大森海苔之道 (Omori Seaweed Road) Part4 海苔文化の発展と国際的評価における黄金期 (大森東・糀谷) #19
【大森の海苔養殖 ― 数値比較に見る繁栄】
明治維新前後におけるヒビ場面積変化比較
1830~43年 (天保年間) ― 1876年 (明治9年)
天保年間 明治9年
地域 坪数 坪数 戸数 一戸平均坪数
品川宿 21,900 86,886 140 626
海晏寺門前
品川猟師町 18,965
品川寺門前
大井村 52,147 56,045 63 890
不入斗村 3,617 7,316 45 162
大森町 120,254 193,050 500 386
糀谷村 26,637 38,118 93 410
羽田村 - 39,000 170 230
羽田猟師町
鈴木新田
合計 241,520 420,415 1,015 414
品川区/しながわデジタルアーカイブより
明治9年 品川宿,海晏寺門前、品川猟師町,品川寺門前 合算の数値
当時のデータから見ても、
大森周辺において、
多くの海苔養殖を
営む者がいたかがわかります。
品川地域3カ所を合わせた数よりも、
圧倒的に多かったのです。
【地域の名物に名を連ねる】
江戸時代後期の
荏原郡の3大名物は、
「品川カブ」
「品川ねぎ」
「大森の海苔」であり、
六郷周辺の3大名物としても、
「大森の海苔」
「玉川(多摩川)の鮎」
「羽田の蛤」に挙げられるほど、
海苔は大森の名物となりました。
六郷の名物が
すべて海産物であることも
注目されます。
【現在でも親しまれる新商品の開発】
1869年 (明治2年)
日本橋室町の山本 (現在の山本海苔店) が、
「味付け海苔」を創製しました。
1871年 (明治4年)
東京下谷池之端の酒悦香泉が、
「海苔佃煮」を創案しました。
1877年 (明治10年)
日本橋山形屋が、
「焼き海苔」を瓶詰めにし、
錫箔で封じた製品を創案しました。

中央には
都電の線路も見える
(車の形から戦後のものか)
【万国博覧会における海苔の評価】
1873年 (明治6年)
大森の海苔商は、
ウィーン万国博覧会に
海苔を出品し、
三等賞を授与しました。
これは、
伝統技術と製品品質が
国際舞台で認められた
画期的な出来事であり、
その後のブランド確立に
大きく寄与する
転換点となりました。
この受賞により、
海苔は国内のみならず
海外市場においても
評価されるようになりました。
【発展の裏にあった実情 - 法整備の開始】
政府による明治前期の漁業政策は、
漁業者団体を組織して
江戸時代からの慣行を
維持させる方向性が定まり、
地域の漁業を担う組織として、
漁業組合が作られた。
しかし、
各地で様々な問題が発生し、
政府は、
1884年 (明治17年) の
同業組合準規の法整備を行った。
同11月、
東京湾漁業組合が結成されたが、
全国に広まらなった。
1886年 (明治19年) には
「漁場占有利用関係の適正円滑なる統括、
漁場調整の円滑化として」
漁業組合準規が成立した。
【海苔養殖が経済における
比重の高さを示す蒲地騒動】
そんな中、
翌年の1887年 (明治20年) 5月7日
鹿児島県士族の蒲地清実 (芝愛宕町寄留)が、
単独で20万坪余りの
養殖場を請願するという、
利権が絡むところから起こったのが、
蒲地 (かまち) 騒動である。
各海苔生産地では、
蒲地の出願について
強硬な反対運動を展開し、
代表者は入れかわり立ちかわり、
3ヵ月にわたって、
東京府に日参して
反対の陳情をおこなった。
それにもかかわらず、
府は蒲地に対し
一六万坪余の許可を与えた。
各浦々では府のこの処置を
激しく糾弾して
関係各方面に訴えた。
その結果府当局も、
蒲地に対する許可を
取消さざるをえなくなり、
1887年 (明治20年) 8月に
8万坪は返納、
残り8万3,000坪は、
南品川宿・同猟師町・大井村・
大森村・羽田村に
譲渡されることとなった。
これら5ヵ村は
府から5ヵ年の契約で許可を受け、
1888年 (明治21年) 2月に
