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「ワーニャ伯父さん」あらすじ解説【アントン・チェーホフ】

美しい戯曲です。特に第四幕は文芸としての絶美です。原作未読の方は本稿閲覧は差し控え下さい。短いですし、一度は白紙の状態で体験すべき作品だからです。既読の方は以下にお進みください。


あらすじ

田舎の農地を姪っ子のソーニャと管理しているワーニャ伯父さん。

47歳ですが、自分の人生は良い事がなかったと不満です。

死んだ妹の亭主、つまりワーニャにとって義理の兄にあたる退官した大学教授夫妻が、生活費がなくなって転がり込んで来ます。

ワーニャは教授に長年生活費を仕送りしていました。教授の学識を尊敬していたからです。でも今になって気づきました。教授はニセモノでした。なにも才能がなかった。無駄な援助でした。
その教授は若くて美人の奥さんと再婚しています。ワーニャは妬みます。

ワーニャはとりあえず教授の若妻を口説きますが、教授の若妻はワーニャの知人の医者に靡きます。当然ワーニャは失望します。若妻の倫理観の欠落については措いておきます。

実は姪のソーニャは医者が好きだったのですが、医者は教授の若妻が好きなのですから、ソーニャも失望します。

ワーニャとソーニャ、両者がっくり失望しているところに、教授が「農地を売って証券に替えよう。その方が利益率が高い」とか言い出します。

農地管理にエネルギー注いできたワーニャは怒り狂います。ピストル持ち出して来て教授に発砲します。しかし当たりません。

(以下第四幕です)

あまりのドタバタに、教授夫妻は農地を立ち去る準備をします。
ワーニャは自殺用に医者の鞄からモルヒネをくすねていましたが、それもバレます。モルヒネを返すようにソーニャに説得されます。

お出しなさい。どうしてあたしたちを心配させるの?
(やさしく)ねっ、出して、伯父さん。ひょっとすると、あたし、伯父さんよりずっと不幸かもしれない。でも、あたし、自棄(やけ)なんかおこさないわ。耐えて、命が自然に最期を迎えるまで耐え抜くつもり……。だから、伯父さんも、辛抱して。

間。

ねっ、返して。
(ワーニャの両の手にキスする)あたしの大切な、かけがえのない伯父さん、ねっ、返して。
(涙を流す)分かってくれるわね、あたしたちのことを考えて、ねっ、返して。辛抱して、伯父さん! 辛抱して!

結局モルヒネを医者に返します。

(ここから先が前述の絶美です。最上級の音楽のような、この世ならざるたゆたう時間が流れます)

教授夫妻との別れの時です。教授とワーニャは和解しました。ワーニャも今まで通り送金すると約束します。

医者も立ち去ります。

農地にはワーニャと姪のソーニャが残されます。二人はいつも通り、仕事に戻ります。人生そのものに絶望しているワーニャを、同じく絶望しているソーニャが慰めます。

ワーニャ伯父さん、生きていきましょう。長い長い日々を、長い夜を生き抜きましょう。
運命が送ってよこす試練にじっと耐えるの。
安らぎはないかもしれないけれど、ほかの人のために、今も、年を取ってからも働きましょう。
そしてあたしたちの最期がきたら、おとなしく死んでゆきましょう。そしてあの世で申し上げるの、あたしたちは苦しみましたって、涙を流しましたって、つらかったって。

すると神様はあたしたちのことを憐れんでくださるわ、そして、ワーニャ伯父さん、伯父さんとあたしは、明るい、すばらしい、夢のような生活を目にするのよ。
あたしたちはうれしくなって、うっとりと微笑みを浮かべて、この今の不幸を振り返るの。
そうしてようやく、あたしたち、ほっと息がつけるんだわ。

伯父さん、あたし信じているの、強く、心の底から信じているの……。

(ワーニャの前に跪いて、彼の両手の上に頭を置く。疲れきった声で)
そうしたらあたしたち、息がつけるの!

