なぜ宇佐では、仁徳天皇より菟道稚郎子が上位なのか――『日本書紀』が一つに縫い合わせた、応神王家と仁徳王家。
応神王家と仁徳王家は本来別系統だったのか
菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと)は、一般には京都府宇治市に関係する皇子として知られている。
『日本書紀』によれば、菟道稚郎子は応神天皇の皇子で、阿直岐や王仁から典籍を学び、応神天皇四十年に皇太子へ立てられた。
ところが応神天皇の崩御後、菟道稚郎子と異母兄の大鷦鷯尊は互いに皇位を譲り合った。皇位が空白になることを憂えた菟道稚郎子は自ら命を絶ち、大鷦鷯尊が仁徳天皇として即位したとされる。
一見すると兄弟愛を描いた美談である。
しかし、九州に残る祭祀と『高良玉垂宮神秘書』の系譜を比較すると、この皇位譲渡説話には、本来別系統だった二つの王家を一つにまとめる役割があった可能性が見えてくる。
二つの皇太子伝承
『日本書紀』は、菟道稚郎子を応神天皇が正式に立てた皇太子とする。
また『播磨国風土記』には「宇治天皇の御世」という表現があり、これを菟道稚郎子とする見方もある。そうであれば、菟道稚郎子は単なる皇子ではなく、一時は王または天皇に近い存在として記憶された可能性がある。
ところが『新撰姓氏録』の雀部朝臣条は、異なる伝承を載せている。
同書によれば、星河建彦宿禰は、応神天皇の時代に「時の皇太子」であった大鷦鷯尊に代わり、御膳を管掌したため大雀臣の名を賜ったという。
したがって古代史料には、
- 『日本書紀』――菟道稚郎子が皇太子
‐ 『新撰姓氏録』――大鷦鷯尊が皇太子
という二つの皇太子伝承が存在する。
宇佐八幡では仁徳天皇より別格
九州で最も注目されるのが、宇佐神宮の摂社・春宮神社である。


勅使道から直線で八坂神社 春宮 正殿という配置である。
「春宮」は「東宮」と同じく皇太子を意味する。宇佐神宮では、この春宮神社に菟道稚郎子命を単独で祀っている。
一方、大鷦鷯命、すなわち仁徳天皇は、応神天皇の御子五柱を祀る若宮神社の一柱である。
宇佐神宮における祭祀上の扱いは、
- 菟道稚郎子命――「皇太子」として春宮神社に単独祭祀
- 仁徳天皇――応神天皇の若宮五神の一柱となる。
正式な社格の上下とは別として、菟道稚郎子が仁徳天皇より特別な位置に置かれていることは明らかである。
後世に成立した皇統観に従えば、実際に即位した仁徳天皇を中心に祀る方が自然である。それにもかかわらず宇佐神宮では、即位しなかったとされる菟道稚郎子が「春宮」として単独で祀られている。
宇佐八幡の祭祀は、「菟道稚郎子こそ応神王家の正統な皇位継承者だった」という記憶を保存しているのではないだろうか。
"宇佐市「春宮神社」" (https://www.city.usa.oita.jp/sougo/soshiki/14/toshikeikaku/keikan/matidukuri/usachiku/syuyumap/kami/12752.html)
肥前一宮・千栗八幡宮の宇治皇子
菟道稚郎子の祭祀は、宇佐神宮だけではない。
佐賀県みやき町の肥前一宮・千栗八幡宮には、
- 応神天皇
- 仲哀天皇
- 神功皇后
- 難波皇子
- 宇治皇子
- 住吉明神
- 武内宿禰
が祀られている。

千栗八幡宮は神亀元年(724)の創建と伝えられ、古くから宇佐神宮の別宮とされた。
ここでも宇治皇子は、応神天皇・神功皇后・武内宿禰などと同じ八幡祭祀の中に置かれている。
宇佐神宮だけに残る特殊な祭祀ではなく、宇佐八幡の影響を受けた肥前の有力八幡宮にも「宇治皇子」の記憶が伝えられているのである。
"千栗八幡宮「御祭神・境内社」" (https://chirikuhachiman.sakura.ne.jp/kami/)
糸島と三瀬に残る祭祀
福岡県糸島市末永には宇治神社があり、現在は菟道稚郎子を祭神とする。鳥居の扁額には「若一皇子宮」とある。

