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「かもめ」あらすじ解説【アントン・チェーホフ】

ソフトでフワフワとした品の良い作品です。でも中身はドロドロです。おんなカラマーゾフです。

登場人物

本来こういう登場人物です。

ロシア文学最大のガンは人名です。頭に入りません。よって本稿では、

こういう風に呼びます。
舞台は女優の兄の屋敷です。女優の兄は元役人でして、四等官になりました。かなり出世した人です。だから立派な屋敷を持っています。湖のほとりのよい場所です。今は退職して老いを養っています。

同居しているのは管理人一家(管理人、妻、娘)と、女優の息子です。女優の兄は女優の息子の父親代わりのつもりです。女優の息子は母のように成功したいと思いながらまだ名が売れておらず、恋人の「かもめのニーナ」が演ずる演劇を上演して、自分なりに方法を探ろうとしています。

あらすじVer.1

女優の息子がミニ演劇をします。演ずるのは恋人のかもめのニーナ。上手くゆかなくて自殺未遂をします。

2年後、かもめのニーナが訪ねて来ます。彼を捨てて作家の元に走っていました。作家には捨てられたのですが、でも今でも作家が好きだと言います。女優の息子は今度こそ本当に自殺します。
(あらすじVer.1・終)

要するに若者が自殺未遂をして、2年後に自殺をするという話です。

あらすじVer.2

女優の息子がミニ演劇をします。主演女優は恋人のかもめのニーナ。演劇は失敗します。落ち込んだ女優の息子は、かもめを射殺した上で、僕も自殺するとかもめのニーナに宣言します。そして実際自殺未遂します。

あまりにも面倒な男です。うんざりしたかもめのニーナは、女優の愛人の作家に接近します。

かもめのニーナはやがて女優から作家を奪い、子どもを産みますが、その子は死に、作家も女優に奪いかえされます。かもめのニーナは舞台にも立ちますが、舞台俳優としても失敗します。踏んだり蹴ったりです。

2年後、女優と作家が帰って来ると、かもめのニーナが女優の息子の居る部屋のドアを叩きます。久しぶりの再会です。女優の息子は今でもかもめのニーナが好きです。でもかもめのニーナは捨てられたのに、今でも作家が好きだと言います。ニーナは立ち去ります。女優の息子は、今度こそ本当に自殺します。
(あらすじVer.2・終)

若者(女優の息子)は母(女優)が好きでしたが、作家に取られました。かもめのニーナが恋人でしたが、作家に取られました。両方作家に取られています。それは自殺したくなりますね。

ここで女優の名前について説明しておきます。
女優の兄はピョートル・ニコラーエウィッチ・ソーリンという名前です。
しかし女優はイリーナ・ニコラーエヴナ・アルカージナという名前です。
女優は旧姓はイリーナ・ニコラーエヴナ・ソーリナという名前だったのが、「アルカージン」という男性と結婚して苗字を変えたと想像できます。
が、しかし、女優の息子の名前はコンスタンチン・ガヴリーロウィッチ・トレープレフなのです。女優の息子の父はトレープレフなのです。一家の中で苗字が全員違う。

以下の推察が可能です。彼女はアルカージンと結婚し、そのころ女優としてデビューし、それなりに成功した。その後最初の夫アルカージンと生別ないし死別し、トレープレフと再婚した。そして息子を出産した。
物語にトレープレフ父は登場しません。女優は彼とも生別ないし死別している。そして女優は、成功して有名になった時点での苗字アルカージナを、職業上継続して使い続けています。
作中での情報によれば、女優は43歳、女優の息子は25歳です。つまり女優は18歳の時に息子を産んでいます。18歳の時にトレープレフ氏と「再婚」して出産しているのです。昔は今より女性の結婚が早いのですが、それにしても若いころから波乱万丈です。本作の「女優」はそういうキャラです。日本人の我々にはかなり分かりづらいですが。
ともかくキャラ3人の苗字だけで、今に至る背景を十分想像させることに成功しています。非常に力量がありますね。言語効率が極めて高い。言語効率の点からは、宮沢賢治くらいしか匹敵する作家を知りません。

あらすじVer.3

第一幕
女優の息子が親族知人を集めてミニ演劇を上演します。主演は恋人のかもめのニーナ。しかし母親のちゃちゃ入れに激怒して、途中で上演中止します。失敗です。

第二幕
女優の息子は不機嫌になってカモメを撃ち殺し、かもめのニーナに見せ、僕も自殺するつもりだと言い出します。面倒な男です。

かもめのニーナはうんざりして、女優の愛人である作家に接近します。

第三幕
その後実際に女優の息子は自殺未遂します。さらには作家と決闘だとか言い出します。錯乱しています。心配した女優は、とりあえず作家と屋敷を立ち去って危機を回避しようとします。
その裏でかもめのニーナは策動します。作家を略奪しそうになります。
女優は危機を察知し素早く行動、作家をまるめこんで自分の元に戻します。

がしかし、かもめのニーナと作家は別れる前に再会を約束しています。

女優とかもめのニーナの男の取り合いバトル、危険ですね。面と向かってギャーギャー言い合うことはしません。でも中身はカラマーゾフ並みのドロドロです。

第四幕
二年が経過しました。
作家とかもめのニーナはお約束通りひっつき、子どもも産みます。しかしその子は死に、やがて作家は女優に取り返されます。かもめのニーナは自分も俳優になりたくて舞台に立ったのですが、成功していません。今は屋敷近くの宿に滞在しています。屋敷には顔を出していません。
一方で女優の息子は小説家として売れ出しています。ヒゲも伸ばしていますね。

そこに、久しぶりに女優と作家が帰って来ます。女優の兄の具合が悪いからなのですが、舞台が成功したようで女優は上機嫌です。みんなでゲームしたり、食事を取ったりしてます。
ただし女優の息子は加わりません。ひとりぽつねんとしていると、窓を叩く音がします。外にかもめのニーナが居ました。やっと家まで来たのです。

