「火の鳥・異形編」あらすじ解説【タイムループ研究】【手塚治虫】
タイムループとタイムリープは似ているけど違います。ぐるぐる廻るのがループです。飛び移るのがリープです。
あらすじ
あらしの夜、侍と従者が山を登っています。

二人は蓬莱寺に辿り着きました。侍(実は女)は尼を殺しに来ました。尼はなぜか平然としていて、あなたはもう抜けられないと言います。

翌日尼を埋葬して、寺から船で帰ろうとします。しかし船が難破して元の場所に戻されます。

陸路で帰ろうとしてもいつの間にか元の場所に戻っています。まるで友引町です。とりあえず寺に帰って休みます。
回想シーンです。

病気を患う領主の元に尼が呼ばれます。領主の息子(実は娘)左近介は驚きます。尼が自分にそっくり、自分が年取った姿そのままなのです。尼は病気は治せると言って寺に戻ります。左近介は尼の暗殺を決意します。尼を生かしておくと、父の病気が治ります。父には死んでもらわなければならないのです。
と言っていると、近所の百姓が舟で蓬莱寺にやって来ます。殺人を誤魔化すために尼の姿になって顔を見せると、例年通り病気を治してくれと言います。治し方がわからず逆に質問すると、光る羽でなでたと回答します。

羽は仏像の中に入っていました。それでなでると実際病人は治るのです。尼はこれで父を治そうとしていたのだろう、と納得します。

でもこれを持って城に帰る気はありません。父は鬼のような人です。

恋した人も殺されました。父はそのまま病気で死なせるのが世の為人の為です。

そのまま寺に留まり続けると、ある日湖(琵琶湖)の向こうの空が真っ赤に燃えているのを目にします。舟で人が運ばれてきますが、皆死んでいます。対岸で戦争があったのでしょう。旗もあります。自分の家の旗です。父が戦っているのです。でも少し変です。旗には応仁二年(1468年)と書かれています。左近介の生まれるずっと前です。時間が逆行しているのです。空間的に閉じ込められ、時間も不思議な動きをしています。

ショックで寝込みますが、目を覚ますと戦乱の難民が押し寄せてきています。みな傷ついています。羽を持ち出して治してあげます。

左近介はいっそのことと髪を下ろして尼になりきります。戦乱が終わるまで人を救う覚悟です。

やがて人とは思えない化け物も続々やって来ます。左近介は慈悲を発して全て治療してゆきます。

そうして時は過ぎ、やってきた村人に俗界の状況を聞きます。村人は領主を恐れています。お世継ぎが生まれたそうです。名前を左近介と言います。

そうです。自分が生まれたのです。もう一人の自分はやがて自分を殺しに来ます。逆に言えば、自分が殺したあの尼は自分だったのです。因果応報です。恐ろしいです。
すると夢に火の鳥が出てきます。あなたは尼を斬った罪でここに囚われている。残された時間、訪れるものの命を救え。それにより罪は減ってゆく。三十年ごとに時間はいったん現在に戻る。その一日だけ外に出られる。その時もしも罪が消えていれば外の世界に逃れられる。

目覚めた左近介は殺されるまでの間、より一層生命を救ってゆこうと考えます。
やがて八儀家正、つまり左近介の父から使者が来ます。病気だから来てほしいと。そうです。今日は三十年前の「あの日」です。あの日と同じように雨が降っています。

お城に行くと、若き日の自分が居ます。治療を約束して寺に帰り、可平を脱出させます。

入れ替わりに、若き日の左近介と可平が来ます。冒頭と同じシーンです。尼(左近介)は冒頭と同じように左近介に斬られます。

(あらすじ・終)
菩薩
「ビューティフル・ドリーマー」のループは輪廻転生という仏教教義の説明でした。本作の仏教的な解釈は、「菩薩の描写」です。

菩薩様は修行中の人です。仏様ではありません。色んな菩薩が居ますが、観音様などは仏になれるのに、あえて菩薩の地位に留まって衆生を救済しつづけます。観音様は元来男なのですが、女性の姿で描かれることが多いです。西遊記でも「行かず後家」と悟空に悪口言われているくらいです。
左近介の変じた尼は、まさに観音菩薩です。輪廻からは解脱せず、生まれ変わり死に変わっても衆生救済しつづけます。最後に可平を脱出させるとき、左近介も脱出できるかどうかわかりませんが、脱出にトライすることは出来たのです。でもそれを意図的にしなかった。まさに菩薩です。
仏教は日本文化の中にとことんしみわたっていますから、こういうキャラが普通に登場しますし、読者も普通に理解できます。

構成分析
こういう構成です。

ループ構成ですから反復構成の一種ですが、反復されるのは冒頭と最後の部分のみです。

ただし、18歳(満年齢か数えかは不明)の左近介が一気に30年前にループします。自分の年齢以上に遡るのが本作の特徴です。時系列を表にしてみるとこうなります。

実は手塚の時間設定、かなりいい加減です。自分が生まれたというニュースを聞いてショックで寝ていて、火の鳥を夢に見るシーンですが、火の鳥は「残された二十年」と言っています。しかし左近介が尼を殺しに来るのは、(満年齢か数えかは不明ですが)18歳の時なのです。2,3年ズレています。