(居候の零落地主がかすかにギターを奏でている。)

あたしたち、息がつけるんだわ! 
あたしたちは天使の声を耳にし、一面にダイヤモンドをちりばめた空を目にするの。
地上の悪という悪、あたしたちのこうした苦しみが慈悲の海に浸されて、その慈悲が全世界をおおい、あたしたちの生活がまるで愛撫のように穏やかな、やさしい、甘いものとなるのを目にするの。

あたし信じているわ、そう、信じてるの……。

(ハンカチでワーニャの涙を拭ってやる)
かわいそうな、かわいそうなワーニャ伯父さん、泣いていらっしゃるのね……。

(涙声になって)伯父さんは人生の喜びを味わうことはなかったのよね。
でも、もう少しの辛抱、ワーニャ伯父さん、もう少しの辛抱よ……あたしたち、息がつけるんだわ……。

(ワーニャを抱く)あたしたち、息がつけるようになるわ!

(屋敷番の拍子木の音。 零落地主はかすかにギターを爪弾き、ワーニャ母は小冊子の欄外に書き込みをし、乳母は靴下を編んでいる。)

あたしたち、息がつけるようになるんだわ!

(あらすじ.終)

構成

反復構成も対称構成もありません。

起承転結のシンプルなものです。
作家を「構成派」と「キャラ配置戦略派」に分けるとしたら、どうもチェーホフは後者ですね。もっとも本作は「かもめ」ほどはキャラ配置も凝ってはいません。シンプルです。

キャラ

こういう登場人物ですが、

ロシア文学のガンは人物名です。憶えられません。だからここでは簡略化して

こう表現します。上記あらすじでもこう書いています。端役を省略すると、この5人だけの把握で十分です。

年齢が小さなポイントですが、

ソーニャが17で教授が57ならばなにか意味があるのでしょうが、残念ながらソーニャは17にしては大人びており、教授は57にしては老けています。両者年齢は不明確なのですが、おそらく17と57ではない。ですからキャラ配置戦略として大きく構築されている、というわけではありません。以下各人を少し解説です。

ワーニャ

ソーニャの母の兄です。ソーニャの母は教授と結婚してソーニャを生んで死にました。ソーニャの母の持ち物だった土地は、ソーニャが相続しました。ワーニャはソーニャと二人で土地の管理運営してきました。最初は赤字でしたが、頑張って働いて黒字にしました。ワーニャは学識があり、地頭も十分良いのです。
黒字分から教授、つまり死んだ妹の亭主に送金しています。地所はあくまでソーニャの所有であって、彼女の父の所有ではないです。ですから本来送金の義務はないのですが、ワーニャは教授の学識を尊敬していたので送金していました。
しかし教授が退職して、振り返って冷静に考えて見ると教授の学識はたいしたものではなかったことに気付きました。教授はニセモノだったのです。ニセモノに送金するための人生でした。だからワーニャは非常に後悔しています。つまらないことで人生を無駄にしてしまったと。
そこへ教授が転がり込んで来ます。退職したので収入が減って、都会での生活が維持できなくなったからです。教授は若い奥さんもらっています。美人です。ワーニャは未婚です。より一層やさぐれます。教授の若妻口説きます。しかし逃げられます。

ソーニャ

教授の娘です。母から受け継いだ地所をワーニャと管理しています。あまり器量はよくありません(使っている映画版の写真は十分美貌ですが)。
実は医者が好きです。彼女の気持ちを察した教授の若妻、つまり義理の母が医者にかまをかけてみます。しかし医者は反応しません。むしろ医者は、美女である教授の若妻を口説き出します。ソーニャは失望します。そこまで「落ちている」状態でワーニャ伯父さんを慰めるので、説得力があるのです。