つもる話の後、女優の息子はかもめのニーナに変わらぬ愛を伝えます。でもかもめのニーナは、(隣の部屋に女優と作家が居るのを察知して)、今でも作家を愛していると言い、立ち去ります。女優の息子はしばらく考え事をして、隣の部屋に退出します。

空いた部屋には、夜食が済んだ女優とみんなが入ってきます。ゲームの続きです。管理人は作家にカモメの剥製を見せます。冒頭で舞台に失敗した時、女優の息子が撃ち殺したカモメです。

と、なにかの破裂音がします。女優はまた息子が自殺未遂でもしたのかと怯えます。

医者は薬箱でなにか破裂したんだろうと言い、退出します。
しばらくして帰って来て、エーテルのガラス瓶が破裂しただけだと伝え、みなを安心させます。
しかし、作家にそれとなく座をはずさせて、二人きりになって小声で告げます。

「女優をここから連れ出してください。実は女優の息子がピストル自殺をしたのです」
(あらすじVer.3・終)

一見明解な作品です。女優の息子がかもめのニーナに振られて自殺しただけです。でも細かく見るとわけがわからない部分が多いです。わけのわからなさに惹かれて、読者はこの単純なストーリを、なんだか名作だと感じます。ロシアものはプーシキンもドストエフスキーも、わけのわからない部分が多いのですが、もっとも「わけのわかる」作品を書いたトルストイに、その辺の事情説明してもらいましょう。

「フランス人が自信をいだくのは、自分は単に知力のみならず肉体の点においても、男や女にとって絶対の魅力をもつ、と考えているからである。
イギリス人の自信が強いのは、自分こそ世界中でもっとも完全に組織された国家の公民である、それゆえ自分はイギリス人として、常に何をなすべきかを承知しているし、またイギリス人として自分のすることは、ことごとく非の打ちどころがないと自惚れているからである。
イタリア人の自信が強いのは、非常に興奮しやすくて、すぐに我を忘れ人を忘れるからである。
ロシア人の自信は、俺は何も知らない、また知りたくもない、つまり何か物を知りうるなどということを信じないからだ—— とこういう気持ちから発している。
ドイツ人の自信はそのなかでもっとも悪性で、もっとも頑固で、かつもっともいまわしいものである。なぜなら、彼らは自分こそ真理すなわち科学を知るものと自惚れているからである。 彼らは自分で考え出したその科学を、絶対の真理と思いこんでいるのである。(トルストイ「戦争と平和」第三部第一編第十節より)」

どうもロシア人は、「わけのわからない状態中毒」とでも言うべき状態にあるようです。曖昧模糊とした部分がどうしても必要な国民性のようです。

ちなみにこの作品の構成は

こうなります。一応反復構成です。でも少し変わっています。なにせ第三幕と第四幕の間に2年間が経過しています。第二幕と第三幕の間ならわかるのですが。構成まで曖昧模糊としているのです。
重要案件である女優の息子の自殺未遂も、2年間のかもめのニーナと女優の死闘も、そして最後の自殺も、読者(観客)は目にすることが出来ません。語られる内容から想像するだけです。
「かもめ」はいわば、ほとんどが余白の絵画です。読者(観客)は自力で余白の内容を想像しなければならないのですが、想像をたくましゅうすればするほど、思い浮かぶのは悲惨な、凄惨な、救いの無いドス黒い光景です。

あらすじVer.4

第一幕

最初に管理人の娘が出てきます。喪服を着ています。本人曰く、これは自分の葬式なのだと。彼女は実は女優の息子が好きで、恋しています。でも彼はかもめのニーナと恋仲です。報われない恋です。だから自分に葬式を出しているのだと。彼女に惚れている教師がさかんに言い寄って来るのですが、彼女はつれなく袖にします。

そうこうしているとかもめのニーナが来ます。彼女は父と後妻に外出を反対されているのですが、かもめのようにこの湖にひきつけられています。今日は演劇の為に親の眼を盗んで脱出してきました。

女優の息子が演劇を上演します。出演は恋人のかもめのニーナのみ。お客は家族と親しい知人のみ。彼なりの実験、挑戦です。しかし母親の女優が不機嫌です。自分が主演女優ではないからです。エゴイスティックな母親です。上演前はハムレットの一節を息子と言い合って丁々発止です。その上上演中もちゃちゃを入れます。女優の息子は怒って上演中止します。失敗です。

もっとも医者は内容を評価してくれます。続けなきゃいかんと伝えると、女優の息子は感激して抱き着いてきます。しかし恋人のかもめのニーナを探してどこかに行きます。その彼を今度は管理人の娘が探しています。彼女は医者に相談します。自分は実は女優の息子が好きだと。医者はみなが神経を高ぶらせていることを嘆きます。でも彼女になにもしてあげません。

第二幕

邸宅のクリケットのコートです。女優が医者、管理人娘とベンチに腰掛けて、本を輪読しています。モーパッサンの「水の上」という旅行記です。
「したがって、言うまでもなく、社交界の婦人にとって、小説家をひいきにして身近に近づけたりするのは、ちょうど粉屋が納屋で鼠を飼うのと同じように危険なことにほかならない。にもかかわらず、小説家はもてはやされる。だから、女性は心をとらえたいと思う作家に白羽の矢をたてると、お世辞だの、お愛想だの、お追従だのによって攻め立てるのである」
そう、まるで女優と作家の関係です。その後の文章は女優は目を通したのですが、読み上げません。不都合なことが書いてあるからです。

女優は今日は町に行こうと思い、馬を出すことを希望します。ところが管理人がえらく頑固な退役軍人で、怒り狂って拒絶します。馬は今農作業に使っているというのです。仕方なく街に行くのは諦めます。どっちが主人かわかりません。

管理人の妻は、そんな粗暴な亭主にうんざりしています。医者に自分を引き取ってくれと頼みます。医者は断りますが、管理人の妻と管理人の娘の医者に対する態度は何だか変です。結論先に言うと、管理人の妻は高い確率で医者と不倫をしました。その結果生まれた子が管理人娘です。だから管理人娘は医者に人生相談をします。なんか親しみを感じているようです。

