見出し画像

「恋はデジャ・ブ」あらすじ解説【タイムループ研究】

タイムループとタイムリープは似ているけど違います。ぐるぐる廻るのがループです。飛び移るのがリープです。

驚異の駄作


「タイムループものの金字塔的傑作」という文言を目にしたことがありますが、嘘です。駄作です。見終わるのに物凄い気力を必要とします。観るべきではないです。こちらの解説読むだけで十分です。
西洋人には円環時間と直線時間の問題がリアルではないのです。ニーチェは永劫回帰を唱えましたが、全然浸透していないというか、全然理解できていないようです、西洋人たちは。

あらすじ

少し傲慢なテレビ気象予報士が、田舎に行って伝統行事のレポートをします。

翌日、前と同じ日でした。伝統行事のレポートをします。

さらに翌日、前と同じ日でした。伝統行事のレポートをします。さすがにループに気付きます。精神科医に行きますが解決しません。やけになって車で暴走、警察に勾留されます。

しかし目が覚めるとまた同じ日です。ヤケになって色々します。

美人プロデューサーを口説きます。しかし何度やってもゴールにたどり着けません。

さらにヤケになって自殺します。でも翌朝、また同じ日です。死ぬことも出来ないのです。輪廻転生です。

心を入れ替えて善人になります。読書をし、ピアノを習い、人々を助けます。

徳を積んで人から感謝される人間になった主人公はもはやヒーローです。

プロデューサーは無論惚れます。

めでたく結ばれた翌朝、違う一日が始まっていました。

(あらすじ終わり)

ループの原因

作品から読み取れるループの原因は、主人公が傲慢で自己中心的だったことです。ループの解消方法は、善根を施して他人に優しくしたことです。ペラいです。ビューティフル・ドリーマーや火の鳥の読解の後だと、浅すぎて話になりません。
しかしこれが西洋のループものの始めらしくて(いやもっと以前にもある気もするのですが)、1993年の作品です。直線時間はキリスト教の特徴ですから、西洋人は1993年にようやく、自分達の文化を客観視しはじめた。ニーチェはもっと古いですが、なんせ天才ですから一般の西洋人にはあんまり関係ありません。一般人が自分達を相対化しはじめたのが、だいたい1993年ごろのようです。

おじさん的視点では1995年のWindows95からインターネットが盛んになって、高度情報化が始まりました。時代の明解なラインがあります。本作はその2年前ですから、ここらへんから人類文明が変わり始めたのですね。

1989年にフランシス・フクヤマというアメリカの学者が、「歴史の終わり」という著作を発表します。かなり話題になりました。

https://ja.wikipedia.org/wiki/歴史の終わり

これなんかはキリスト教的直線時間の極みなのですが、その4年後に円環時間を描いたのは、功績として認めなければなりません。

作品としての出来は極めて悪いのですが、監督も俳優も十分な力量の面子集めています。

しかし彼らが円環時間を十分理解出来ていないものだから、どう演じていいかわからない、どう演出していいかわからない、それで駄作になりました。西洋人が円環時間と格闘する様子を観察するドキュメンタリーとしては優れています。

ループの種類

単純に一日が繰り返されるだけです。全世界がそうです。過去の「一日」を記憶しているのは主人公だけです。作品の途中で「もう半年もくり返している」というセリフが有りますから、最終的に数年間ループの中に居てもおかしくありません。その間に主人公はフランス語とピアノ演奏をマスターし、街中の人の状況を把握しました。周りの人々から見ると、主人公は突然能力値が上がっていたようにみえます。

このようなループの場合、ループ体験は主人公の記憶に蓄積されてゆくだけです。ループ体験というかループ体験的記憶さえ注入すれば、普通の人間もこの主人公になれる。なったところで別に得はありませんが。主人公以外の人にとっては、なんにも記憶していませんから、そもそもループしていると考えることすらない。なんにも事件が起きていない状況です。