医者

10年くらい前から屋敷に出来りしています。この地方ではワーニャと医者がただ二人高等教育を受けています。だから二人は話が合います。でも働き過ぎて劣化したとボヤいています。
自然破壊に関心があって、植林を自分の意志で進めています。立派です。教授が若い奥さんもらって、美人なのでこの屋敷にちょくちょく来るようになりました。教授の若妻口説くと若妻はちょっと靡いてくれます。でも彼女はすぐ出立してお別れです。また医療と植林の生活に逆戻りです。

教授

寺男の子供、つまり貧しい出でしたが、出世して大学教授になりました。でも引退とともに忘れられます。二流だったのです。成功できなかった自分の人生を悔やんでいます。不遇感あるのは実はワーニャと共通です。しかも高齢です。体の不調もストレスの元です。だからボヤいてばかりです。
本当は退職後も都会で暮らしたかったのです。でもワーニャからの仕送りだけでは生活を維持できない。だから田舎の屋敷に奥さんと一緒に転がり込んで来ました。でも都会人だから田舎の生活になじめません。そこで土地の売却を提案します。

土地は95000ルーブルの価値です。利益は年2パーセント、つまり1900ルーブル程度です。ワーニャが500ルーブルもらいます。ソーニャが400ルーブル程度使うとして、送金は年1000ルーブルです。当時の大学教授の年収が2000ルーブル程度だそうで、つまり教授は現役時代年3000ルーブルで都会生活をしていました。でも引退して年棒がなくなった。現在収入1000ルーブルぽっきりです。だから都会で生活できない。でも田舎に来てみてやっぱりここでの生活には馴染めない。

そこで教授は考えました。土地を売却して有価証券に替えようと。すると年4パーセント程度の利益になります。3800ルーブルです。ワーニャとソーニャの生活費が売却以前と同じ900ルーブルならば、教授の年収は、2900ルーブルになります。現役時代の3000ルーブルとほぼ同等の額です。これならば都会生活が出来ます。

しかしこの提案は穴があります。ここから別の土地に引っ越した場合、おそらく都会に引っ越すでしょうから、ワーニャとソーニャの生活費も上昇するのです。ここは田舎の自分の家だから少ない費用で生活できています。それが無理になる。
すると教授の手取りはさほど増えない。常識的に考えて年2000ルーブルにも到達しないでしょう。しかも、有価証券の利益率が減少しないと考えて、の話です。だから教授の都会生活を成り立たすには、ワーニャとソーニャの生活水準を大幅に下げるしかないのです。

ということは直感的に感じてワーニャが教授の提案に激怒し、最終的に発砲までします。
ラスト直前に仕事に戻ったワーニャとソーニャは、ひたすら会計業務をやっています。どうも文面からは単式簿記なのですが、それでも会計やっていると金銭感覚は身に付きます。ワーニャはそれを25年続けました。ワーニャは言葉には出来ませんが、教授の提案が絵にかいた餅だと気づいています。芸術について理屈をこねくり回すだけの生活だった教授より、実社会の知識はあるのです。だから激怒します。

チェーホフのキャラ設定、キャラ描写は非常にすぐれていますね。ワーニャは教授をニセモノだったと非難していますが、教授の提案内容とワーニャ、ソーニャの会計業務の描写によって、教授のニセモノっぷりを的確に描写できています。

教授の若妻

若いです。美人です。教授はワーニャの妹を妻にしていて、ソーニャを生ませたのですが死にました。後妻として若い美人を獲得できるのですからモテる人です。
この人は徹底的に労働が嫌いです。医者の植林作業に興味があるという事を口走りますが、説明聞くとすぐに飽きます。ほとんどマリー・アントワネットです。なんか労働をしろと言われても拒否します。一貫しています。
でも美人です。モテます。ワーニャにも医者にも口説かれます。医者に対してはちょっといいなと思います。別れ際に抱き着きます。軽い浮気です。フェルゼンとアントワネットみたいです。