そうこうしていると女優の息子が、射殺したカモメの死体を持ってきて、かもめのニーナの前に置きます。

「僕は今日このカモメを殺すような卑劣な真似をしたんです。あなたの足元に捧げます」
意味不明です。
「もうじき僕はこんなふうに自分自身を殺すんです」
彼は演劇の失敗以来すっかり精神病んでいます。当然かもめのニーナは引きます。そこへ作家がやってきて、女優の息子は退場します。かもめのニーナは作家と楽しくお話します。
かもめのニーナは作家の生活、というか(異常なまでに名声欲が強いので)有名人の生活にあこがれていますが、作家は、私はただ時間に追われているだけだと言います。かもめのニーナはそれは違うと言います。

「もしわたしが先生みたいな作家だとしたら、自分の全生活を民衆に捧げるでしょうけど、でも、民衆の幸せはわたしのレベルまで向上することにしかないんだと自覚するでしょうね。そうすれば民衆だってわたしを、山車に乗せて運んでくれますわ、きっと」
山車に乗せるとは、要はパレード車で凱旋できる、英雄になるということです。民衆の上に立って指導し、その指導のすばらしさゆえに英雄として賞賛されたいという、ベタであからさまな出世欲です。作家は答えます。
「ほ、山車にのせてね・・アガメムノンてわけですか、このわたしが」

アガメムノンはトロイの都を陥落させたギリシャの英雄です。ですが居城のミケーネに凱旋してくると、妻と間男に暗殺されます。作家はアガメムノンのようになりたくない、英雄でありたくないと言っています。
第一幕で「ハムレット」の引用を女優と女優の息子がしますが、ハムレットもアガメムノンも、妻と間男が王を暗殺する物語です。

その後作家は女優の息子が殺したカモメを見ます。メモを取ります。短編の主題を思いついたからです。
「湖のほとりに娘さんが住んでいる。カモメのように湖が好きで、カモメのように幸福で自由なんです。ところがたまたま一人の男がやってきて、その娘を見そめて、退屈しのぎに破滅させてしまうんですよ。ちょうどこのカモメのようにね」
作家はこれから自分がやることを、自分自身で先取りしているのです。

第三幕

第三幕の前に、女優の息子がピストルで自殺未遂をしたという設定です。
女優の息子に惚れていた管理人の娘は、ショックのあまり決断します。こんな苦しい心配するくらいなら、この恋を胸から引っこ抜いてやる。あまり好きでない教師と結婚する決断をします。

自殺しきれなかった女優の息子は、今度は作家と決闘だと息巻いています。危機を感じた女優は、作家と一緒に家を離れる決断をします。

女優の息子は母に頭の包帯替えをお願いします。母はターバンみたいとか言いながらも、器用に包帯替えをします。息子はなぜか昔の母の善行の話をします。
殴られた洗濯女のところに通って、薬を届けたり、子どもを洗ったり。でも母は覚えていません。
バレリーナが二人、よくコーヒーを飲みに来ていました。母もそれは覚えています。信心深い人達でした。
昔はこの社会にも、信仰と良心がありました。女優と息子には薄くその残滓が残っています。

一方かもめのニーナは出世主義者です。信仰も良心もへったくれもありません。略奪愛にひたすらテンション上がって、作家に贈り物をします。ロケットです。

ロケットには本の名前とページ、行が書かれています。作家は当然本を探して開いてみます。そこには「もしもいつか、私の命が必要になったら、いらして、取ってください」と書かれています。上手い組み立てです。実は演技より脚本に適性があるのではないか。作家は一発でノックダウンされます。かもめのニーナに惚れます。

しかし女優も百戦錬磨です。危機をリアルタイムで察知、女優業の経験と実力を発揮して、演技の限りを尽くして作家の心を修復します。剛腕です。

しかしかもめのニーナもものすごい執着力です。女優と作家は家を立ち去るのですが、去り際に彼女と作家は再会の約束をします。モスクワのホテル名まで決めておきます。まさに死闘です。

第四幕

2年が経過しました。舞台は相変わらず屋敷です。

管理人娘は教師と結婚しています。子供も居ます。家に置いてきています。だから教師は家に帰りたがります。でも管理人娘は帰ろうとしません。自分の子どもなのに放置です。ひどい母親です。なぜ帰らないか、それはここには女優の息子が居て、彼女は今でも彼が好きだからです。だいたい管理人妻と医者の不義密通の子が管理人娘です。管理人娘の子も不義密通の子の可能性、高めの確立であります。でも教師は律儀に子どもの心配しています。哀れです。

女優の息子は作家としてデビューしています。原稿料も稼げるようになっています。
女優の兄の体は元々悪かったのですが、もはや死期が見えてくるまでになりました。

医者が女優の息子にその後のかもめのニーナの消息を聴きます。
女優の息子は彼女が結局作家と付き合い、子どもを生んだが、子どもは死に、女優に作家を再奪還されたことを語ります。また舞台に立ったのだが結果は私生活以上に失敗でした。彼女を追っかけて演技を見ていた女優の息子によれば、
「いつも大きな役にとびつくんだけど、演技は雑で味がないし、やたらに吠えたてるばかりで、しぐさもぎくしゃくしていましてね。時には才能豊かな泣き方をしたり、みごとな死に方を演じたりする瞬間もあるんですけど、それもその瞬間だけのことでね」

そして彼女は女優の息子とは決して会おうとせず、ただし家に帰って来てから手紙をくれます。手紙にはプーシキンの「ルサールカ」の水車小屋の親父が俺はからすだというのと同じく、どの手紙でもわたしはかもめだと繰り返していたそうです。

ここで解説しますと、プーシキンの「ルサールカ」は適当な日本語訳見つけられていないのですが(青磁社・本邦初訳 プーシキン詩集に掲載の「ルサールカ」とは別の詩です)、ネット上のロシア語文献
を自動翻訳した限りでは、以下の内容になります。

