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史記平準書Gemini翻訳

前回の続きで史記の平準書を掲載する。

平準とは、国家が市場の商品を、安いと思えば買い、高いと思えば売ることである。これにより市場価格は安定する。価格水準が平(たいら)になるから平準である。合わせて政府は差額を稼ぐことが出来る。最近の備蓄米放出も、いわば平準の一種である。
平準と合わせて均輸がある。例えば穀物が安い土地で穀物を買い上げ、政府が穀物の高い土地に輸送し、そこで売る。安い土地での価格は上がり、高い土地での価格は下がる。輸送によって価格を均一化するから均輸である。
つまり平準均輸は、政府が商人の代わりをして利ザヤを稼ぐ事であり、国家運営として正統的とはとても言えないが、匈奴への軍事作戦で肥大化した政府予算を賄うにはこれしかなかった。
「管子」にある理屈では、税を上げると民がどうしても反発する。だから明示的に徴収するのは悪い方策、となっている。それでさや取りの必要が発生する。

司馬遷は本章を、卜式(ぼくしき)と桑弘羊(そうこうよう)、二人の人物を対立して描くことで作品化している。彼らがそれぞれ背負うのは、性善説と性悪説、人間への見方の違いである。
卜式は性善説である。元来経済の才能がある。国家が危機と聞けば、私財を投じて力になろうとする。実際に善人である。しかし、卜式のように私財を自発的に上納する人間など、彼以外誰もいなかった。つまり、実効性の無い性善説である。
桑弘羊は性悪説である。酷吏のボスである。経済官僚である。なんか竹中平蔵さんあたりを連想しそうだが、実は対立する卜式のほうがレッセフェールで、桑弘羊は今日の視点では半分社会主義者である。日本も昔は三公社五現業といって、国家が商人のようなことをしていたのだが、それを最大限に拡充したのが桑弘羊である。
卜式は「舟に税金をかけるな」と言って武帝の不興を買う。舟の生産こそが流通をよくするから、その路線でも商品価格の高低は是正出来る。ただし直接的に利益はあがらない。結果的に経済成長により税収を増やす作戦である。
一方で桑弘羊の均輸も、つまりは国家によるロジスティック整備であり、昔の日本の国鉄(現JR)のようなものである。これはこれで、流通は活発にできる。つまり両者は同じ山を異なったルートで登ろうとしていたのであり、それなりに中身のある経済ドラマになっている。
主演の二人の脇を固める俳優は、「通貨発行」と「外征・天災」である。通貨発行さんは貨幣私鋳を許可したかと思えば、白鹿の皮で皮幣を作るなど、振る舞いとしては混迷を極める。いわば精神錯乱キャラである。外征・天災さんもいかにも古代中国らしくコンスタントに暴れまわる。こちらは暴力系錯乱キャラである。これらのキャラがからみあってぐちゃぐちゃドラマとなった挙句に、著者司馬遷の結論が最後に記されている。「これは以前とは異なっているわけではなく、物事の成り行きが互いに影響し合った結果であり、どうして不思議に思うことがあろうか」、つまり、著者の結論は「ようわからん」である。ようわからんくせにここまで適切に描写できるのだから、司馬遷の作家としての才能はたいしたものだ。

この平準書の続編として「塩鉄論」なる、実際の議論を掲載した書物がある。塩と鉄の専売制を議題にして、卜式系(より儒教より)キャラが議論に勝つというストーリーだが、たいそうくだらないので掲載しない。岩波文庫で読める。政策議論として読むより、性善説性悪説の戦いとして読めばよいのかもしれない。
この後中国は結局清王朝まで塩の専売を継続した。塩の専売を始めようとした明治政府が彼我の製品の品質を比べて、いささかショックを受けたほど高品質な塩だった。議論したから継続し、継続したから高品質になったのだろう。今日の中国のなになに公司も、どうも専売に毛が生えたかのような権力接着型民間会社が多いようで、こういう国家のキャラクターは2000年経過しても変化しないのだと理解できる。


史記・平準書

1.成立した漢王朝、貨幣私鋳を許可、インフレになる

漢王朝が興った頃、秦の弊害を継承し、男たちは戦地に赴き、老若男女が食糧を運び、労働は過酷で財力は枯渇していました。天子でさえも四頭立ての馬車を揃えることができず、将軍や宰相は牛車に乗り、一般の人々は財産を隠すこともできませんでした。
そこで秦の貨幣は重くて使いにくかったため、改めて民に貨幣を鋳造させました。黄金は1斤で、法律は簡素化し禁令も減らされました。しかし、利益を追う不心得者が物資をため込み、市場価格を操作したため、物価は高騰し、米は1石あたり1万銭、馬は1頭あたり100金にもなりました。

2.租税は王侯の私的収入となり国庫に入らず

天下が平定されると、高祖は商人に絹の服を着ることや馬車に乗ることを禁じ、重い税を課して彼らを辱めました。孝恵帝や高后の時代には、天下が平定されたばかりであったため、商人の規制を緩和しましたが、それでも商人の子孫は官吏になることはできませんでした。官吏の俸禄や国の費用を算出し、その分を民に賦課しました。しかし、山や川、庭園、市場からの租税収入は、天子から封建諸侯の湯沐邑に至るまで、すべてそれぞれの私的な費用として用いられ、国の経費には含まれませんでした。山東地方から運河で都に送られる穀物は、年間数十万石に過ぎませんでした。