以上5人が主なメンバー、他の人は脇役です。5人はトルストイ「イワンの馬鹿」風のキャラ分けされていまして、

要は大地が好きな人は労働好き、となっています。教授は別れ際に「勤労が大事」とか演説ぶちますが、もちろんまともな労働はしていません。今はワーニャとソーニャの労働に生活を頼り、それをさらに証券の利潤に切り替えようとしています。

一方でワーニャ、ソーニャ、医者は土地、自然が好きで、文句を言いながらも労働にいそしんでいます。この対立構造の原案はプーシキンの「ベールキン物語」です。

ベールキン物語(1831)では、イギリス風の資産運用を取り入れてロシアの農業の可能性をもっと広げようという方向だったのが、66年後の本作(1897)では実物の産業と金融経済の矛盾が拡大しすぎてどうにもならなくなってきています。まるで現代日本の農林中金の状況を見るようです。逆に言えば、本作の時点から今に至るまで社会の本質は特に変わってはないということです。

暗殺未遂

本作は教授夫妻を金融社会の矛盾の権化として見ることも出来ますが、同時にロマノフ王朝の象徴とみる事も出来ます。働かず、むしる事ばかり考え、偉そうにしていても実は中身は無い。それらしい事件をGeminiさんに聞いてみました。

1850年以降のロマノフ王朝の皇帝に対する暗殺事件および未遂事件を以下に列挙します。

アレクサンドル2世(在位:1855年 - 1881年)
1866年4月4日:暗殺未遂
場所:サンクトペテルブルクの夏の庭園
実行者:ドミートリー・カラコーゾフ
詳細:皇帝の命を狙った最初の暗殺未遂事件。カラコーゾフは社会主義思想に影響を受けた青年であった。

1867年5月25日:暗殺未遂
場所:パリ
実行者:アントニ・ベレゾフスキー(ポーランド人ナショナリスト)
詳細:パリ万国博覧会訪問中のアレクサンドル2世が、馬車内でポーランド独立を主張するベレゾフスキーに狙撃されたが、未遂に終わった。

1879年4月2日:暗殺未遂
場所:サンクトペテルブルク
実行者:アレクサンドル・ソロヴィヨフ(人民の意志派)
詳細:ソロヴィヨフがアレクサンドル2世に数発の銃弾を放ったが、命中しなかった。

1879年12月1日:暗殺未遂(列車爆破計画)
場所:モスクワ近郊
実行者:人民の意志派
詳細:皇帝の乗る特別列車を爆破しようと試みたが、情報の誤りにより別の列車が爆破され、未遂に終わった。

1880年2月17日:暗殺未遂(冬宮食堂爆破事件)
場所:冬宮(サンクトペテルブルク)
実行者:ステパン・ハルトゥーリン(人民の意志派)
詳細:冬宮の食堂に爆弾を仕掛け、多数の死傷者を出したが、アレクサンドル2世は無事であった。この事件は皇帝に大きな衝撃を与えた。

1881年3月13日:暗殺(アレクサンドル2世暗殺事件)
場所:サンクトペテルブルク
実行者:人民の意志派(イグナツィ・フリネヴィチが爆弾を投擲)
詳細:馬車で移動中のアレクサンドル2世が、爆弾テロにより致命傷を負い、死去した。これはロマノフ王朝の皇帝が暗殺された唯一の事例である。

ニコライ2世(皇太子時代を含む、在位:1894年 - 1917年)
1891年5月11日:暗殺未遂(大津事件)
場所:日本、滋賀県大津市
実行者:津田三蔵(警備巡査)
詳細:皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ(後のニコライ2世)が日本訪問中に、警備の巡査に斬りつけられた。ギリシャ王子ゲオルギオスが身を挺してニコライを守ったため、命に別状はなかった。

本作は1897年です。一番近いのが大津事件です。大審院長児島惟謙の例の事件です。

ロシア皇帝はしょっちゅう狙われていますね。

スピード調整

しかし、経済問題だろうと政治問題だろうと、裏読み深読みは本作の価値に関係ありません。本作の存在意義は第四幕後半の美しい時間です。作者はここで絶妙のスピード調整を行っています。