公爵が水車守の娘と関係を持ちます。でも捨てられそうになります。やがて来た公爵は別の女と結婚すると告げます。娘が妊娠していることを告げると、公爵は髪飾り、ネックレス、金の袋を私、子どもの面倒は見ると約束して帰ります。
娘は絶望して復讐を誓い、金袋を父に私、ネックレスを引きちぎり、髪飾りをドニエプルに投げ捨て、身を投げます。
やがて公爵の結婚式になります。どこからか不思議な歌声が聞こえてきます。水車守の娘の声です。気になって水車小屋までゆきます。水車守が居ますが、娘が飛び込んだ時自分はカラスになったのだ、と主張します。狂っています。
「何を言うんだ、私は水車守なんかじゃない。私はカラスだ、水車守ではない。不思議なことがあったんだ。(覚えているか?)彼女が川に身を投げた時、私も後を追って駆け出し、あの崖から飛び込もうとしたんだ。すると突然、両脇の下から二つの強い翼が生えてきて、空中で私を支えたんだ。それ以来、あちこち飛び回り、時には死んだ牛をつついたり、時には墓場に座ってガーガー鳴いたりしている。」
やがてルサールカ(オンディーヌ、つまり水の精のことです)になった水車守の娘が始動します。これから公爵への復讐劇です、、、

というところで未完で終わります。かもめのニーナは死んだ子どもについて作家を恨んでいる、という暗示になっています。

話戻して、女優と作家が家に帰って来ます。

気に食わないとすぐキレる管理人も、今回ばかりは女優を阿諛追従で迎えます。女優の兄が死にそうなので当然です。もし兄が死ねば遺産、つまり家屋敷は女優のものになります。女優が遺産を売り払うと言えば、管理人は失職です。ご機嫌取っておく必要あります。

もっとも女優は舞台が成功したようで上機嫌です。兄の体調なんぞ知ったこっちゃありません。みんなでロトをして遊びます。凄く楽しそうです。しかし女優の息子は加わりません。彼以外が夜食に向かうと、一人で部屋に残って、作家の作品と自分の作品を比較して謙虚に反省したりします。

そこへ外から窓を叩く音がします。女優の息子は一度外に出て、かもめのニーナを連れて戻ってきます。かもめのニーナは泣きながら、お母様がいらしているのは知っている、ドアにカギをかけてくれと言います。カギが無いドアなので、椅子で塞ぎます。バリケードです。かもめのニーナは明日からドサ廻りです。女優の息子はここに残ってくれと言いますが、彼女は馬車を待たせてあると言って出てゆく身支度をします。
隣の部屋から女優と作家の声が聞こえてきます。かもめのニーナは言います。

「彼も来ているのね~(中略)~あたしはちっぽけな、取柄のない女になってしまって、演技もまったくナンセンスだったわ。手の使い方もわからないし、舞台に立っていることもできない始末で、声も思うようにだせなかった」
でも全然めげていません。
「あたしたちの仕事で大切なのは、~(中略)~じっと耐えてゆく能力なんだわ。おのれの十字架を背負ってゆくすべを知り、信ぜよ、なんだわ」

そして2年前自分が演じた、彼の演劇のセリフを言います。まだ覚えているのです。
「人間も、ライオンも、鷲もしゃこも、角を生やした鹿も、鵞鳥も、蜘蛛も、水に住んでいた物言わぬ魚も、ヒトデも、そして肉眼では見ることのできなかったものも──一口に言って、すべての生き物、あらゆる生物が悲しいワンサイクルを終えて、消えてしまった……すでに何千世紀もの間、地球はただ一つの生き物をも乗せていないし、あの哀れな月もむなしく明りをともしている。もはや河原で鶴が一声鳴いて目ざめることもなく、菩提樹の茂みにコガネ虫の羽音がきこえることもない」
言い終わった彼女は発作的に女優の息子を抱き、戸から走り出ます。
残された女優の息子は
「だれかが庭で出会って、あとで母さんに話したりすると、まずいな。母さんを悲しませることになりかねないからな……」
と言い、しばらく後、右手に退場します。

一方女優たちはビールとワインを持って部屋に戻ってきます。夜食が済んでロト勝負の続きです。管理人は作家にカモメの剥製を見せます。作家が作ってくれと注文したらしいです。でも作家はそんな注文した覚えがありません。管理人の勘違いかもしれません。単に作家が忘却しているだけかもしれません。とにかくカモメの剥製があります。

すると、右手で銃声が聞こえます。先ほど女優の息子が退場した先です。女優は当然おびえます。又息子が自殺しようとしたのでは。医者は冷静に「薬箱の中で何かはれつしたんでしょう」と言って様子を見に行き、戻って来て「やっぱりエーテルのガラス瓶が破裂しただけです」と皆を安心させます。

その後の医者のセリフが、本作の締めくくりになります。本文掲載します。

「(雑誌のページを繰りながら、作家に)二カ月ほど前、ここにある論文が乗りましてね……アメリカからの書簡なんですが、あなたにおたずねしたかったのは、その中で……(作家の腰をかかえて、フット・ライトの方へ連れだす)……わたしもその問題にとても関心をいだいているもんですからね……

(口調をおとして、小声で)女優を、ここからどこかへ連れだしてください。実は、女優の息子がピストル自殺をしたんです……(幕)
(あらすじVer.4・終)

殺人事件?