3.孝文帝の時代重い半両銭を制定、私鋳は最終的に禁止

孝文帝の時代になると、軽い「莢銭」が増えすぎたため、改めて重さ4銖の「半両銭」を鋳造し、民が自由に貨幣を鋳造することを許しました。そのため、諸侯であった呉は山の資源を使って銭を鋳造し、その財力は天子と肩を並べるほどになり、後に反乱を起こす原因となりました。大夫の鄧通も、銭を鋳造することで王侯をも超える財産を築きました。このようにして呉や鄧氏の銭が天下に広まり、銭の鋳造禁止令が生まれることになりました。

4.辺境への穀物運搬業者が出世

匈奴がたびたび北辺を侵略し、多くの兵士が駐屯していましたが、辺境の食糧だけでは足りませんでした。そこで、辺境に穀物を運び込んだり、輸送したりできる民には爵位を授け、最高で大庶長まで与えられるようになりました。

5.孝景帝の時代、旱魃救済のため売爵制度導入

孝景帝の時代、上郡以西が旱魃に見舞われたため、再び爵位を売る法令を復活させ、その価格を安くして民を募りました。また、刑罰を免除するために、役所に穀物を納めることも許されました。苑馬を増やして軍用を広げましたが、宮殿や離宮、馬車なども増築・修理されました。

6.武帝の時代、平和で天災なくバブル発生

現在の天子が即位して数年、漢が興ってから70年余りの間、国に大きな事件はなく、水害や旱魃の災害がなければ、人々は豊かで、家には財産が満ち溢れていました。
都の倉庫には数えきれないほどの銭が積まれ、紐が腐って数えられないほどでした。太倉の穀物は古いものが次々と積み重なり、外にあふれ出て腐り、食べられなくなるほどでした。
庶民の通りには馬がいて、田畑の間では群れをなしていました。しかし、雌馬に乗る者は集会に参加することを禁じられていました。
門番をする者は米と肉を食べ、官吏は子孫にまでその地位を継がせ、官職は家名となりました。
そのため、人々は自らを大切にし、法を犯すことを重く考え、まず道義を行い、その後で恥辱を避けるようになりました。この時、法律はゆるやかで民は豊かでしたが、財力に任せて傲慢になり、中には豪族や徒党を組んで郷里を支配する者もいました。領地を持つ宗室や公卿大夫以下は、贅沢を競い、住居や馬車、衣服が身分を越え、際限がありませんでした。物事が栄えれば必ず衰えるのが世の常です。

7.匈奴との戦乱により民は疲弊、官僚は利益を追求しはじめる

これ以降、厳助や朱買臣らが東甌を招き入れ、二つの越と事をおこしたため、長江や淮水のあたりは静かさがなくなり、煩雑な費用がかかるようになりました。
唐蒙や司馬相如が西南夷へ道を切り開き、山を掘り通して千余里の道を造り、巴や蜀の領土を広げましたが、巴や蜀の民は疲弊しました。
彭呉が朝鮮を滅ぼし、滄海郡を置くと、燕や斉のあたりは騒然とし始めました。
また、王恢が馬邑で匈奴を欺く計略を立てると、匈奴は和平を断ち、北辺を侵略し、戦争は絶えず、天下はその苦労に耐え、戦はますます激しくなりました。
旅に出る者は食糧を携え、家にいる者は送り出し、国中が騒がしくなり、お互いに助け合いました。
しかし、民は巧みな法律に苦しめられ、財産は減り、生活が立ち行かなくなりました。物を納めた者は官職に就き、金を払った者は罪を免れ、官吏の選抜は乱れ、廉恥の念は薄れ、武力が尊重されるようになりました。法律は厳しくなり、法令は完備されました。利益を追求する官僚はここから始まったのです。

8.領土拡大に伴うロジスティック破綻

その後、漢の将軍たちは毎年数万騎を率いて匈奴を攻撃し、車騎将軍の衛青が匈奴の河南の地を奪い、朔方を築きました。
この時、漢は西南夷へ通じる道を開き、数万人が動員され、千里にわたって食糧を運びましたが、10余鐘を運んでようやく1石を届けるほどで、邛や僰の民に貨幣をばらまいて彼らを集めました。
しかし数年経っても道は通じず、蛮夷はたびたび攻撃を仕掛け、官吏は兵を発して彼らを討伐しました。巴や蜀の租税だけではこの費用を賄いきれず、豪族を募って南夷に田を作らせ、役所に穀物を納めさせ、その代金として都の官庫から銭を受け取らせました。
東の滄海郡に至っては、人々の費用は南夷に匹敵しました。
また、10万余人を動員して朔方を築き、食糧輸送は非常に遠く、山東地方の住民は皆その苦労を被り、費用は数十億にも上り、国庫はますます空になりました。
そこで、奴婢を納めた者には生涯の徭役を免除し、郎官に任じられ、官位が上がること、また羊を納めて郎官になることが、ここから始まりました。

