生産体制の
大きな転換が訪れるのです。」
【革新の転換点―紙状海苔と
手巻き寿司が全国で流行】
1804年 (文化元年) を境に、
これまで上質な浅草海苔は、
品川海苔を運びながら
作られていましたが、
浅草での海苔抄きは
次第に姿を消し、
抄き作業は品川や大森へと移行。
その結果、
江戸時代全体を通じて、
海苔養殖の生産量増加、
紙状に加工されたことによる
流通の容易さ、
さらには
手巻き寿司としての利用が、
海苔文化を
全国に広める
大きな原動力となったのです。

出典
1.大森 海苔のふるさと館
2.海苔JAPAN
3.山本海苔店
4.聞き書き 最後の海苔漁師たち
5.大森町政堤要
6.大森漁業史
ヘッダー写真
戦後 海苔網の漁場 (大森 海苔のふるさと館 提供)
戦後 海苔網の海苔とり (東京都島しょ農林水産総合センター所蔵)
戦後 海苔洗い 大森 海苔のふるさと館 提供
昭和38年1月1日 海苔乾し (大森 海苔のふるさと館 提供)
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