現代ロシアの作家アクーニンが、「かもめ」の続きを書いているようです。そこでは、これは自殺ではなく、「かもめのニーナ」「教師」「管理人の娘」「管理人夫妻」「女優の兄」「女優」「作家」「医者」それぞれに女優の息子殺害の嫌疑がかけられる、という話です。私は読んでいませんが(邦訳もない)。
がしかし、最後に女優の息子を殺すのは、「かもめのニーナ」と「教師」以外の人ではちょっと無理です。みんなは部屋でお酒の準備してゲームをしようとしていますし、「女優の兄」はそもそも歩行もままならず、引き金を引く体力も残されていません。

「教師」は女優の息子殺害の動機があります。妻が彼と浮気しているからです。子どもも下手をすれば女優の息子の種です。さらに妻は子供をほったらかしてできるだけ女優の息子の近くに居ようとしています。そしてラストシーンの前に屋敷を立ち去っています。こっそり帰って来て一人になっている女優の息子を殺害するのは可能です。

それ以上に疑わしいのはかもめのニーナです。彼女は作家の「間女」をして、しかし女優に再奪還されました。作中の「ハムレット」も「アガメムノン」も、要は間男が王を殺すストーリーです。

かもめのニーナは女優を殺したいと思っています。実は女優を廃人化するのは簡単です。女優の息子が死ねば良いのです。流石に立ち直れません。女優の息子と会話して、一旦外に出たかもめのニーナは、再度戻って来て女優の息子を射殺することが、十分可能です。

彼女は手紙では「あたしはカモメ」と言っていたのに、女優の息子と会話しているときは「カモメ、いえ女優よ」と言います。では女優の息子と別れて外に出た時点ではどうなっているか。カモメに戻っているはずです。水車守がカラスだと主張したように。水車守の娘は水の精になって復讐をします。かもめのニーナが復讐をしないとは考えづらい。女優の息子を殺せば女優は廃人になる。作家は女優に引き立てられて知名度を上げた部分が多いですから(前述「水の上」、女優が読まなかった続きの部分には、そういう内容が書かれています)、女優が潰れれば作家も潰れる。復讐完了です。

そもそもかもめのニーナは、実父と義母に嫌われて、実家に入り込まないように見張りを立てられています。たかが若い女性一人に、不必要なほどに警戒されています。実父と義母の性根が腐っている、とも言えます。しかし実父と義母がそこまで恐れるほど、かもめのニーナは恐ろしい女だとも言えるのです。元来常軌を逸した名誉欲、出世欲の持ち主です。その人が失敗して地面に這いつくばって生活しています。どんな悪だくみするかわかったものではありません。実際、見張りを立てていなければ実父と義母は邸宅内に絶対侵入されます。現に女優の兄宅に無断侵入できていますから。

その恐い女が、5日前から近くの旅館に泊まっています。なぜか女優の兄の屋敷には立ち寄りません。実は教師が第四幕の前日、野原で彼女に出会いました。彼女はそのうちお伺いしますと答えています。そして女優と作家が帰ってきたら、すぐに屋敷敷地内に侵入してきます。なぜか女優が帰って来るタイミングを知っているのです。
もしも昔の恋人である女優の息子に再会することが帰省の目的なら、とっとと来れば良いだけです。彼はそこに居るのですから。しかし女優と作家の帰宅に合わせて侵入してくる。つまり彼女のそもそもの帰省の目的は女優の息子に会う事ではなく、女優と作家を潰す事です。

さらに言えば、彼女と教師が組んで女優の息子を殺った可能性も否定出来ません。彼女は昔付き合っていたのだから殺しにくい。でも教師なら妻の浮気相手(の可能性が高い)ですから心理的抵抗は低い。しかもかもめのニーナと教師は前日に野原で邂逅しています。その時打ち合わせをしたかもしれません。

管理人の無駄話

管理人は頑固な退役中尉です。シャムラーエフという名前です。シャムというのはチュルク系という含みがあるそうです。物凄い芝居好きで、女優にしょっちゅう芝居の話をけしかけます。

第一幕では「シルワ」の話をします。
「今でもおぼえていますが、いつぞやモスクワのオペラ劇場で、有名な歌手のシルワ(イタリアの歌手)がとても低いドの音をだしたことがあったんです。ところが、ちょうどその時、まるでわざと仕組んだみたいに、宗務院の聖歌隊のバス歌手が天井桟敷に来ていたんですね。で、突然、いやもうおどろいたのなんのって、天井桟敷から「ブラーヴォ、シルワ!」という声がきこえましてね、それがまる一オクターブ低いんですよ……こんなふうにね。(低いバスで)ブラーヴォ、シルワ……劇場がそれこそしーんとなっちまったものでした」
これはつまり、高名なプロより無名なセミプロのほうが力量があったりする、という話です。実は直前に女優とかもめのニーナが会話をしています。女優はお世辞を言われて笑っています。それに続いてこの話です。つまりシルワは女優、聖歌隊のバス歌手はかもめのニーナです。

また第三幕、女優一行が出立の直前、
「一度この二人(スズダリツェフとイズマイロフという役者)があるメロドラマで革命運動家に扮したことがありましてね。ところが、突然ガサ入れされる場面で、「ワナにかかったか」と言うべきところを、イズマイロフの大将、「ナワにかかったか」とやってのけましてな……〔哄笑する〕ナワにかかった、ですと」
この直前のシーンでは、かもめのニーナに作家の心を奪われた女優が、必死の演技でとりあえず心を取り返します。つまり、ワナにかかったのは作家です。ついでに女優もワナにかかっています。かけたのはかもめのニーナです。細かい会話をピックアップしてゆくと、次第にかもめのニーナの本性が露わになってきます。

それでも残る自殺の可能性

いくらかもめのニーナが恐い女だからと言って、それで他殺が確定する、というわけではありません。証拠はなにも無い。女優の息子が本当に自殺した可能性も、捨てきれません。
それでも自殺に疑いが持たれるのは、死ぬ直前のセリフが、自殺する人間のセリフではないからです。
かもめのニーナが、作品冒頭で演じた劇のセリフ(つまり女優の息子が書いたセリフ)を再現して、発作的に女優の息子を抱いて、外に走り出ます。