タイムループした時点は作中の何時なのかという問題も有ります。尼を殺したほぼ翌日、左近介たちが脱出不能と認識した直後に村人たちが寺に来ます。この時は村人は尼の顔を憶えています。実は大幅に若返っているのですが、目鼻が同じなので同一人物だと村人は認めます。昨年も一昨年も治療してもらったと村人は主張します。

一方しばらく経過して、応仁二年の旗が漂着した時も左近介は難民を治療するのですが、難民が尼の顔を知っているという記述はありません。

となると明らかに、最初の治療の後、応仁二年の旗の漂着直前に時間が逆行して30年遡ってしまったのです。
しかし難民が来るという事は、彼らは尼の顔に見覚えがあるかないかは不明ですが、「蓬莱寺にゆけば怪我を癒してもらえる」と考えていた事は確実です。近隣の住民はそう思っていた。
左近介が遡ったのはあくまで応仁二年です。それ以前から寺は存在している。では応仁二年以前、蓬莱寺で怪我人病人を癒していたのは誰だったのでしょう。かなり謎です。
そして明応七年(1498年)以降はどうだったのでしょう。明応七年に八儀左近介という若侍(中身は女性)という人物は、一度村人を治療した後、この世から消滅し応仁二年に移動します。尼は既に切り殺されて埋められています。左近介消失以降の明応七年(1498年)以後の蓬莱寺には誰が住んだのでしょう。

と考えてゆくと、本作の設定はかなり穴がある気がします。夢に出てきた火の鳥は言います。
「未来永劫あなたはくり返し殺されつづけるのです」
「外の時間は三十年のあいだを何度も何度もくり返します。
そのたびに外から新しいあなたが来て、あなたを殺し、入れかわることになるのですよ」
「あなたは残された二十年(十七年?)のあいだ、無限におとずれるすべてのものの命を救ってやることです。それが出来ればあなたの罪(尼を殺したこと)も消えるでしょう」
「三十年ごとに時間(とき)はいったん現在へ戻ります。次の三十年の逆行までにほんの一日、この場所は外へひらくのです。もし罪が消えていればその機会にそとの世界へのがれることができるでしょう」
理屈がおかしくなっています。
ここで火の鳥は左近介がループするのではなく、外の世界がループすると言っていますが、それ自体は問題ありません。空間で考えて見ます。旅人が東京から大阪に向かいます。大阪についた瞬間東京に戻るとします。この場合旅人が瞬間的に東に移動したと考えても、地球が瞬間的に西に回転したと考えてもいっしょです。相対的なものです。
問題は「新しいあなた」です。左近介を殺しに来るのは、新しい左近介ではありません。過去の自分自身です。
例えば「今の自分」が10年程度過去にループしたとします。そこには「10年前の自分」が居ます。
「10年前の自分」に「今の自分」が殺されるとします。これはいわば自殺です。将来自殺と言うか、時間差自殺と言うか。その結果として「10年前の自分」は残り10年しか生きられなくなります。「今の自分」の時間に到達した時点で、自分に殺されるからです。
「今の自分」が10年後にタイムリープして「10年後の自分」を殺して戻って来ても同じですね。「今の自分」は後10年しか生きられません。
これが蓬莱寺で発生した出来事です。ややこしくて頭がこんがらがりますね。
左近介は尼を殺した結果として、その後30年しか生きられない、なぜなら自分が将来の自分を殺したからです。
少し一般化
ループものは考えだすと難しいのです。少し一般化してみましょう。

今、地球上の全人類がタイムループするとします。全員がそれに気づかなければ、温泉が問題視する以前の友引高校でして、なにも問題になりません。ドラマにすらなりません。1回だけのタイムループでは必ずそうなります。ドラマとして成立しない。
複数回ループしますと、温泉のような気づく人が発生して、ドラマとしてのタイムループものになります。ただし最初はただの精神異常として処理されます。気づく人が増えてようやく話が動き始めます。気づく→対応方法、脱出方法考えることがドラマの内容です。
この全人類ループでは、過去の人と現在の人が重なることは無理です。重なると全人類が急に二倍に増える。ややこしすぎて作品製作不能です。
今度は少し条件変えて、ただ一人だけタイムループしている、と考えてみましょう。

応仁二年~左近介が誕生する文明十三年までは、この世に存在する左近介は尼になった左近介ただ一人です。特に矛盾がありません。というか厳密にはこの時間帯はタイムループではありません。回転していませんから。ただのタイムトラベルです。現代人が縄文時代に飛ばされた、と本質的には変わりません。