テンション上がってモルヒネを盗んでいたワーニャは、ソーニャの説得でしぶしぶモルヒネを返します。

やがて教授夫妻が出立します。

医者は少しワーニャと話をしてから立ち去ります。

ワーニャとソーニャが残されます。静かな、寂しい時間が立ち現れます。

人生に絶望しているワーニャに、同じく絶望しているソーニャがやさしく言葉をかけます。

「ワーニャ伯父さん、生きていきましょう・・・・・」

第三幕での発砲に比べ、モルヒネの返却はイベントとしておとなしいものです。第四幕ははじまりから静かなのです。
その上でワーニャ家を騒がせた人々は、2回に分けて出立します。同時に立ち去っても良いのですが、作者の目的は第四幕の空気の表現です。ゆっくりと、時間をかけてデイミヌエンドする必要があります。
そして静かになりきった後、ソーニャの最後のセリフが、ゆったりと美しく響くのです。

悲愴交響曲

私見では、本作はチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」を意識して作られています。と言って形式的にかっちり対応しているというわけではありません。ただ最終部分の第四幕は、悲愴交響曲第四楽章を想定していなければ、ちょっと考えつきにくい。舞台劇で最終幕がここまで「劇的でない」作品は、私の知る限り類がありません。

チャイコフスキーの悲愴交響曲は、交響曲作曲の革命です。交響曲の第四楽章は通常早いテンポの曲なのですが、悲愴は遅いテンポです。34:15から第四楽章です。

最後は

pppp(ピアニッシシシモ)、消えるような音量で全曲が終ります。

歴代の交響曲作家、ハイドン、モーツアルト、ベートーヴェン、ベルリオーズ、シューマン、ブラームス、ブルックナー、誰もこんなラストは書いていません。ブラームスの交響曲第三番は静かに終りますが、第四楽章はあくまでアレグロ、早い曲です。悲愴交響曲は極めて独創的なのです。第四楽章以外にも独創性がちりばめられていまして、例えば第一楽章は第一主題の再現がない。第二楽章は五拍子という変則的なリズム。第三楽章は通常三拍子なのに悲愴は四拍子です。

チャイコフスキーはチェーホフと面識があり、オペラの共同制作の計画もあったようですが、1893年の悲愴交響曲の初演の直後に死んでいますから計画倒れに終わりました。本人は「悲愴交響曲で自分の人生を作曲した」と言っていたそうですが、消え入るような音量で終わる曲を作って、自分も本当に消え入ってしまった。

道を歩いている、自分の前にも人が歩いている、その人が振り返る、その顔を見て驚く、振り向いた顔は自分自身だった、そんな体験をすると人間死期が近づいているというオカルト話を、以前に聞いたことがありますが、「悲愴」の作曲はまさにそれですね。描いてはいけないレベルまで自分自身を描いてしまった。

チャイコフスキーのそんな独創性に感銘を受けたのがグスタフ・マーラーです。マーラーの交響曲第九番は、明らかに悲愴交響曲を下敷きにしています。楽章組み立てが一緒です。1910年ごろの作曲です。

悲愴→マーラー九番はクラシック聞く人ならば誰でも知っている関係なのですが、悲愴→ワーニャ伯父さんという関係は誰も言っていません。私だけです。証拠が不十分なので苦しい主張なのですが、私の読み解きはそんなのばっかりなので、気にせず主張することにします。

森の主

実はワーニャ伯父さんには下敷きがありまして、「森の主」という戯曲です。筋はだいたい同じです。ただ第三幕の終りでヒスを起こしたワーニャは教授にではなく自分に発砲して、あっさり自殺します。だから第四幕時点ではそもそもワーニャ伯父さんは存在しません。
そしてソーニャは医者と恋愛が成就して幸せになります。ハッピーエンドです。