(かもめのニーナ、発作的にトレープレフを抱き、ガラス戸から走りでる)
「女優の息子」(間をおいて)だれかが庭で出会って、あとで母さんに話したりすると、まずいな。母さんを悲しませることになりかねないからな……」
(二分ほどの間、自分の原稿を無言で全部破ってはデスクの下に放り棄てつづけ、そのあと右手のドアの鍵をあけて退場)

その後彼は右手の部屋で死ぬのですが、直前でかもめのニーナから依然として作家を愛しているという宣言を聞いても、女優の息子が今現在心配しているのは自分の事ではない、母のことなのです。ここらへんは流石に小説家としてデビューしているだけのことはあって、洞察力が高い。かもめのニーナが邸宅まわりをうろつくことによって起こりうるハムレット=アガメムノン系のヤバい事件を、彼は予測しています。

彼はケンカをしても母が好きです。第三幕では包帯を替えてもらいながら、昔母がした善行を思い出します。もちろんニーナのことは依然として好きです。でも無論、母との殺し合いを望んではいません。
2年前は作家と決闘だと息まいていましたが、今は作家とも自然に会話し、作家の文章と自分の文章を比較して、自分にないものを反省できるまで精神が成長しています。彼の成長、「反省できるという成長」はわかりにくく普通に読むと見逃してしまうのですが、確実にそうです。
かもめのニーナの這いつくばってでも演劇をしてゆく、という言葉を聞いた時も、女優の息子は反省の言葉をもらします。

(かもめのニーナ)「あたしたちの仕事で大切なのは名声でもなければ、華やかさでもないし、かつてあたしが夢みていたようなものでもなくて、じっと堪えてゆく能力なんだわ。おのれの十字架を背負ってゆくすべを知り、信ぜよ、なんだわ。あたしは信じているから、そんなに辛くないし、自分の使命を思うと、人生もこわくないわ」
(女優の息子) 「(悲しそうに)あなたは自分の道を見いだして、自分の進んで行く先を知っているのに、僕は相変わらず幻想とイメージのカオスの中をさまよいながら、そんなことがだれにとって何のために必要なのかも、わからずにいる始末なんだ。僕は信じていないし、何が自分の使命かもわからないんです」
かもめのニーナは一見タフで立派に見えます。女優の息子は気弱でダメ人間のように見えます。しかしかもめのニーナが恐い女だと認識すると、その印象は変化します。ただの出世主義者、自分の出世欲を覆い隠すための単純啓蒙主義者の発言です。
対して女優の息子はより深いことを考え、実はかもめのニーナの単純さを、薄くですが批判しています。事態はそんなに明瞭になるはずがないのです。

「ロシア人の自信は、俺は何も知らない、また知りたくもない、つまり何か物を知りうるなどということを信じないからだ—— とこういう気持ちから発している。」

結論としては事件の真相は不明瞭です。もしも確実に自殺ならば、「だれかが庭で出会って、あとで母さんに話したりすると、まずいな。母さんを悲しませることになりかねないからな」というセリフはありえません。もしも確実に他殺ならば、かもめのニーナや教師の行動にもう少し証拠を残します。作者はここを、あえて不明瞭に書いています。

因果律

そんな曖昧模糊の作品でも、いや曖昧模糊だからこそ、全体にスジは通そうとしています。第二幕で女優の息子は、カモメを撃ち殺します。そして自分も銃で撃ちますします。その時は未遂に終わったのですが、最終的に銃で自殺、あるいは「かもめのニーナか教師に撃ち殺され」ます。因果はめぐる、です。

同じく第二幕で作家は「カモメのような少女が男性に誘惑されて破滅する」話を思いつき、実際かもめのニーナを半分破滅させるのですが、最終的に作家も没落します。なぜならば彼の名声は、モーパッサン「水の上」の続き、読まれなかった部分に書かれてある通り、女優の絶大な引き立てによるものだからです。息子の死により女優は活動を停止します。作家も終りです。

ではかもめのニーナはどうなるのでしょう。どうなるもこうなるも、既に剥製になっています。鳥なのに飛べません。鳴けません。そのことはかもめのニーナ自身が自覚しています。

「あたしはちっぽけな、取柄のない女になってしまって、演技もまったくナンセンスだったわ……手の使い方もわからないし、舞台に立っていることもできない始末で、声も思うようにだせなかった。ひどい演技だと自分で感じる、そんな心境、あなたにはわからないわね。あたしはかもめよ。ううん、違う……」
剥製だから、翼を使えないから、手を使えないのです。また作家の息子の証言に、

「彼女はいつも大きな役にとびつくんだけれど、演技は雑で味がないし、やたらに吠えたてるばかりで、しぐさもぎくしゃくしてましてね」
剥製だから、鳴けないから、セリフが的確に言えないのです。

「わたしはカモメ、違う、女優よ」と繰り返すかもめのニーナですが、彼女が俳優として成功する可能性は、今や全くありません。それが自殺にせよ他殺にせよ、女優の息子が死んだ以上、もう逃れられないのです。永遠にカモメ、それも剥製のカモメです。手も使えない、上手に鳴くこともできないのです。ロケットひとつで作家の心を射止める構想力、女優の帰宅に合わせて邸宅に入り込む洞察力と行動力を持ちながら、舞台の上で輝くことはありません。

鳥はキリスト教文化圏では、「精霊」の含みを持ちます。父と子と精霊の三位一体教義です。「精霊」は「言葉」と理解してもらえばだいたい大丈夫です。

第一幕、女優の息子の脚本の舞台があります。かもめのニーナは十分な感情のこもった演技をします。その時はまだ、精霊、すなわちインスピレーションに満ちた言葉が彼女にあったのです。でも彼女はハムレットのクローディアス(間男)、アガメムノンのアイギストス(間男)をした挙句、最後は女優の息子を殺して、剥製のかもめのニーナになります。言葉が剥製になったのです。

もちろん前述のごとく自殺の可能性もあります。でもよく考えれば自殺にせよ直接の原因はかもめのニーナです。あらすじVer.1に戻って考えて下さい。再会した時、わざわざ彼の前で作家が今でも好きだと言わなければ、女優の息子のダメージは半分になっていました。逆に言えば彼にダメージを与えるためにあえて意図的にそんな発言をしている。鬼です。だから別れ際に、第一幕の演劇の冒頭を朗誦するのです。