9.戦争による経費で財政危機、ふたたび売爵

その4年後、漢は将軍と6人の将軍を派遣し、10万余りの兵で右賢王を攻撃し、首級1万5千を得ました。
翌年、大将軍と6人の将軍は再び匈奴を攻撃し、首級1万9千を得ました。捕獲や首級を挙げた兵士には黄金20万斤余りが与えられ、数万人の捕虜にも手厚い褒美が与えられ、彼らの衣食はすべて役所が賄いました。
しかし、漢軍の兵士や馬は10万余りが死に、武器や運送の費用は含まれていませんでした。
そこで大農の陳は、蓄えていた銭が尽き、賦税も尽くされたため、戦士たちを養うことができなくなりました。担当官はこう述べました。
「天子よ、私は五帝の教えは互いに同じではなく、禹王や湯王の法は異なる道で王になったと聞いております。彼らの進む道は異なっても、徳を立てることは一つでございました。
北辺が未だに安泰でないことを、朕は深く憂慮しております。先日、大将軍が匈奴を攻撃し、首級1万9千を得ましたが、多くの捕虜を留めておく場所がなく、食糧もありません。民に爵位を買わせ、また禁錮などの罪を銭で贖わせることを議してはどうかと存じます。」
そして、褒賞のための官職を設け、「武功爵」と名付けました。1級につき17万銭、総額で30万金余りになりました。武功爵を買って官吏になった者は、優先的に任命されました。千夫は五大夫と同格で、罪を犯した場合は二等の減刑を受け、爵位は楽卿にまで至ることができました。これは軍功を顕彰するためでした。
軍功による昇進は通常より優遇され、大きな功績を挙げた者は侯や卿大夫に、小さな功績の者は郎官や官吏になりました。官吏の道が多岐にわたり複雑になったため、官職は形骸化し、無駄が増えました。

10.張湯、過酷な法を立てる

公孫弘が『春秋』の義に基づいて臣下を律し、漢の宰相になって以来、張湯は詭弁を弄して事件を裁く廷尉となりました。そこで、公然と罪を明らかにする法律が生まれ、挫折させたり誹謗したりする者をとことん追及する裁判が行われるようになりました。その翌年、淮南王、衡山王、江都王の謀反の兆候が明らかになり、公卿たちがその端緒を追及し、その一党を徹底的に調べ上げた結果、数万人が処刑され、長官たちはますます厳しくなり、法令はさらに厳格になりました。

11.質素を貫く宰相公孫弘

この時、品行方正で才能ある賢人や文学の士が招かれ、公卿大夫にまでなる者もいました。公孫弘は漢の宰相として、布の布団を使い、食事は質素で、天下の手本となりました。しかし、世間の風潮を改善する効果はなく、次第に功利を追求するようになりました。

12.匈奴攻撃、大勝、しかし経費膨大

その翌年、驃騎将軍は再び匈奴を攻撃し、4万の首級を得ました。その年の秋、渾邪王が数万の兵を率いて降伏しました。そこで漢は2万台の馬車を派遣して彼らを迎え入れました。到着後、彼らは褒美を与えられ、功績のあった兵士たちも褒美を受けました。この年の費用は合わせて100億銭余りになりました。

13.10年前、黄河決壊、数万人動員するも解決できず

これより10余年前、黄河の堤防が観のあたりで決壊し、梁や楚の地はすでに何度も被害を受けていました。河に沿った郡は堤防を築きましたが、すぐに決壊し、その費用は数えきれないほどでした。その後、番系が底柱の運河輸送の費用を節約しようと、汾河と黄河に水路を掘って灌漑しようとしましたが、数万人が動員されました。鄭当時も渭水の運河輸送が迂遠であるため、長安から華陰まで直線的な水路を掘りましたが、数万人が動員されました。朔方でも水路が掘られ、数万人が動員されました。いずれも2~3年かかりましたが、完成せず、費用もそれぞれ数十億に達しました。

14.武帝馬を大量飼育、財政圧迫

天子は匈奴を討伐するために馬の飼育を盛んに行い、長安に来る馬は数万頭に上りましたが、馬を管理する者が関中だけでは足りず、周辺の郡から動員しました。降伏した匈奴の者たちは皆、役所から衣食を与えられましたが、役所の財政が不足したため、天子は自ら食事を減らし、皇帝の馬車を売り、御用金庫の秘蔵品を出して彼らを養いました。

15.山東水害、国庫は空に

その翌年、山東地方が水害に見舞われ、多くの人々が飢餓に苦しみました。そこで天子は使者を派遣し、郡国の倉庫を空にして貧しい民を救済しました。それでも足りなかったため、豪族に金銭を貸し与えるよう募りました。それでも互いに助け合うことができなかったため、貧しい民を関中以西や朔方以南の新秦中に移住させました。70万余りの人々は、衣食すべてを役所から支給されました。数年後、土地や財産が与えられ、使者が分かれて彼らを保護しました。多くの馬車や高官が行き交い、その費用は億単位で数えきれないほどでした。これにより、役所の財政は大きく空になりました。

