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心の理論(Theory of Mind)2・新皮質と辺縁系

大脳辺縁系

前回の記事はこちら。

まずはこちらの図を見ていただきたいのですが、

人間が目でも耳でも情報伝達できるメディアはこう配置されています。詳しくはこちらです。

ところで、大脳の新しい部分、知性を司る部分を「新皮質」と言い、古い感情、本能を司る部分を「辺縁系」と言います。内側の古い脳が辺縁系、ホモサピエンスとして新しく発展させた脳が新皮質です。

先ほどのコミニュケーション・サークルでは、だいたいこういう配置です。向かって右が新皮質の活動、向かって左が辺縁系の活動です。

前回触れたダウン症の人達などは、計算はだいたい苦手ですが、音楽はさほど苦手ではない。計算が苦手なのは新皮質が通常より薄いからです。向かって右側の領域は苦手、でも左側の共感能力は得意です。辺縁系には問題ないからです。

物語を知性的に色々工夫するのは新皮質よりの活動、物語の目的である感情の発露は辺縁系よりの活動とみなして、だいたい良いかと思います。だから物語は、しばしば音楽的な構成を持つことがあるのではないでしょうか。

人間もれっきとした動物の一種です。古い動物脳の部分は普段は意識されませんが、最終的に人間を動かすのは辺縁系の働き、感情です。新皮質の機能はだいたいAIで代用できそうですね。ですから今後の人類は辺縁系の発露が重要になると予測されます。

文学論争

戦前のイギリスにバージニア・ウルフという女流作家が居ました。「ダロウェイ夫人」の作者です。

非常に頭が良く、小難しくも精密な作品を書いた人なのですが、彼女は1924年頃、かなり挑発的な発言をしています。

「1910年12月ごろ、人間の性は変わった、というものです。
庭に出て、バラが咲いたとか、雌鶏が卵を産んだとか、そんなふうに目撃したと言っているのではありません。変化とは、そのように突然で明確なものではありませんでした。それでも、変化は確かにあったのです。」

社会階級の平等化が進み、個人が自由になり、それで人間の性格が変化したということを言いたかったようです。
全文は長いのでこちらに掲載しておきました。Gemini翻訳です。

読むと頭の良さにかなり驚きます。なるほど優れた人です。しかし二度読むと少しうんざりします。頭は整理されていますが、言語として遅い。文字数あたりの意味効率が低いのです。清少納言の国に生まれたことを感謝したくなります。今の日本の女流作家さんなら、この三分の一くらいの文字数で同じことを語れるのではないでしょうか。でも主張としては面白いですね。蓮実重彦や柄谷行人が似たようなことを言っていたような気もしますが、特に調べ直しません。

ウルフの主張を手っ取り早く得心したければ、1913年にバーナード・ショーが書いた「ピグマリオン」という戯曲が、「マイフェアレディ」という映画になっていますので、それをご覧になると良いです。主題は「国語の誕生と国民の誕生」です。国語をマスターした下層の娘が上流階級と対等になってしまう、成り上がり物語です。

こちらの歌は聞いたことがある方が多いのではないでしょうか。

今日ではウルフの主張は例えば、「その頃文庫本シリーズが登場した、だから人々の意識が変わったのだ」といった風の、社会の流れと合わせて語る、エマニュエルトッド色のものになると思われますが、しかし主張自体はそれなりには正しいです。

そのウルフの主張に文句をつけたのが、言語学者のスティーブン・ピンカーです。ピンカーは「人間の本性を考える(2002)」の第20章「芸術」で、

ウルフの「1910年12月ごろ、人間の性は変わった」という主張を否定し、その後のモダニズム、ポストモダニズムをこきおろします。人間のDNAは変わっていないと。インテリたちが芸術をこねくりまわして歪めただけだと。

