教えてください、烏丸先生 #24 L'Aquila凪
教えてください、烏丸先生 #24
第5章・第4話 L'Aquila凪
扉の内側に入ると、外の空気が背中から抜けていった。棚に置かれたグラスが目に入り、奥で動いた人の気配がそれに少し遅れて重なってくる。
「いらっしゃいませ」
声がしてから顔を上げると、カウンターの向こうに立っている女性がこちらを見ていた。
カウンターに腰を下ろすと、椅子の高さがわずかに合っていないのか、足が宙ぶらりんになった。足の置き場を探してもぞもぞと身体を動かす。
「初めてですよね」
そう言われて頷いた。
「何かお決まりですか」
スナックになどきちんと来たことが無かった。仕方がなく職場の飲み会で連れられて行ったときは、何を頼んでいただろうか。思い出せない。
「何か、おすすめはありますか」
そう答えると、女性は小さく頷き、ボトルを選びながらこちらを見ないまま言う。
「お酒は飲むほうですか」
「いえ、あまり飲みません」
「それじゃ、飲みやすいのがいいわね」
グラスに氷が落とされる。緑色の瓶から透明の液体が注がれ、次いで緑茶がグラスに入った。マドラーでかき回すカラカラとした音が、部屋に響いた。
「緑茶ハイ、薄めよ」
「ありがとうございます」
グラスが前に置かれ、受け取るときに指先が少し触れてすぐに離れた。そのまま一口飲んだが、味は分からず、冷たさだけが残った。
「私は、凪です」
女性は私に名刺を差し出した。L'Aquila、Nagiと書いてある名刺を私は見つめた。
「お名前、なんて呼べばいいですか」
凪は私の目を見ながら言った。
「牛山といいます」
凪の目が少し開いて、すぐに元の表情に戻った。私の前に、カタンとおつまみのお皿を置く。
「このお店のことはどこで?」
繁華街の中にあるわけでもなく、フラッと立ち寄る場所の店でないことは素人目にもわかる。
「凪さんにお話しを伺いたくて」
凪は一度だけこちらを見て、すぐに視線を外した。
「来るかもしれないって、聞いてました」
誰から、とは言わなかった。
「何を聞きたいんですか」
そう聞かれても言葉が出ず、何を聞きたいのか分からないまま、ここに来ていることに気づいた。
沈黙が続く。
「分からないまま来る人もいますよ。それでも、話はできます」
凪は微笑みを崩さずに私を見た。
「中学生の頃にね、廊下で呼び止められたのよ」
自分の分のグラスに氷を入れながら、凪は言った。
グラスを持つと、外側についた水滴が指を冷やした。
「苦しくないですか、って」
凪の話を聞いた私のグラスは、空になっていた。
「おかわり、同じものでいいかしら」
「あ、はい。お願いします」
凪は私のグラスの氷を捨て、新しい氷をグラスに落とす。
「あの」
ひとつだけ、聞かなければいけない。
「烏丸先生は、どこにいるんでしょうか」
凪はボトルの瓶を開けながら、「どこにいるかはわかりません」と答えた。
「けど、また会えるわよ」
置かれたグラスに口を付けると、さっきよりもお酒が濃くなっている気がした。
時計を見ると、23時を回ろうとしている。
そろそろ、と席を立とうとしたときに、入口から風が入ってきた。
「なーーーぎーーーちゃーーーん」
入口から顔を赤らめたサラリーマンが3人、倒れ込むように入ってきた。
「あら~」とオクターブ上の声を出した凪は、カウンターからおしぼりを出してサラリーマンを座席に誘導する。名前の書いてあるボトルを1つ出し「何で割る?」と速やかに注文をとった。
準備を進めている凪に私は声をかけた。
「お会計をお願いします」
「あ、いいわよ。あの人にツケとくから」
「え、そんな、いいです」
「いいのよ、たまには。お気をつけて帰ってくださいね」
ありがとうございます、と店のドアを開けた私に、凪が見送りに来る。
「そういえばあの人、こんなこと言ってたわ」
手を振りながら凪は言った。
「距離って、測れると思ってたんだけどね」
バタンとドアが閉まると、夜の静寂に包まれた。
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