16.貨幣発行で乗り切ろう、なんと鹿の皮の皮幣

富裕な商人たちは財を蓄え、貧しい民を働かせ、百台もの車輪を転がし、都に住み、諸侯でさえも彼らに頭を下げて助けを求めていました。鉄の鋳造や塩の製造で、財産が数万金に達する者もいましたが、国の急場を助けることはなく、庶民はますます困窮しました。
そこで天子は公卿たちと議論し、貨幣を改めて造ることで財政を賄い、財産を独占する者たちを打ち砕こうとしました。この時、禁苑には白い鹿がおり、少府には多くの銀や錫がありました。孝文帝が4銖の銭を改めて造ってから、この年まで40年余り、建元以来、貨幣の流通は少なく、役所はしばしば銅山のある場所で銭を鋳造しました。民もまた密かに銭を鋳造し、その数は数えきれないほどでした。銭は増えて軽くなり、物資は少なくなって高くなりました。
担当官は言いました。「昔、皮の貨幣があり、諸侯はこれで聘問や献上を行いました。金には三つの等級があり、黄金が上、白金が中、赤金が下でした。今、半両銭は法では4銖の重さですが、不心得者が銭の縁を削り取って金粉を得るため、銭はますます軽くなり、物価は高くなります。遠方では貨幣の流通が煩雑で費用がかかります。」
そこで、白い鹿の皮を1尺四方に切り、美しい模様で縁取り、皮の貨幣とし、その価値を40万銭としました。王侯や宗室が朝廷に参内して献上する際は、必ず皮の貨幣に璧を載せてからでなければ行うことができませんでした。

17.銀と錫で「白金」銭

また、銀と錫で「白金」を造りました。天の用には龍が、地の用には馬が、人の用には亀が最も良いとされたため、白金には三つの等級が設けられました。一つは重さ8両で円形、文様は龍で「白選」と名付け、価値は3千銭。二つ目は少し小さく方形で、文様は馬、価値は500銭。三つ目はさらに小さく楕円形で、文様は亀、価値は300銭としました。役所には半両銭を溶かして、改めて3銖の銭を鋳造させました。文様はその重さに応じたものとしました。これらの金銭を密かに鋳造する者は死罪とされましたが、官吏や民の間で白金を密かに鋳造する者は数えきれないほどでした。

18.塩と鉄の国家事業化

そこで東郭咸陽と孔僅を大農丞に任じ、塩や鉄の事業を管理させました。桑弘羊は計算能力に優れていたため、侍中として用いられました。咸陽は斉の塩の製造業者、孔僅は南陽の鉄の鋳造業者で、いずれも数千金もの財産を築いていました。鄭当時が彼らを推薦したのです。弘羊は洛陽の商人の子で、計算に長け、13歳で侍中になりました。この3人は利益に関する事柄を非常に細かく分析することができました。

19.厳格な法運用により官吏失職

法律はますます厳しくなり、多くの官吏が職を失ったり免職になったりしました。戦争が頻繁に起こり、民の多くが銭を払って徭役を免除され、五大夫の爵位を得たため、徴兵される兵士はますます少なくなりました。そこで、千夫や五大夫を官吏にすることになりましたが、それを望まない者は馬を出すことになりました。元の官吏たちは皆、上林でイバラを伐採したり、昆明池を造ったりするよう命じられました。

20.匈奴遠征成功、財政は破綻

その翌年、大将軍と驃騎将軍が大規模に匈奴を攻撃し、8~9万の首級を得ました。褒美として50万金が与えられましたが、漢軍の馬は10万匹余りが死に、運送や武器の費用は含まれていませんでした。この時、財政は枯渇し、兵士たちは俸禄を十分に得ることができなくなりました。

21.そのため更に通貨発行

担当官は3銖銭は軽くて不正がしやすいため、改めて諸郡国に5銖銭を鋳造するよう請願しました。その縁に郭をつけ、削り取れないようにしました。

22.塩鉄専売の方向

大農上塩鉄丞の孔僅と咸陽は言いました。
「山や海は天地の宝庫であり、すべて少府に属すべきものです。しかし陛下は私有化せず、大農に属させて賦税を助けておられます。
費用を自給自足できる民を募り、官の道具を使って塩を製造させ、官が釜や盆を貸し与えることを願います。
浮浪して暮らす商人たちが山海の物資を独占して莫大な利益を上げ、貧しい民を搾取しております。この事業を妨害する意見は聞くに堪えません。もし密かに鉄器を鋳造したり塩を製造したりする者がいれば、左の足に刑を科し、その道具は没収します。
鉄の産出がない郡には、小さな鉄官を置き、その県の管轄にさせます。」
孔僅と東郭咸陽を使者として派遣し、天下の塩鉄事業を運営させ、官庁を設置し、元の塩鉄業者の富裕な者を官吏にしました。官吏の道はますます複雑になり、選抜は厳格でなくなり、多くの商人が官吏になりました。