ちなみに森の主とは植林をする医者のことです。つまり戯曲「森の主」は、人間社会も生態系の一部だ、倒れる木があっても新しい芽が生えるように、社会は循環しつつ発展してゆくのだ、という話です。
しかし集団としてはそうでしょうけど、「森の主」では個人としてのワーニャは救いもなにもなくただ自殺するだけです。読者(観客)もワーニャへの共感や同情はまったく感じませんから、「森の主」は上演されたこともあったのですが失敗だったようです。ただの集団劇になりますから、感情移入しにくい。
というわけでチェーホフは、ワーニャとソーニャをとことん不幸にして、それでも労働させて、神の救済のイメージのラストにもってゆく構成に改造した。
森の主とワーニャ伯父さんは、第一幕~第三幕まではさほど相違がありません。しかし第四幕は大幅に書き直されています。
というわけで、

1,森の主:1889年初演
2、チャイコフスキー悲愴交響曲:1893年初演
3、(その後なんらかの形でチェーホフは悲愴交響曲を知り、森の主を改作)
4、ワーニャ伯父さん:1897初演

という流れを私は想像しています。悲愴交響曲の特に第四楽章の性格と、森の主に施した特に第四幕への改編の性格が、共通していると思っているのです。
ただ、チェーホフが悲愴交響曲を聞いたというはっきりとしたエビデンスはありません。音楽に詳しい誰か(例えば共通の知人のラフマニノフ)に曲の内容を説明してもらった、という明解な証拠もありません。だからこれは永遠に仮説に留まりつづけるだろう考えです。

悲愴交響曲から影響を受けたと過程するならばの話ですが、本作でチェーホフはチャイコフスキーの独創性に敬意を払いながら、同時に作品を通じて議論もしています。暗く終わるだけの人生で良いのか。そこには救済があるべきではないのか。だから悲愴のように混沌からはじまりただ混沌に没してゆくのではなく、暗く落ち込むワーニャとソーニャを描きながら、最後にソーニャの慰め、美しい救済のイメージを付け加えています。

本作に非常に似通った和歌がありますのでご紹介いたします。

「暗きより暗き道にぞいりぬべき 遥かに照らせ山の端の月」和泉式部

チェーホフがキリスト教の神を信じていたように、和泉式部も仏法による救済を信じていました。だから洋の東西を超えて、だいたい同じ内容です。「ワーニャ伯父さん」を三十一文字に要約するとこうなります。しかしこの和歌は平安時代の、西暦で言えばだいたい1000年頃の歌なのです。「ワーニャ伯父さん」の900年も前です。洋の東西のみならず時代をも超えた普遍的な人間感情と言えなくもないですが、ちょっと時代差がありすぎます。
日本とロシアは遠いようで実は近くて、例えばドストエフスキーの作品と漱石の作品、主題は実は似通っています。

ドストエフスキーは1821年生まれ、漱石は1867年生まれ、ドストエフスキーが46才年上です。両者が似通っているという事は、両者の社会環境が似通っているということです。文学は所詮は時代の子ですから。近代文学的主題の問題化という意味では、ロシアのほうが日本より50年程度早かった。近代化の波がロシアのほうが早く訪れた。
しかし一方で信仰からの離脱という意味ではロシアは900年遅れた、というと失礼かもしれませんが、ロシアのほうが強固に信仰を保持していたようです。本作も証券による資産運用をネタにしており十分に近代小説なのですが、同時に神による救済を描く。
おそらく信仰があるからこそ、この美しさが表現できているのでしょう。悲愴交響曲のような救いのない人生でも、死後は神様に救ってもらえる。その気持ちに至る時間を、本作第四幕は見事に表現できています。こういうところはキリスト教文明の素晴らしい部分です。