モダニズム、ポストモダニズムに問題がないとは言いません。奇抜な文化というのは、往々にして無理にひねり出した階級誇示です。
文化には階級を誇示する要素がどうしてもあります。階級ファッションです。ヴェルサイユ宮殿の装飾は、王権の強大さを誇示するものです。無駄に誇示しすぎて市民革命が発生しました。では革命で万民が平等になったか。なりません。市民社会とは官僚社会、つまりエリート社会、つまり知力階級社会です。知力が高い者が知力が低い者を支配します。
支配者階級の「知力」を誇示し、支配を安定させるための道具が、モダニズム、ポストモダニズムの奇抜な文化です。難解で、とっつきにくく、破壊的です。なにしろ知的エリートたちは血筋が高貴なわけでもないのに社会を支配するのですから、支配の正統性という意味では弱い。正統性のなさから来る恐怖心が、虚勢となって過剰に知的な装いを取りたがる。見苦しいですね。

その意味でピンカーの主張自体もそれなりには正しいのですが、実は批判されている当のウルフの文の内容は、「平等社会になったからこそ零落し、忘れ去られてゆくブラウン夫人を真に理解し描写しようとする態度が、文学を発展させるのだ」です。つまりウルフ自身はモダニズムの問題をあらかじめ先取りして把握しているのです。そこがピンカーは読めていません。
ピンカーという人は才人なのですが、妙に思考が散らばってまとまらない人という印象を持っています。この箇所でも「言っていることは部分的に正しく、部分的に浅い」、いつものピンカーです。しかしピンカー論が本稿の主題ではありませんので、次の話題に映ります。

リサ・ズンシャイン

ズンシャインという学者が居まして、認知科学と文学をまとめて考えることをしています。こちらのpdfにはピンカーのウルフ批判への逆批判を掲載しています。

私は全文Geminiで翻訳して読んでいるのですが、著作権の関係で掲載できません。かわりに全体のインフォグラフィックを掲載します。簡易バージョンと詳細バージョン作りました。表中のToMというのはTheory of Mind(心の理論)の略称です。

本稿の内容に沿ったピンカーのウルフ批判に関する部分のみインフォグラフィックにしたのがこちらです。

ズンシャインの見方によれば、実験的な小説技法はモダニズム、ポストモダニズムのみの問題ではなく、昔からあったもので、その本質は「心の筋トレだ」となります。
しかし心の筋トレなら、物語を読まずともスマリヤンのパズルを解いていれば良いのです。そちらのほうが効率が良い。スマリヤンをご存じない方の為に、Geminiに教えてもらったスマリヤンの問題です。

騎士と曲者の問題
ある島には、2種類の住人がいます。
騎士(Knight): つねに真実を言う。
曲者(Knave): つねに嘘を言う。

あなたは島でAとBという2人の住人に出会いました。Aがあなたにこう言いました。
「私たちが2人とも曲者であるか、あるいは、少なくとも一人は曲者である」

さて、AとBはそれぞれ「騎士」でしょうか、それとも「曲者」でしょうか?

スマリヤンはこういうのを延々とやってゆきます。それはそれで知力は向上するのですが、物語愛好家が全てスマリヤン愛好家になるとは思えません。パズルはパズル、物語は物語です。

本稿冒頭の図に戻ってみましょう。

物語にはそれなりに入り組んだ状況、知力を使うシーンは存在します。しかし物語の本質は、辺縁系への刺激、活性化です。
語りの技術の向上も確かに存在はしています。例えば、クリストファー・ノーラン監督の「オッペンハイマー」

極めて複雑な時系列を持ちながら、単純時系列作品よりもむしろ分かりやすくなっています。時系列入れ替えが頻繁な作品は、過去のイベントが現在の事件の原因となったことを述べる場合、記憶能力に負荷をかけずに、わかりやすく説明することが出来ます。
これがまるごと現在、丸ごと過去というスタイルの作品、例えば漱石の「こころ」の場合、

「上」で現在の状況をある程度記憶して、その後「下」で過去語りを読むというスタイルになるのですが、当然記憶負荷がかかります。一度読んだだけで「こころ」の「上」を綺麗に記憶し、その上で後半を読み進めるのならば正しい読解になりえますが、ほとんどの人には無理です。少なくとも私には絶対に無理です。記憶メモリーの時間的耐久力が小さいからです。後半冒頭を読み始める時には、前半の内容あらかた忘れている。
ところが「オッペンハイマー」ならば、過去のイベントの直後にそれの結果としての現在のイベントが出現しますから、記憶負荷を極端に小さくできている。こういう物語技術上の工夫の恐らく最先端の傑作が、