23.財産税、密告者にも利益

商人たちは貨幣の変化を利用して多くの物資をため込み、利益を追求しました。
そこで公卿たちは言いました。
「郡国の多くが災害に見舞われ、財産を持たない貧しい民がおります。彼らを広くて豊かな土地に移住させることを募ります。
陛下は食事を減らし、費用を節約し、御用金を放出して庶民を救済し、税を軽減しておられます。
しかし、民は畑仕事に励まず、商人が増えております。貧しい者は蓄えがなく、皆が役所に頼っております。
以前は、馬車に乗る商人に税を課し、それぞれに差がありました。再び昔のように税を課すことを請願いたします。すべての商人や貸金業者、売買を行う者、都にいて物資をため込む者、そして利を得るために商いをする者は、市場に登録していなくても、各自その財産を自己申告させ、2千銭の財産につき1算(120銭)を課します。
また、作物を栽培したり鋳造したりする者は、4千銭の財産につき1算を課します。官吏や三老、北辺の騎士以外で、馬車に乗る者は1算、商人の馬車は2算、5丈以上の船は1算とします。
隠して申告しない者、すべてを申告しない者は、1年間の辺境への服役に処し、財産は没収します。
告発する者には、その財産の半分を与えます。
市場に登録している商人やその家族は、農地の所有を許さず、農業を保護します。
この法令を犯す者は、土地と奴隷を没収します。」

24.卜式登用

天子は卜式の言葉を思い出し、彼を中郎に任じ、爵位を左庶長とし、10頃の田畑を与え、このことを天下に布告して人々に知らしめました。

25.才能ある正直者、卜式

卜式は河南の人で、田畑を耕し家畜を飼うことを生業としていました。
両親が亡くなると、卜式には幼い弟がいましたが、弟が成人した時、卜式は自ら身を引いて財産を分け与え、百頭余りの羊だけを取り、田畑や家屋、財産すべてを弟に与えました。卜式は山に入って10年余り牧畜し、羊は千頭余りに増え、田畑や家屋を買いました。一方、彼の弟は財産をすべて使い果たしましたが、卜式は再び弟に財産を分け与えることを何度かしました。
この時、漢はしばしば将軍を派遣して匈奴を攻撃しており、卜式は上書して、家の財産の半分を役所に納めて辺境の防衛を助けたいと願いました。天子は使者を送って卜式に尋ねました。
「官職に就きたいのか?」
卜式は答えました。
「私は若い頃から牧畜をしており、官吏になることに慣れておりません。望んでおりません。」
使者は尋ねました。
「家族の中に冤罪があって、訴えたいことがあるのか?」
卜式は答えました。
「私は人と争いをしたことはありません。村の人々の貧しい者には貸し与え、行いの悪い者には道理を説いて教え導きました。私が住む場所の人々は皆私に従っております。どうして人に冤罪をかけられることがありましょうか!何も訴えたいことはありません。」
使者は言いました。
「もしそうなら、なぜそのようなことをするのか?」
卜式は答えました。
「天子様が匈奴を討伐しておられます。愚か者ながら、賢者は辺境で命を捧げるべきであり、財産を持つ者は財を納めるべきだと考えております。このようにすれば匈奴を滅ぼすことができるでしょう。」
使者はその言葉をすべて報告しました。天子は丞相の弘にこの話をしました。弘は言いました。
「これは人間の常情ではありません。法を乱す不心得者を教化の手本にすることはできません。陛下におかれては、お許しにならないよう願います。」
そこで天子は長い間、卜式に返事をせず、数年後に卜式を帰らせました。卜式は故郷に帰り、再び田畑を耕し牧畜を始めました。

1年余り後、軍がたびたび出征し、渾邪王らが降伏したため、役所の費用が増え、倉庫は空になりました。その翌年、貧しい民が大勢移住し、皆が役所から食糧を支給されましたが、すべてを賄いきれませんでした。卜式は20万銭を河南太守に持っていき、移住した民に与えるようにしました。
河南太守が貧しい民を助けた富裕な者の名簿を上奏すると、天子は卜式の名を見て、以前に家の半分を辺境に助けたいと願った者だと気づきました。
そこで卜式に、徭役を免除された400人を与えました。卜式はまたすべてを役所に与え直しました。この時、裕福な者たちは皆財産を隠そうと争いましたが、卜式だけが特に財を納めて費用を助けようとしました。
天子は卜式を本当に徳の高い人物と考え、彼を尊び顕彰し、民に手本とさせました。

26.卜式の出世

最初、卜式は郎官になることを望みませんでした。天子は言いました。
「私の持つ羊を上林苑で牧畜させてやろう。」
卜式は郎官の職を受け、粗末な服と草履で羊を放牧しました。1年余り後、羊は太って増えました。天子がその羊を見て、その見事さに感心しました。卜式は言いました。
「羊だけでなく、民を治めるのも同じでございます。時宜に応じて生活をさせ、悪い者をすぐに追い払い、群れを乱させないようにすればよいのです。」
天子は卜式を非凡な人物と考え、緱氏県令に任じて試させました。緱氏県は卜式の治世を便利で良いものとしました。その後、成皋県令に昇進し、運河の輸送を最もよく管理しました。天子は卜式の素朴で忠実な人柄を高く評価し、彼を斉王の太傅に任命しました。

27.桑弘羊、均輸はじめる

一方、孔僅が天下の鋳造事業を運営して3年後、彼は大農に任命され、九卿の位に列せられました。そして桑弘羊は大農丞となり、すべての会計を管轄し、徐々に均輸(物資の価格を平準化する制度)を設けて物資の流通を円滑にしました。