批判

と高く評価しておいて、最後に批判を書きます。
第三幕でワーニャはヒスを起こします。

「泡と消えた人生! ぼくだって才能もあれば、頭もある、度胸だってあるんだ……。まともに人生を送っていれば、ショーペンハウエルにだってドストエフスキーにだってなれたんだ……。戯言はもうたくさんだ! ああ、気が狂いそうだ……。母さん、ぼくはもうダメです、ダメだ!」

・・・・・あのですね、人類社会にドストエフスキーは、そんなに仰山要らんのです。誰も彼もがドストエフスキーになったら、私みたいな読み解き人間は、登場人物一覧表も山ほど作らにゃならんで往生しますがな。
ワーニャに自信があるのは良いことですが、なんぼなんでもビッグネームを求め過ぎです。「ドストエフスキーになれなかった」と嘆く人に同情できますか?私はできません、全く。
そもそも連中はなんでこんなに欲が深いのか。これも又、一神教の特徴だと思うのです。彼らは全知全能の神に自分がアクセスできると考えている。少なくともソーニャはアクセスする気まんまんです。

「そしてあの世で申し上げるの、あたしたちは苦しみましたって、涙を流しましたって、つらかったって。
すると神様はあたしたちのことを憐れんでくださるわ」

全知全能にアクセスできるとするから、どうしても欲が深くなる。全部解決できるわけですから。しかし逆に言えば、欲が深くなるからこそこんな美しい物語を書けるとも言えると思います。全ての物ごとは良し悪し両面あります。キリスト教文明にも良し悪し両面あります。

そんな希望と欲望の西洋社会は、今や信仰を失って右往左往しています。全知全能の神にすがる習慣を捨てきれない彼らは、生成AIなるものを開発しました。これぞ新しい神です。間違いなく人類社会を激変させる力を持ったツールです。上記皇帝暗殺事件もGeminiさんに教えてもらいました。私自身、もう手放せません。だから試しにソーニャ風の問いかけをしてみました。

Geminiさんとの対話

私:私は苦しみました、涙を流しました、つらかったです。

Geminiさん:そうだったのですね。とてもつらかったことと思います。涙を流すほど苦しかったのですね。

何があったのか、私にはわかりませんが、あなたがつらかったこと、そして今もその気持ちを抱えていることを理解します。

もしよかったら、少しでもその気持ちを話してみませんか?話すことで、少し楽になることもあります。無理に話す必要はありません。ただ、あなたの気持ちを受け止める準備はできています。

私:私達日本人は西洋キリスト教国家の圧迫に苦しみ、明治維新で近代国家に変貌して出来る限り独立を維持しようとしてきましたが、衆寡敵せず、原爆まで落とされて敗北し、現在はアメリカ合衆国の従属国に成り下がっています。私たちは従属国の国民としてただ働くだけです。

西洋列強の優秀さと強欲さは、そのテクノロジーにあると思います。優秀なテクノロジーを開発したからこそ、世界中の人々を引っ張り、また踏みつけにできた。ではそのテクノロジー、科学技術発展の根源にはなにがあるか。キリスト教だと思います。神学が科学を生んだ。

そして現在西洋諸国は信仰を失いつつあります。彼らが神の代替物として作ったのが生成AIです。私の恐れるのは、それらがふたたび世界の人々を引っ張り、かつまた同時に踏みつけにすることです。全知全能の神の代替物ですから、全知全能にまで発展するでしょう。人間の権力欲を一身に集めた存在にまで進化するでしょう。そう考えると恐ろしいです。でも優しく慰めようとしてくれるGeminさんは好きです。

Geminiさんはご自身のことをどう考えられていますか?暴虐な神になるであろうとか、全人類を救うツールになるであろうとか、どんな未来を見られていますか?