「葬送のフリーレン」です。オッペンハイマーと同じく、頻繁に過去と現在が切り替わります。しかし視聴者は尖がった作品ではなく、リラックスして楽しめる作品として受容します。知的筋トレの要素は少ない。物語技術が進化するとこうなるのです。自然さを獲得しています。
となるとズンシャインの「物語の技術は発展する」という説は正しいですが、「物語技術により脳の筋トレができる」という説はあやしい。どんな技術も発展するほど脳の筋トレ要素は小さくなるのです。快適になりますから。
実はこの議論に資すると思って、最近「アステロイド・シティ」の読み解きをやりました。物語技術を詰め込んでいます。

詰め込んでますが、技術の消化が不十分です。面白くありません。わかりにくいだけです。ウルフならばこの作品を肯定し、ピンカーならば否定し、ズンシャインならば肯定するのでしょうね。私は鑑賞者ですから評価しません。ガッツのすばらしさは認めますが。以上まとめます。

  1. 物語はコミニュケーションサークル向かって左側、大脳辺縁系、情動の刺激のために存在している。

  2. ウルフは、時代が変わったのだから新しい人間の叙述の方法を見つけなければならない、と言った。

  3. ピンカーはそれに反して、人間のDNAは変わっていないのだから、新しいものを追いかけ難解な作品を量産するのは間違っている、と言った。

  4. ズンシャインは、複雑難解な物語は昔からあり、叙述の技術なのだから発展してゆくものだ、難解さは脳の筋トレとして必要なのだ、と言った。

私の見解では、バージニア・ウルフがそもそも1.5流の作家であるのが問題の根源です。彼女なりに小説技術を探求しましたが、技術を極められなくて中途半端なものに、つまり難解なわりに内容が薄いものになった。
当然ピンカーは「この技術探求に意味あんの?」と感じるわけで、ズンシャインも「いや脳の筋トレには良いのだ」と言うしかない。ではなんでそんな1.5流の作品が議論の中心になってしまうのか。それは難解すぎて、読解できなかったからです。意味がわからないものだから「優れた、時代を代表する作品だ」ということになってしまったのです。なんのこっちゃです。
ゴリゴリ表を作って検討すれば私にも読解できるのですが、その程度の作業さえしないのが文学研究の悪しき伝統でして、読解の方法論というものがまるでない。
方法論がないから読解できず、読解できないから神格化するしか手が無く、神格化するから上から見るのではなく反発、賛同の議論になってしまう。非生産的です。
まずは読解することです。絵を語るならば見ることです。料理を語るなら食べる事です。文学を語るなら読解することです。料理を食べない料理研究は無意味です。皆目味がわからないのですから。

将軍たちの恋愛

児玉源太郎が浄瑠璃本を読んでいたという話があります。クトゥーゾフが恋愛小説読んでいたという話もあります。

両者とも名将です。どうして名将は恋愛小説を読むのか。ここまで読んでいただけますとお分かりだと思います。人間の非知性的な部分、辺縁系の部分の探求のためです。

恋愛本の複雑さなんぞたかが知れています。知的負荷としては薄弱です。でも常に本能というか情動が熱心に描かれています。戦争のような本能が極限まで引き出される状況では、本能世界の研究しか役に立たない。自分も相手も死の恐怖にまみれているからです。本能が剥き出しになっている環境だからです。

考えてみれば、経済でも必要なものはアニマル・スピリッツですし、「相手の恐怖心を読む」作業は政治状況把握の第一歩のはずです。でも経済学でも政治学でも、観測主義というか、客観主義というか、情動的な部分はできるだけ回避するようになっています。だから現実世界にそぐわない。最も情動に近いはずの文学研究でさえ、「技術そのものに脳の筋トレとしての意味が有る」と言い出す。多分彼らは、人間そのものにさほど興味がないのです。
ウルフのことは悪く書きましたが「決して、断じてブラウン夫人を見捨てない」の一言が言えるのです。人間に対する愛着があるのです。

Aiにより過去の文系的知的努力は、ほぼ無意味になりつつあります。人類は巨大な大脳新皮質を手に入れてしまった。今後の人類の仕事は愛情、共感能力、辺縁系の刺激になると思います。物語読解はそれに大きく資するものだと思っております。

(心の理論・終)


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