28.穀物で官位を買える

官吏が穀物を納めることで官職に就くことが許され、郎官の位は六百石にまで至りました。

29.私鋳横行

白金と5銖銭を造ってから5年後、密かに金銭を鋳造した罪で死罪となった官吏や民は数十万人に上りました。発覚せずに互いに殺し合った者は数えきれないほどでした。自首して罪を免れた者は100万人余りでした。しかし、自首した者は全体の半分にも満たず、天下のほとんどの者が金銭を密かに鋳造していました。犯人があまりに多いため、官吏はすべてを処刑することができませんでした。そこで博士の褚大や徐偃らを派遣し、組に分けて郡国を巡回させ、財産を独占する者や、太守や宰相が私利を貪る者を告発させました。また、御史大夫の張湯が権勢を誇り、減宣や杜周らが中丞となり、義縦や尹斉、王温舒らが残酷で苛烈な手段で九卿に任じられ、夏蘭のような直接追及する官吏が初めて現れました。

30.内心で不満を抱くと死罪

大農の顔異が処刑されました。顔異は最初、済南の亭長でしたが、清廉で正直であったため、次第に九卿にまで昇進しました。
天子は張湯と白鹿皮の貨幣を造った後、顔異にそのことについて尋ねました。顔異は言いました。
「今、王侯が朝賀に捧げる蒼璧は数千銭の価値しかありませんが、その皮の台はかえって40万銭です。本質と末梢の価値が釣り合っておりません。」
天子はこれを不快に思いました。張湯は顔異と確執があったため、ある人が顔異が別のことを議論していると告発し、事件は張湯に下され、顔異を裁くことになりました。顔異は客と話していた際、新しく下された法令に不便な点があるという客の言葉に対し、何も言わずにわずかに唇を反らせました。
張湯は顔異が九卿の身でありながら、法令の不便さに気づきながらも口に出して言わず、内心で不満を抱いたとして、死罪に論じました。
これ以降、「腹誹の法」という法律が生まれ、公卿大夫の多くがへつらい、ご機嫌を取るようになりました。

31.緡銭(自己申告財産税)

天子が緡銭の法令を下し、卜式を尊んだ後も、民は財産を分けて役所を助けようとする者はいませんでした。そこで(楊可の)緡銭の告発が天下に広まることになりました。

32.私鋳銭への対応としてまたあたらしい銭発行

郡国の多くで不正な銭が鋳造され、銭は軽くなりました。そこで公卿は都で「鐘官赤側」を鋳造するよう請願しました。この銭は一つで五つの価値があり、役所の用度では赤側でなければ通用しないとされました。白金は次第に価値が下がり、民はこれを宝として用いなくなりました。役所は法令でこれを禁じましたが、効果はありませんでした。1年余り後、白金は結局廃止され、通用しなくなりました。

33.酷吏張湯死す

この年、張湯が死にましたが、民は彼を惜しむことはありませんでした。

34.通貨発行政府が独占

その2年後、赤側銭は価値が下がり、民は巧みな方法でこれを使うため不便になり、再び廃止されました。そこで、すべての郡国で銭を鋳造することを禁じ、上林の三官で専ら鋳造させることにしました。銭が増えてくると、天下で三官銭以外は通用しないと命じ、諸郡国で以前に鋳造された銭はすべて溶かして、その銅を三官に納めさせました。そのため、民が銭を密かに鋳造する者はますます少なくなりました。その費用が割に合わなくなったからです。本当に巧みな悪党だけが密造を続けるようになりました。

35.自己申告財産税により国庫充実

卜式が斉の宰相になった頃、楊可による緡銭の告発が天下に行き渡り、中流以上の家庭は皆告発されました。杜周がこれを裁きましたが、裁判で無罪になる者はほとんどいませんでした。
そこで御史や廷尉、監察官を分隊させて郡国に行かせ、緡銭の事件を裁かせました。これにより役所が得た財物は億単位に上り、奴婢は千万人に数えられ、田畑は大きな県では数百頃、小さな県では百頃余り、宅地も同様でした。
これにより、商人や中流以上の家庭はほとんどが破産しました。民は楽な生活と良い衣服を好み、財産を蓄える産業に勤しまなくなりました。しかし、役所は塩鉄と緡銭の収入があったため、費用はますます豊かになりました。

36.直轄地行政区画拡大

関中を広げ、左右輔(長官)を置きました。

37.造船、および宮殿増築

大農が塩鉄官の布を多く管轄するようになった時、水衡官を置いて塩鉄を管理させようとしました。楊可が緡銭を告発し、上林苑の財物が多くなると、水衡官に上林苑を管理させました。上林苑が満たされると、さらに広げました。この時、南越は漢と船で戦おうとしていたため、昆明池を大々的に修築し、その周りに離宮を並べました。10丈余りの高楼船を造り、その上に旗を掲げ、非常に壮観でした。そこで天子はこれに感じ入り、数十丈の高さの柏梁台を造りました。宮殿の修築はこれ以降、ますます豪華になりました。

38.自己申告財産税により官員増大

緡銭の財物は各官庁に分配され、水衡、少府、大農、太僕のそれぞれに農官が置かれ、没収した田畑を管理させました。没収した奴婢は、苑で犬や馬、鳥獣を飼育させるために分け与えられたり、他の官庁に与えられたりしました。官庁はますます多くなり、奴隷も増え、黄河からの運河輸送は年間400万石を必要とし、さらに役所が自ら米を買わなければ足りませんでした。