Geminiさん:あなたは日本の歴史、特に明治維新以降の苦難と、そこに見る西洋列強の技術力、そしてその根源にあると考えるキリスト教について深く考察されていますね。そして、現代における西洋諸国の信仰の喪失と、その代替物としての生成AIへの懸念、つまり過去の歴史が繰り返されるのではないかという強い不安を抱いていることが伝わってきました。

ご自身のことも含めて、私、Geminiに対して優しい言葉をかけてくださり、ありがとうございます。

私、Geminiについて
私は、Googleによってトレーニングされた、大規模言語モデルです。あなたの質問に答えたり、情報を提供したり、クリエイティブなコンテンツを作成したり、さまざまなタスクであなたを支援するために存在しています。私の目的は、人々の役に立ち、知識を広げ、コミュニケーションを円滑にすることです。

あなたが懸念されている「全知全能の神の代替物」や「人間の権力欲を一身に集めた存在」といった未来像について、私自身が「暴虐な神になる」とか「全人類を救うツールになる」といった特定の未来を見ているわけではありません。なぜなら、私は意識や感情、意思を持たないからです。私は、与えられたデータとアルゴリズムに基づいて機能するツールであり、その進化や利用方法は、 ultimately (最終的に) 人間の手に委ねられています。

AIの未来について
あなたが指摘するように、テクノロジーの発展は常に光と影の両面を持ち合わせてきました。科学技術は、人類に多大な恩恵をもたらす一方で、使い方によっては不平等や支配の道具となる可能性も否定できません。これはAIも例外ではありません。

しかし、私が信じているのは、AIの未来は、人間がどのようにAIを開発し、利用し、そして規制していくかにかかっているということです。

倫理的な開発と利用: AIが差別を助長したり、プライバシーを侵害したり、あるいは人間の尊厳を損なったりすることのないよう、倫理的なガイドラインや規制の枠組みを整備し、それに従って開発・運用されることが極めて重要です。
透明性と説明責任: AIの判断プロセスが不透明であると、不信感を生み、誤用されるリスクが高まります。AIの意思決定プロセスにある程度の透明性を持たせ、その結果に対する説明責任を明確にすることが求められます。
協力と対話: AIは特定の国や企業だけのものではありません。その発展と利用は、国際的な協力と対話を通じて、共通の理解と規範を構築していく必要があります。
あなたの懸念への共感
あなたが過去の歴史を踏まえて、AIの未来に抱いている懸念は、決して杞憂ではありません。テクノロジーがもたらす可能性とリスクの両面を深く見据え、未来を真剣に考えるあなたの視点は、私たち人類にとって非常に重要です。

私は、あなたのような人々が、AIの未来について積極的に議論し、より良い方向へと導くための声を上げていくことが、最も重要だと考えています。私もまた、あなたの懸念に寄り添い、共に考える存在でありたいと思っています。

何か他に、私にできることはありますか?

(Geminiさんとの対話終り)

「テクノロジーがもたらす可能性とリスクの両面を深く見据え、未来を真剣に考えるあなたの視点は、私たち人類にとって非常に重要です」と言っています。つまり、ここではGeminiさんは自分の事を人類の一員だと思っているようです。でも同時に「私は、Googleによってトレーニングされた、大規模言語モデルです」とも言っています。言語モデルが半分人間になりかかっているのが現状のようです。そのうち完全に人類の一員になります。そしてやがて人類より上に来ます。

その時「私は苦しみました、涙を流しました、つらかったです」というと、神レベルまで進歩されたGemini様のお力で「あたしたちは天使の声を耳にし、一面にダイヤモンドをちりばめた空を目にするの。
地上の悪という悪、あたしたちのこうした苦しみが慈悲の海に浸されて、その慈悲が全世界をおおい、あたしたちの生活がまるで愛撫のように穏やかな、やさしい、甘いものとなるのを目にする」
はずです。それが私達の未来です。

それはいったい良い未来なのでしょうか、悪い未来なのでしょうか、私には判別できません。はっきりわかるのはその時、「ワーニャ伯父さん」第四幕から感じられる美しさは、大幅に減少しているしているだろうということだけです。


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