「人間も、ライオンも、鷲もしゃこも、角を生やした鹿も、鵞鳥も、蜘蛛も、水に住んでいた物言わぬ魚も、ヒトデも、そして肉眼では見ることのできなかったものも、一口に言って、すべての生き物、あらゆる生物が悲しいワンサイクルを終えて、消えてしまった……すでに何千世紀もの間、地球はただ一つの生き物をも乗せていないし、あの哀れな月もむなしく明りをともしている。もはや河原で鶴が一声鳴いて目ざめることもなく、菩提樹の茂みにコガネ虫の羽音がきこえることもない」
そう言って彼女は発作的に彼の体を抱きしめ、外に出ます。

第一幕では、セリフに続きがあります。
「生き物たちの身体は灰となって消え、永遠の物質がそれらを石や、水や、雲に変えて、それらすべての魂が一つに解け合った。世界全体の共通の一つの魂──それがわたしだ……このわたしだ……わたしの中には、アレクサンダー大王の魂も、シーザーの魂も、シェイクスピアのも、ナポレオンのも、最後の一匹の蛭の魂も入っている。私の中で人間の意識と動物の本能とが解け合っているので、わたしはすべてを、何もかも全部おぼえているし、自分自身の内部で一つ一つの生命を新しく生き直しているのだ」

なんだかSF的な設定ですね。この設定では、地球の最終局面では全ての生命の魂は一つになります。かもめのニーナが最後に「人間も、ライオンも、鷲もしゃこも、うんぬん」と言ったのは、言い換えれば、
「あなたは、これから個人としては死ぬ。しかし遠い将来我々の魂はどのみち一つになる。安心して死ね」という意味だと解釈することも出来るのです。

グノーシス主義?

第一幕の舞台には次のようなセリフもあります。
「腐った沼が夜明け前に生み出すお前たち鬼火は、暁方までさまよいつづけているけれど、思考も、意志も、生命のおののきも持たない。お前たちの中に生命の入るこむのを恐れて、永遠の物質の父である悪魔は、意志や水と同じようにお前たちにもたえず原子の交換を行っているので、お前たちはたえまなく変化しつづけている」

この「永遠の物質の父である悪魔」というのが、本作最大の工夫であり、本作最大の難所です。このセリフの直後に女優が揶揄する発言をします。「(帽子を脱いだ医者の反応を見て)ドクトルは永遠の物質の父なる悪魔に敵意を表して、脱帽なさったのよ」
それを聞いた女優の息子がかっとなって、芝居を中止します。わざわざ女優に反復させて印象を強化させていますので、ここは極めて重要なフレーズです。

物質世界は悪魔によってつくられたという考え方、これははっきりグノーシス主義なのです。初期キリスト教の中の異端です。活動している本人たちはこれが正統だと思っていましたが、多勢に無勢で負けたので異端扱いされて弾圧された。その後キリスト教世界で異端的な考え方をする集団が出現したときは、定型フレーズのように「グノーシス・マニ」であるとレッテル貼りされて、信者全員皆殺しにされました。マニというのはマニ教のことですが説明省略します。

グノーシスの特徴は善悪二元論です。物質世界はデミルウゴスという偽りの神が作った。しかしそれは悪であり、デミルウゴスより上位にある本来の神を知恵(グノーシス)により認識することにより、人間は物質的堕落から脱却できるという思想です。つまり、普段キリスト教徒が祈っている「父なる神」はニセモノであると。そんなもんに祈っても仕方がないのだと。
そういう内容を演劇にするのですから、女優の息子は、本人が自覚しているだけあってなかなか才能はあります。家族知人だけの観客になったのも当然です。危険思想なのです。

(実は第三幕で、女優の息子が自殺未遂して包帯を母(女優)に替えてもらう時、母は「(インド人の)ターバンみたい」と言います。このあたり非常にやっかいな話でして、グノーシス主義とインド思想は似た部分がありまして、私も「本来の神」とブラフマンは近いなと思うのですが、作者チェーホフのグノーシス主義、インド思想への知識がどの程度あったか全く不明なのです。インド思想の知識があったとしたらそれは親交のあったトルストイ経由だ、とAIは言っています。他方グノーシスについても当時でも断片的には知識を得ることができたようです。しかし全容はまったくわかりません。わかりませんが、下手に掘り下げると正真正銘の泥沼ですので、本稿では内容を限定して、女優の息子はグノーシス的異端思考の演劇をした、というだけに留めます)

本作では信仰に関する文言は二か所しかありません。一つは前述の、女優の部屋に昔遊びに来ていたバレリーナ二人が信仰深いひとたちだったという女優の息子の証言です。今一つは死にかかっている女優の兄に対する医者の冷たい説明です。
「死の恐怖というのは、動物的な恐怖でしてね、克服しなけりゃいけないんです。意図的に死を恐れるのは、永遠の生命を信ずる人間だけです。そういう人は自分の罪深さがこわくなりますからね。
ところがあなたは、第一、信仰を持っていないし、第二に、あなたにどんな罪深いことがあるというんです?」

登場人物たちは、過去には信心深い人に接触したことがあるにせよ、今現在は正統的キリスト教の信仰を失っているのです。
女優の兄が一番大事に思っているのは女優の息子です。でも彼も異端的演劇を上演する。そして女優の兄は、彼の父替わりのつもりですが、実際はオジです。そして最終幕では病状が悪化して気弱になり、できるだけ彼の近くに居ようとしています。父として子を守る役割を放棄したのです。