39.株送徒、郎官に

所忠は言いました。
「富裕な世家の若者たちは、鶏を闘わせたり、犬を走らせたり、狩りをしたり、博打をしたりして、庶民の秩序を乱しております。」
そこで、この法令に違反した者たちを数千人召集し、「株送徒」と名付けました。財を納めた者は郎官に任じられましたが、郎官の質は低下しました。

40.黄河氾濫、江南と巴蜀で救済

この時、山東地方は黄河の氾濫に遭い、さらに数年間不作が続いたため、方一二千里の範囲で人々が互いに食い合う状態になりました。
天子はこれを憐れみ、詔を出しました。
「江南では火耕水耨(焼き畑と水田耕作)が行われており、飢えた民を長江と淮水の間で自由に移動させ、定住を望む者はそこに住まわせなさい。」
使者は冠や馬車を連ねて道に並び、彼らを保護しました。また、巴蜀の穀物を下して彼らを救済しました。

41.辺境対策

その翌年、天子は初めて郡国を巡幸しました。
東で黄河を渡る際、河東太守は天子が来ることを予期していなかったため、準備ができず、自殺しました。西で隴山を越える際、隴西太守は巡幸が急であったため、天子のお供の官吏が食事を得られず、隴西太守は自殺しました。
そこで天子は北の蕭関を通り、数万騎を率いて新秦中で狩りを行い、辺境の兵を訓練してから帰りました。新秦中には千里にわたって砦や監視所がなかったため、北地太守以下を処刑し、民には辺境の県で牧畜を営むことを許しました。
役所が雌馬を貸し与え、3年後に返すこととし、その繁殖した馬の1割を納めさせることで、緡銭の告発を免除し、新秦中を充実させました。

42.封禅

宝鼎を得て、后土と太一の祠を立てると、公卿は封禅の儀式を議論しました。天下の郡国は皆、道路や橋をあらかじめ修理し、古い宮殿を修繕しました。そして巡幸の道筋にあたる県は、役所の倉庫を整備し、食糧や物資を準備して天子を待望しました。

43.辺境対策、ロジ充実

その翌年、南越が反乱を起こし、西羌が辺境を侵略して乱暴な振る舞いをしました。
そこで天子は、山東地方が豊かでないため、天下の囚人を赦し、南方の楼船兵20万余人を動員して南越を攻撃させました。
数万人の兵は三河以西の騎兵を発して西羌を攻撃し、さらに数万人は黄河を渡って令居に城を築きました。初めて張掖郡と酒泉郡を置き、上郡、朔方、西河、河西に屯田官を設け、60万人の兵士を辺境の屯田に就かせました。
中原の人々は道路を修繕して食糧を運び、遠い者は3千里、近い者は千余里の道のりを運び、すべて大農に頼って賄われました。
辺境の兵士の武器が不足したため、武庫や工官の兵器を発して彼らを補給しました。
馬車や馬が不足し、役所の銭も少なかったため、馬を買うことが困難になりました。そこで法令を定め、諸侯以下、三百石以上の官吏まで、身分に応じて雌馬を天下の宿駅に出させ、宿駅で雌馬を飼育し、毎年その繁殖した馬を課しました。

44.卜式、御史大夫に

斉の宰相であった卜式は上書しました。
「臣が聞くところによれば、主が憂えば臣は辱められます。南越が反乱を起こしました。臣は父子で船の扱いに習熟した斉の人々を連れて行き、命を捧げることを願います。」
天子は詔を下しました。
「卜式は自ら田を耕し牧畜をしておりながら、利益を求めず、余剰があれば役所の用に供してくれた。今、天下に不幸にも急場が起こり、卜式は父子で命を捧げることを願い出た。まだ戦ってはいないが、その義は心に形として現れていると言えよう。関内侯の爵位と60斤の黄金、10頃の田畑を賜う。」
天下に布告しましたが、誰もこれに応じませんでした。列侯は数百人もいましたが、誰も羌や越を攻撃する軍に従うことを求めませんでした。
冬の酎祭の際、少府は献上された黄金を調べ、酎金の不足を理由に列侯の位を失った者は百余人に上りました。そこで卜式は御史大夫に任じられました。

45.卜式の船税批判

卜式は位に就くと、郡国で役所が塩や鉄の事業を行うことが不便であると感じました。鉄器は品質が悪く、価格は高く、時には民に強制的に売買させていました。また、船に税金が課せられたため、商人が少なくなり、物価が高くなりました。そこで孔僅を通して船の税金について上奏しました。天子はこの時から卜式を快く思わなくなりました。

46.塩鉄と均輸で外征成功

漢は3年間連続して戦争を続け、羌を討伐し、南越を滅ぼしました。番禺以西から蜀の南に至る地域に新たに17の郡を置き、当面は彼らの古い風俗のままに治め、賦税は課しませんでした。
南陽や漢中以南の郡は、それぞれの土地の比率に応じて、新しい郡の官吏や兵士の俸給、食糧、貨幣、そして伝馬や馬車の費用を支給しました。
しかし、新しい郡では時々小さな反乱が起こり、官吏が殺されました。漢は南方の官吏や兵士を派遣して彼らを討伐し、1年おきに1万人余りが動員されました。その費用はすべて大農に頼って賄われました。
大農は均輸や塩鉄の収入を調整して賦税を助けたため、それを賄うことができました。しかし、兵が通過する県では、財産に応じて不足がないようにするだけで、勝手に賦税を定めることは許されませんでした。

