教えてください、烏丸先生 #23 スープパスタの夜
教えてください、烏丸先生 #23
第5章・第3話 スープパスタの夜
最後に話したのは、烏丸先生の家の前だった。
「見たい映画があるんだ」
しばらく映画を見ていなかった。
せっかくなので夕飯でも作りましょうか、と言ったのは私だった。
烏丸先生の家の近くのスーパーで買い物をする。
「嫌いなものはありますか」と聞くと、眉間に皺を寄せながら「椎茸」と言った。
飾りっけの無いシンプルな部屋だった。
引っ越し直後かというくらい物が少なく、テーブルとソファとテレビとベッドだけがあった。数冊の本が、ベッド脇に積まれていた。
映画のタイトルは忘れてしまったけれど、最後は胸にじんと何かが残った。
テーブルの上にコップが二つ並び、ソファの一か所が少し硬かったことは覚えている。
帰るとき、玄関で靴を履いて外に出ると、すぐ目の前に階段があった。
一段目に足をかけたところで靴底がわずかに滑り、身体が前に出る。
踏み直すより先に腕を掴まれて引き戻される。
距離が詰まる。
暗い中で輪郭だけが分かり、顔の位置が近いことだけがはっきりする。
そのまま一拍だけ動かない。
手はすぐに離された。
「気をつけて」
うなずく。
そのまま階段を下りる。
途中で一度だけつまずきそうになり、歩幅を少しだけ変えて下りた。
夜の改札を抜けると、昼間より人の数は少ないはずなのに、床に落ちる足音だけがやけに反響して聞こえる。一段目に足をかけた瞬間、わずかに重心が前にずれた。
地上に出ると改札の内側で聞こえていた音が一度途切れ、代わりに風の通りだけが分かる。頬に当たる感触が温度よりも先に残った。
歩き出す前に、地図アプリを開いて現在地を確かめる。
段差を越えるたびに、足を上げる高さを無意識に調整しながら進む。
住宅の並びが途切れた先に、光がひとつだけ残っていた。
すぐには足が向かずに一度だけ立ち止まる。ポケットから取り出して現在地を確かめ、間違いがないことを確認してから画面を閉じた。
L'Aquila
看板の文字を目でなぞってから、扉の前で足を止める。
取っ手に手をかけると金属の冷たさが思っていたよりも強い。
一度離しかけて、もう一度だけ触れる。車が一台、背中側を通り過ぎた。
音が遠ざかるのを聞きながら、そのまま押す。
扉が開き、外の空気が背中から抜けていく。
中の光に目が慣れるまでのわずかな時間だけ、立っている位置が曖昧になる。
左足が、そのまま中に入った。
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