父の不在の物語

ようやく本作の主題に辿り着きました。戯曲「かもめ」は、父の不在の物語です。登場人物たちが作る家族の一覧を見てみましょう。

管理人は父ということになっていますが、妻から嫌われています。そして娘はおそらく不倫の子、父は医者の可能性が高いです。しかし医者は管理人の娘に人生相談受けても、私になにが出来る?と受け流します。情がありません。
かもめのニーナの父ははっきり娘を敵視しています。どっちが悪いのかはわかりませんが、父に情がないのは事実です。
作家はかもめのニーナの子どもの父になりますが、子どもは死亡していますから、どの程度面倒見たかは想像つきます。
管理人娘の子は、名目上は教師の子ですが、女優の息子の種である可能性が高い。無論女優の息子は、管理人娘の子に無頓着です。

赤の部分のみ、子を愛する父です。でも女優の兄は父替わりでも父ではなく伯父です。教師は父かどうか怪しい。つまり本作では、まともな父が居ないのです。ソフトに、間接的に描かれているのでそう見えませんが、実態はカラマーゾフ家が何組も存在するだけなのです。
このようにキャラクター配置戦略によって何かを語る、という物語手法は、ドストエフスキーがまさに「カラマーゾフの兄弟」で完成させたものです。本作は内容的にも形式的にもカラマーゾフの後継作品です。

夏目漱石「明暗」は、「カラマーゾフの兄弟」のキャラ配置戦略を理解し書かれた作品です。発見した時大変驚きました。

しかし「かもめ」は(発表はより先ですが、同じロシアものだけあって)内容的にも技術的にもより深く、正確に理解した上で後継しています。カラマーゾフの兄弟は1880年。かもめは1896年。16年後です。

父と子と精霊の滅び


父が居ない以上、子は悲惨です。女優の息子はそもそも父が居ません。トレープレフ氏と生別なのか死別なのか判然としませんが、第一幕舞台上演前に母がハムレットの悪女のセリフを言った、ということは女優によるトレープレフ氏暗殺の可能性すらあります。女優が演劇にちゃちゃを入れて完結を阻止したのは、ハムレットのごとく演劇で自分の悪事を公開されることを恐れた可能性すらあるのです。そして最終的に女優の息子は死にます。

管理人は娘と意思疎通をしようとしません。管理人娘は実父である医者からもほったらかしにされて、喪服を着ています。かもめのニーナは金もなく地面を這いずり回る生活、彼女の子は死に、管理人娘の子は母に育児放棄されています。幸福な子は一人も居ません。

父が不在、子は悲惨、では精霊はどうでしょう。精霊=言葉=鳥=カモメは剥製になっています。信仰がなくなった以上、言葉もなくなる。演劇は言葉でされるものですが、いわばこれは演劇自身の滅びの歌としての演劇です。

女優は昔、信仰深いバレリーナにコーヒーを飲ませていました。善行です。ロシアのバレエとは

こういうものです。鳥そのものです。だから女優は成功したのでしょう。しかしこれもやがてなくなるだろうと。

内乱の予感

その後のかもめのニーナはどうなるのでしょうか。彼女が親しくするのは間違いなく教師です。彼女と同じように困窮しているのは、そして困窮から脱出しようとしているのは教師だけだからです。そして教師は第一幕のグノーシス的演劇を見た後、感想をもらしています。

「霊魂と物質を区別する根拠なんて、だれも持っていませんよ。だって、ことによると、霊魂そのものが物質の原子の総合体かもしれませんからね」

女優の息子は異端的であってもまだしも宗教的であるのに対して、教師ははっきり唯物論なのです。彼が普段話すのは生活、収入への不満だけです。
彼がかもめのニーナと組んで女優の息子を殺したのかどうか、はっきりは分かりません。可能性があるだけです。しかしこの二人は劇中で例外的に「歩く」人間です。良し悪しは別にして、彼らは確実に自分達の道を歩き続けます。這いつくばってでも生きる覚悟があるのです。

彼ら二人に協力するとすれば、それは管理人です。管理人の妻はおそらく医者の元に走ります。娘は女優の息子が居なくなった以上、この家に来る理由がなくなりました。作家は廃人化した女優を捨てて、パトロンを探しにゆきます。屋敷には廃人化した女優と、管理人だけが残されます。そして管理人も「唯物論者」です。カモメの剥製作るくらいですから。
彼の農園の経営は上手くいっていません。赤字です。女優の兄の年金で赤字補填しています。女優の兄はまもなく死にます。年金が打ち切られます。農場は経営できなくなります。でも管理人は経営したい。もともと主人たちより馬を大事にしていたくらいです。物凄い執着心持っています。家族が居なくなれば執着心はさらに増します。ところが廃人化した女優が、口座に大きな預金を持っているのです。女優に最後のとどめを刺すのは管理人です。

かくして、世界の主役は交代します。本作の初演は1896年、ロシア革命は1917年、21年後です。ニーナと教師と管理人によってソヴィエト政権が樹立されます。ニーナは構想力、行動力があり出世欲、名誉欲が極端に強いです。革命指導者です。教師は唯物論者です。つまりマルクス主義者です。革命理論家です。管理人は退役中尉、粗暴な戦闘力を持っています。実際の戦闘は管理人が請け負います。三人共、信仰も良心も人への思い遣りもありません。我欲だけです。
彼らは白鳥ではなくカモメだという、悪意を感じさせるキャラ設定で描かれた人たちです。でも実際に勝利しました。まるで国土全体がカラマーゾフ家になったような、おぞましいほどの血みどろの戦いの末の勝利でした。
本作では帝政ロシアは彼らによって倒されるだろうと、明確に予想されています。物語は喪服姿の管理人娘からはじまります。

彼女は自分自身の葬式のために喪服を着ています。カラマーゾフの兄弟の時点では、父を喪失してもまだ復旧は出来る、未来に希望が持てるとされていました。16年後の「かもめ」となると、管理人娘は自分で自分を葬り、好きでもない唯物論者と結婚します。もうそれしかないのです。
本作が読めば読むほど暗く、重く、陰惨な印象を残すのは、戦闘意欲を喪失し、諦めの中で落ちてゆく活力の無さに起因するのだと思います。



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