47.卜式降格、大農による経済制御

その翌年、元封元年、卜式は太子太傅に降格されました。
一方、桑弘羊は治粟都尉となり、大農を管轄し、孔僅に代わって天下の塩鉄をすべて管理しました。
弘羊は、各官庁がそれぞれに物を買うと、互いに競い合って物価が高騰し、天下の輸送費用が運賃に見合わないことがあると考えました。
そこで大農部丞を数十人置くことを請願しました。彼らを郡国に分けて派遣し、各地に均輸塩鉄官を置きました。
遠方からは、商人が転売する際に価格が高い物資を賦税として納めさせ、互いに融通させました。
都には平準官を置き、天下から納められた物資をすべて受け入れました。
工官(職人)を呼び集めて車などの道具を作らせ、その費用はすべて大農に頼りました。
大農の各官庁は天下の物資をすべて独占し、価格が高ければ売り、安ければ買いました。このようにすることで、富裕な商人たちは大きな利益を得ることができなくなり、本業に戻り、万物の価格が高騰することがなくなりました。そのため、天下の物資の価格を抑えることを「平準」と名付けました。
天子はこれを正しいと考え、許可しました。そこで天子は北は朔方まで、東は泰山まで、海岸を巡り、北辺を経て帰還しました。通過する場所で与えられた褒美は、絹が100万匹余り、銭や黄金が数億にも上りましたが、すべて大農が賄いました。

48.国庫充実による財産税緩和

弘羊はまた、官吏が穀物を納めて官職に就くことや、罪人が罪を贖うことを許すよう請願しました。
民には甘泉(にある倉庫)に穀物を納めさせ、身分に応じて生涯の徭役を免除し、緡銭の告発をしないようにしました。
他の郡は急を要する場所に穀物を運び、各農家も穀物を納めました。
山東地方からの運河輸送は毎年600万石増えました。1年のうちに、太倉と甘泉の倉庫は満杯になりました。辺境には穀物やその他の物資が余り、均輸によって絹500万匹が運ばれました。民の賦税は増えませんでしたが、天下の費用は豊かになりました。そこで弘羊には左庶長の爵位と黄金200斤が与えられました。

49.旱魃、卜式の桑弘羊批判

この年、わずかに旱魃がありました。天子が官に雨乞いをさせると、卜式は言いました。「役所は租税と賦税を食料とし、衣料とするのが当然でございます。しかし、今、弘羊は官吏に市場で商売をさせ、物を売買して利益を求めております。弘羊を煮殺せば、天は雨を降らせましょう。」

50.まとまらないまとめ

太史公は言います。
農業、工業、商業の取引の道が開け、亀貝、金銭、刀貨、布貨の貨幣が興りました。その由来は非常に古く、高辛氏以前に遡りますが、記録することはできません。故に『書経』は唐や虞の時代を語り、『詩経』は殷や周の世を述べています。
世が安寧な時には、学校で秩序を重んじ、根本である農業を重んじ、末梢である商業を軽んじ、礼儀をもって利欲を防ぎました。
しかし、世の中が多くの変事に見舞われると、またこれとは逆になりました。そのため、物事が栄えれば必ず衰え、時が極まれば転換し、質素と文飾が交互に現れるのが世の移り変わりです。
『禹貢』では九州が、それぞれの土地の産物や人口に応じて職務を納めていました。湯王や武王は弊害を継承して改革し、民を疲れさせず、それぞれが政治のために懸命に努力しましたが、次第に衰退しました。

斉の桓公は管仲の謀略を用い、軽重(物価の調整)の権を操り、山海の産業を独占して諸侯に朝貢させ、小さな斉の国で覇者の名を成し遂げました。
魏の文侯は李克を用いて、土地の生産力を最大限に引き出し、強国となりました。
これ以降、天下は戦国時代に突入し、権謀術数を貴び、仁義を軽んじ、富を先にし、譲ることを後にしました。そのため、庶民の富裕な者は数億万の財産を蓄える一方で、貧しい者は酒粕や糠すら満腹に食べられない者もいました。
国が強い者は小さな国を併合して諸侯を臣下にし、弱い国は祭祀が絶え、滅亡しました。秦に至っては、ついに天下を統一しました。

虞や夏の貨幣は、金が三つの等級に分かれ、黄、白、赤がありました。また、銭、布、刀、亀貝などがありました。秦に至って、一国の貨幣は二つの等級に統一されました。黄金は「溢」という単位で呼ばれ、上貨幣とされました。銅銭は「半両」と記され、その文字通りの重さで、下貨幣とされました。珠玉、亀貝、銀、錫などは器や装飾品、宝物とされ、貨幣とはなりませんでした。
しかし、それぞれ時勢に応じて重さや価値は一定ではありませんでした。

外には異民族を払い、内には大事業を興しました。しかし、国内の男は一生懸命耕作しても食糧が足りず、女は紡績をしても衣服が足りませんでした。古来より天下の資財をすべて上に捧げても、それでも足りないと思っていたものです。これは以前とは異なっているわけではなく、物事の成り行きが互いに影響し合った結果であり、どうして不思議に思うことがあろうか。


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