本作がタイムループものになるのは、応仁二年に遡った地点から13年後、左近介が誕生してからです。これ以降は二人同時にこの世に存在することになります。そして(18歳を数えだと解釈するなら)17年後若い方が老いた方を殺します。
尼は自分が自分を殺しに来るとわかっているのですから、左近介の来る前に首でもくくって自殺をすれば良いのです。どうせ左近介に殺されるのも自殺です。しかし左近介に殺されるのでは、殺した左近介に罪が発生して蓬莱寺に閉じ込められますから、尼自身が自殺するほうが罪が少ないです。自殺さえすれば左近介は自分を殺せません。自分の城に帰って父を殺すのでしょうが、これは尼を殺すより罪が少ない気がします。殺人鬼みたいな父ですから。
ただ、もしそうすると、左近介は蓬莱寺に閉じ込められませんから、応仁二年以降の尼も、この世に存在出来なくなってしまいます。存在しない尼は自殺することも出来ません。と考えると結局「応仁二年以降の尼」は左近介に殺される以外に、出来ることは無いのです。言い換えれば受動的ですが30年間不死身の体になっているわけです。それで満年齢47歳まで生きます。当時としては長寿です。これは本当に罰なのか。時間差自殺のせいで長寿が確約されてしまう。自殺というより長寿法、健康法ではないか・・・・どうも考え過ぎてわたくし、脳味噌がショートしてきました。気分が悪いです。吐きそうです。乏しい思考力の限界に到達しました。手塚も恐らく、考えていてこんがらがって、それで火の鳥に「新しいあなた」と言わせてしまったのでしょう。
蓬莱寺の戦乱と治癒の歴史
この蓬莱寺で起こっていることの真相を推理してみます。
約30年で尼さんは別の人に入れ替わります。左近介尼は1468年~1498年まで存在しました。その前の代の人は1438年~1468年まで居たのでしょう。左近介尼の後の代の尼は1498年~1528年まで居たのでしょう。
左近介尼の成立1468年までに、尼の代替わりが800年程度継続した。だから八百比丘尼と呼ばれていた。では応仁の乱の800年前に何があったか。
1468-800=668年です。672年が壬申の乱です。4年誤差がありますが近い日付ですので、この寺は壬申の乱から機能していると考えてよいです。
証拠は城の場所です。蓬莱寺は琵琶湖沿岸にあります。対岸は彦根です。そこから南下すれば大津に着きます。左近介の言葉から推察するに、八儀家の城は大津にあります。

ところで壬申の乱では、大海人皇子は関ケ原に本拠地を置き、派遣軍を奈良と大津に差し向けました。大津には天智天皇の作った近江大津宮がありました。当時は大津が首都だったのです。
近江大津宮は壬申の乱で荒廃しました。応仁の乱の京都と一緒です。大海人皇子は即位して天武天皇となり飛鳥に遷都、打ち捨てられた近江大津宮で、過去を偲んで柿本人麻呂が歌を作りました。
(前略)
石走る 近江の国の
ささなみの 大津の宮に
天の下 知らしめしけむ
すめろきの 神のみことの
大宮は ここと聞けども
大殿は ここと言へども
春草の 繁く生ひたる
霞立ち 春日の霧れる
ももしきの 大宮所 見れば悲しも

長い時が経過し、大津には城が建ち、そこで八儀左近介が育ちました。

人麻呂が居て、手塚が居る。その意味では私たちは恵まれています。でも壬申の乱も応仁の乱も、本当は無い方が良いのです。この作品世界では日本における「乱」のはじめ、壬申の乱から蓬莱寺は存在し、比丘尼が人々を治癒し続け、応仁の乱に至るまでその活動は続いていました。
その後蓬莱寺はどうなったでしょうか。そもそもなぜ「応仁の乱」が始まった応仁元年からでなく、応仁二年を作中の最も古い年代に設定したのでしょう。それは応仁二年が1468年だからだと思います。800年の半分の400年後の1868年は、ジャスト明治維新です。戊辰戦争、西南戦争、その後の怒涛の戦争の時代の始まりです。そして手塚一族は明治維新の傍観者ではなく、当事者なのです(詳しくは「陽だまりの樹」お読みください)。彼の中ではそれ以降の歴史は、教科書の中の歴史ではなく、自分の体感としての歴史です。
恐らく応仁の乱以降も、明治維新を経由して現代に至るまで、手塚の心の中では蓬莱寺の尼御前は活動しつづけている、あるいはむしろ、明治維新から太平洋戦争までの悲劇を見つめるうちに心の中に発生した蓬莱寺を、応仁の乱、壬申の乱まで拡大したのかもしれません。日本で起こった全ての戦乱の全ての苦難と全ての罪を引き受ける気で。
手塚を戦争を徹底的に嫌いました。本作は一部矛盾はありますが、作品の主張としては明解です。戦争はただの自殺であると。時間差自殺であると。人を殺しているつもりが、自分に殺されているだけなのだと。
だからそれがどれほど膨大な手間であろうとも、悲劇を克服するために、我々は慈悲を持ち続けなければならないのです。
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本作は
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