ただし、いつから菟道稚郎子が祀られたのかは明らかではない。そのため古代からの連続した祭祀とは断定できないが、糸島に菟道稚郎子を祀る神社が存在することは分布資料として記録できる。
また佐賀市三瀬村杠の乙宮神社では、大雀命と菟道稚郎子が併祀されている。
『三瀬村史』によれば、室町時代の嘉吉二年(1442)、阿波国から来た杠日向守が一門の氏神として祀ったことに始まるという。
こちらも古代からの祭祀を直接証明するものではない。しかし、大鷦鷯尊と菟道稚郎子の皇位継承説話が、脊振山地にも伝えられていた例として見ることができる。
宇佐・肥前・糸島・脊振山地に菟道稚郎子の祭祀が点在することから、この皇子の記憶が京都宇治だけに限られていないことは確かである。
『高良玉垂宮神秘書』の異なる仁徳系譜
筑後の高良大社に伝わる『高良玉垂宮神秘書』には、応神天皇も菟道稚郎子も登場しない。
同書では、仁徳天皇は応神天皇の子ではなく「九躰皇子の子」とされている。また神功皇后は、仁徳天皇の時代に崩御したと記される。
つまり『高良玉垂宮神秘書』は、『日本書紀』の、
«応神天皇→菟道稚郎子・大鷦鷯尊→仁徳天皇即位»という系譜そのものを採用していない。
高良の伝承に応神天皇と菟道稚郎子が登場しないのは、単なる名前の省略ではない可能性がある。
高良側では、仁徳天皇を応神天皇の皇子とする系譜自体が伝えられていなかったのではないだろうか。
応神王家と仁徳王家
宇佐神宮と『高良玉垂宮神秘書』の違いは、応神と仁徳が本来別系統の王家だったと考えれば説明できる。
本来、九州に次の二系統が存在したと仮定する。
宇佐八幡系
«応神天皇→正統な皇位継承者・菟道稚郎子»
高良系
«九躰皇子→仁徳天皇»
宇佐八幡は、応神天皇と、その正統な後継者である菟道稚郎子の王統を伝えた。
これに対して高良は、九躰皇子から仁徳天皇へつながる別の王統を伝えた。
この二つが本来別系統だったとすれば、『日本書紀』に記された不自然な皇位譲渡説話の意味も見えてくる。
『日本書紀』は二つの王家を一つの皇統へまとめるため、仁徳天皇を応神天皇の皇子とし、菟道稚郎子と兄弟関係に置いたのではないだろうか。
さらに、«正統な皇太子である菟道稚郎子が自ら命を絶ち、大鷦鷯尊へ皇位を譲った»という物語を置くことにより、仁徳天皇の即位を正当化した可能性がある。
菟道稚郎子の自死は、単なる兄弟愛の美談ではない。
本来別系統だった応神王家と仁徳王家を一つの皇統へ縫い合わせるために必要とされた、「正統な皇太子による譲位」の物語だったのではないだろうか。
結論
宇佐神宮では、菟道稚郎子が「春宮」として単独で祀られ、仁徳天皇は若宮五神の一柱として祀られている。
肥前一宮・千栗八幡宮にも宇治皇子が祀られ、糸島や三瀬にも関連する祭祀が残る。
一方、『高良玉垂宮神秘書』には応神天皇も菟道稚郎子も登場せず、仁徳天皇は九躰皇子の子とされる。
この二つの異なる伝承を、最初から一つの系譜だったと考える必要はない。
宇佐八幡は「応神―菟道稚郎子」の王統を伝え、高良は「九躰皇子―仁徳天皇」の王統を伝えた。『日本書紀』は、この二王家を父子・兄弟関係に再編集した可能性がある。
現段階では仮説である。
しかし、菟道稚郎子を京都宇治だけの「悲劇の皇子」として扱うよりも、宇佐八幡が伝えた応神王家の正統な皇位継承者として捉え直す方が、九州に残る祭祀と『高良玉垂宮神秘書』の異なる系譜を無理なく説明できる。
菟道稚郎子の物語は、一人の皇子が兄へ皇位を譲っただけの美談ではない。
その背後には、応神王家から仁徳王家へ王権が移った記憶が隠されているのかもしれない。
応神王家と仁徳王家は、最後まで対立した二王家ではなかったと考えられる。
宇佐八幡は応神天皇を王統の中心とし、その正統な皇位継承者として菟道稚郎子を「春宮」に祀っている。しかし仁徳天皇も排除されず、若宮五神の一柱として祭祀体系に組み込まれている。
これは、応神王家の正統な後継者は菟道稚郎子だったが、最終的な王権は仁徳王家へ継承されたという記憶を表しているのではないだろうか。
一方、『高良玉垂宮神秘書』は、応神天皇も菟道稚郎子も記さず、仁徳天皇を九躰皇子の子としている。高良側には、王権を受け継いだ仁徳王家自身の系譜が残されたと考えられる。
『日本書紀』は、この二王家間の王権継承を、同じ父を持つ兄弟間の譲位説話へ再編集した。
本来は、«応神王家から仁徳王家への王権移行»だったものが、«応神天皇の皇子・菟道稚郎子から、同じく皇子である大鷦鷯尊への皇位譲渡»として描き直された可能性がある。
菟道稚郎子の物語は、断絶した王家の悲劇ではない。応神王家の正統性を仁徳王家へ引き渡すために作られた、王権継承の物語だったのではないだろうか。
【追記】本稿公開後、宇佐神宮春宮神社および八幡大神=応神天皇説の成立年代を再検討した。その結果、現在の祭祀配置をそのまま古代王統の記憶と断定することはできず、宇佐の応神王統観自体が八世紀末から九世紀以降に形成された可能性が出てきた。この問題は続編で検討する。
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