大森村が2万6,600坪、
大井村・南品川宿・同猟師町が
それぞれ1万6,600坪ずつ、
羽田村が6,600坪を
分割使用することとなった。
これらのひび柵場は
その後長く「蒲地場」と呼ばれていた。
【本格的な組合設立の動き】
政府主導による
組合設立の試みは
なかなか浸透しなかった。
そのご徐々に
体制が整っていき、
1886年
大森本場乾海苔商組合が
結成される。
1895年 (明治28年) 9月2日
東京海苔採養営業組合
が設立され、
海苔業界における組織化の
第一歩が踏み出された。
1899年 (明治32年) 12月19日
大森乾本場海苔組合が
正式に認可される。
この組合の特筆すべき点は、
全国に数多く存在した
海苔組合の中で、
「本場(ほんば)」の
名を冠することを
唯一許された存在であった。
それはすなわち、
大森が“海苔の本場”として、
品質・歴史・流通の中心地という
確かな信頼と実績を
築いていた証でもある。
この動きを皮切りに、
以降、各地でも
海苔組合の設立が相次ぎ、
海苔業界の近代化が
静かに進んでいった。
【法整備の確立による業界の安定化】
蒲地騒動の背後には、
旧鹿児島藩士による策動が
あったといわれている。
すなわち、
蒲地自身旧鹿児島藩士であり、
時の東京府知事高崎五六も、
許可の衝にあたる
農商課長丸太某氏も
鹿児島出身であった。
生業の場所を守ろうとする
海苔養殖漁民の切実な運動であった。
その運動が
先に述べたような高まりをみせたのは、
当時の海苔養殖の繁栄と
決して無関係だったとは言えない。
その繁栄こそ
漁民の自主的な団結と
蹶起を支えるものであった。
こうした努力の結果
1901年 (明治34年) には、
漁業法が制定され、
ようやく全国で
組合が結成されることとなった。
ここでも
諏訪の人々の結束力が
発揮されたのかもしれない。
【騒動にも耐えた海苔商人たちが
確立した黄金期】
伝統を背景に
新商品の開発や
1873年の博覧会での
評価を皮切りに
斬新な技術が
融合される流れが加速し、
海苔は伝統に裏打ちされた
高い品質を背景に、
国内外で
その存在感を強め、
業界の躍進へと
繋がっていった。
その裏で、
利権に絡む騒動も発生したため、
組合を作り、
組織の強化を行い、
法整備が整っていった。
そんな環境の変化の中でも、
辛抱強く適応していった、
海苔養殖業者達。
彼らの地道な活動によって、
本格的な黄金期を迎えるのである。
・マメ知識
お茶屋 (陸の物) が
海苔 (海の物) を
扱う理由は何でしょう?
「湿気を嫌う」という性質が、
お茶と一緒だったという事で、
江戸時代後期から
扱われているようです。
【市場流通の拡大と技術開発の躍進 -
ステージアップを迎える】
1912年 (明治45年)
三越呉服店 (三越百貨店) が、
「日本初の食品部」を設置し、
デパートで初めて
「海苔の取り扱い」を開始しました。
1919年 (大正8年)
日露戦争後の好況時代を迎え、
東京・大阪のデパートが
続々と海苔の販売を開始し、
海苔市場が一層拡大しました。
1924年~1925年 (大正14~15年頃)
海苔養殖開始から約300年、
従来は伝統的な「ヒビ」が
使用されていましたが、
この頃、初めて「網ヒビ」が
考案されました。
当時はシュロやパームなどの
天然繊維が用いられ、
現在では合成繊維が使われています。

出典
1.品川区/しながわデジタルアーカイブ
2.山本海苔店
3.聞き書き 最後の海苔漁師たち
4.働いてきた女性たち おおた女性史をつくる会
5.大森海苔問屋街
6.Wikipedia 大森本場乾海苔問屋協同組合
7.大森漁業史
ヘッダー写真
戦後 海苔網の漁場 (大森 海苔のふるさと館 提供)
戦後 海苔網の海苔とり (東京都島しょ農林水産総合センター所蔵)
戦後 海苔洗い 大森 海苔のふるさと館 提供
昭和38年1月1日 海苔乾し (大森 海苔のふるさと館 提供)
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