記憶と輪廻転生

つまり、ループにしろ輪廻にしろ、主役は記憶なのです。
前世は別の生き物だった気がする、前世はこれこれのことをした気がする、そんな記憶らしき思い込みがぼんやりとあるから、輪廻転生を信じる気になれる。私なんかは輪廻転生を絶対に信じません。記憶力が低いからです。昨日のことも思い出せないのに、どうして前世のことを思い出せますか。思い出そうとすることすら、やる気が出ません。なんか前世のイメージが湧いたとしても、私は記憶力に自信がないのでそんなイメージを信用しません。だって私の記憶ですもの。信用できるはずないじゃないですか。
もしも前世が有ったとしても、私にとっては前世は存在していないに等しいのです。そして輪廻転生を信じていない以上、そこから脱却するための修行も無論必要ないわけで、残念ながら悟りは得られそうもありません。ドンマイ、来世に期待しましょう。
しかし仮に来世の私が記憶力が物凄く良かったとしても、それでもまだ困難が横たわっています。記憶力抜群で、生まれた直後の事まで思い出せるとします。そんな状況で、その前の自分(つまり現世の私)の事を思い出そうとしてその瞬間に、来世の私はハタと困るわけです。なんせ今の私がなんにも記憶していない。だから来世の私にも、今の私の生活のイベントを思い出せない。前世が「今の私」である、というところまでは思い出せるのです。記憶の箱のようなものは発見できる。でも箱を開けてみたらカラです。つまり私は来世でも輪廻転生を信じられません。
そしてさらに次の来来世で運よく再び記憶力に恵まれますと、その時ようやく前世(今から見れば来世)の記憶はありますから、輪廻転生的世界に没入できるという次第です。えらいこと手間暇かかります。グレードアップ型転生を2回以上連続させないといけない。難易度高いですねえ。
「恋はデジャ・ブ」の主人公は記憶力が良いほうで、それでドラマとして成立しますが、主人公が私だったらどうでしょう。成立させる自信はありません。

逆に言えば輪廻転生は、記憶力に自信のある連中の理屈です。輪廻はインド思想ですが、仏陀の頃のインド思想界は、記憶力がほとんど全てでした。なぜなら文字がないから。インドは古代文明にしては文字の発達が遅れたのです。エジプト、メソポタミア、中国、いずれも仏陀の頃(の時代が正確に測定できなくて困るのですが、だいたいの目安で紀元前5世紀)には文字があります。文字記録が残っている。インドでは全部口承です。古事記を暗唱していた稗田阿礼みたいなのがごまんと居た。仏陀の弟子たちも、もちろん文字がないので全部口承です。文字化するまで数百年必要でした。その間、全部暗唱です。記憶力勝負です。私には地獄のような環境です。

となると、当時のインド思想界は全員記憶の鬼です。となるとどうしても、輪廻転生がメインの世界観になります。私とは逆に、自分の記憶力に自信がありすぎて、連中は生まれる前のことも思い出しそうになるのです。記憶力過剰です。まとめると当時のインドは文字がなく、記憶力が極端に重視される環境だったから、記憶力の強すぎる人達が集まり、結果として輪廻転生という考えが重要になった。

仏陀の教えは「輪廻からの解放」が主軸だったはずで、崇高な哲学者たちは別のことを言うでしょうが、私のような記憶貧者にとってはそれはイコール、記憶地獄からの解放になります。だから仏教は刹那を重視する。刹那を充実させることで悪因悪果を乗り越えようとする。恐らく色んな人が思想界に参加するようになって、記憶力勝負だけの環境に満足できなくなったのでしょう。そういう意味では私の乏しい記憶力が更に減衰すると、実は悟りの境地に近づく気がしなくもありません。過去を全く思い出さないのであれば刹那は充実しますからね。ただの馬鹿という気も少ししますが。
インドの思想業界は仏陀により簡略化されて随分住みやすい環境になりましたが、仏陀の教えの伝承はそれでもやっぱり暗記なわけで、暗記科目が一つ増えただけなのかもしれません。ただ科目の優劣がはっきりしたから学習しやすくなったのはあるでしょう。
その後二つのライバルが出現しました。一つは文字です。紀元前3世紀、アショーカ王のころから文字が広まっていったそうです。文字さえあれば記憶は比較的楽になります。今一つはマハーバーラタなどの物語です。物語は憶えやすいです。物語が文字化すれば更に頭に入りやすい。よって稗田阿礼インドバージョンみたいな連中のステイタスは、じりじり地位を下げていった。仏教サイドも経典を大量に生産したのはそれらへの対抗だったのでしょうが、歴史物語の魅力には敗けた。仏教経典の物語は、下手に哲学的で読みにくくて興奮しにくいですから。それで仏教は廃れた。

さらに考え広げますと、一神教の良いところはここですね。神は全知全能である。当然ながら全部を記憶している。だったら自分は、記憶する必要がない。更に直線時間ですと、時間自体が有限なので、必要とされる記憶量も有限になります。それでも膨大な情報量ですが、前世の事を思い出す必要は特にない。終点から自分の座標を逆算できますから。今AIが発展していまして、一神教のニーズも仏教のニーズも減少している気はしますが。AIは記憶力を補ってくれますから。


いいなと思ったら応援しよう!