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教えてください、烏丸先生 #22 柊海莉

教えてください、烏丸先生 #22
第5章・第2話 柊海莉


L'Aquilaラクイラの扉が開いたとき、最初に入ってきたのは声ではなく、外の湿った空気と、それに少し遅れて続く人の気配だった。一瞬だけできた薄い影がほどけていくのを見てから言う。

「いらっしゃいませ」

自分の声が、思っていたよりも低く、カウンターの上に置かれたまま戻ってこなかった。

「お久しぶりですね、烏丸からすま先生」
「久しぶりだね」
「ボトル、まだありますよ」
「ロックで。ひいらぎさんも」
「やだ。なぎって呼んでよ。ありがたく頂戴しますね」

グラスを二つ取り出し、氷を一つずつ落としていく。乾いた音が規則的に鳴り、その音の間にライターの音が混ざる。ゆっくり吐き出された煙が照明の下で一度だけ形を持ち、その輪郭が崩れていく。

「ここに来る時って、何かあった時よね」
「今日は、静かなところに来たくて」

烏丸先生はグラスを受け取ると、私のグラスと軽く触れた。
おつまみのナッツを整えながら「学校はどうですか」と聞きかけてやめると、その間を埋めるみたいに「学校、今は少し休んでるんだ」と言われ、理由は続かなかった。
何も聞かずにグラスの氷を少しだけ回すと、さっきよりも柔らかい音に変わった。


中学三年の春、私は男子の制服を着ていた。学ランの襟はいつも首に合わず、シャツの第一ボタンを留めると息が詰まり、ズボンは鎖みたいに重かった。毎朝、鏡の前で制服を着ている自分が、自分ではない気がした。
休み時間も、放課後も、女子とずっと一緒にいた。

烏丸先生が最初に声をかけてきたのは、職員室前の廊下だった。

「柊さん」

振り返ると、烏丸先生は私の全身を眺めてから、私に聞いた。

「苦しくないですか」

最初の言葉は、それだった。
何を聞かれるか身構えていた私は、うまく返事ができなかった。

「何が、ですか」

そう答えると、烏丸先生は視線を逸らさずに言った。

「制服と、声」

翌週の放課後、私は空き教室に呼ばれた。怒られるようなことをした覚えはなかったが、呼び出しというものは、それだけで身体の中を冷たくする。
教室に入ると、烏丸先生は窓際に立っていて、黒板には何も書かれていなかった。

「カール・ハインリヒ・ウルリクスという人がいるんです」

先生はそう言って、難しそうな本のページを開いた。
難しい漢字とカタカナが並んでいて、内容はよく分からなかった。

「学校に来るために毎朝ひとつ嘘を着ているなら、それは、苦しくないですか」

私は、椅子の端を両手で掴んだ。指に力を入れすぎて、爪の下が白くなっていた。

「先生は、どうしてそんなこと分かるんですか」

聞くつもりのなかった声が出た。
烏丸先生は少し黙ったあとで、「分かる、とは言えない」と答えた。

「ただ、俺にもそんな時期があった。もしかしたら」

烏丸先生は少し考えて「今もそうなのかもしれない」と笑った。
西日が溢れて、教室は夕焼けの色に染まっていた。

「僕は、女子の制服で来たいです」

自分で言ったあと、教室の壁が遠くなったような気がした。
烏丸先生は驚かなかった。

「いつから」

それだけ聞いた。

「できれば、明日から」
「分かりました」

先生はそう言って、難しい本を閉じた。

「分かったって、そんなに簡単に」
「簡単ではないですよ、でも」

先生はまた笑った。

「苦しいのは、終わりにしたいじゃないですか」


烏丸先生はグラスを見つめたまま煙草を深く吸いこみ、天井に向かって煙を吐いた。
言葉が出ないまま、その煙がほどけていくのを見ているうちに、ふと口からこぼれる。

「…苦しくないですか」

グラスの縁を指でぐるぐるとなぞりながら、烏丸先生は目を細めた。

「距離って、測れると思ってたんだけどね」

烏丸先生は視線を落としたまま言った。

「近づくと違う気がして、離れると、もっと違う」

煙と一緒に、ふっ、と笑った。

「大事な人なんですね」

烏丸先生は答えず、グラスに触れて持ち上げかけて戻した。

「なんて言ったらいいか、わからない」

氷がゆっくり溶けて、グラスから柔らかい音がする。

「曖昧なままでも、いいと思いますよ」

私は新しい氷を取り出して自分のグラスに落とした。

「近いうちに、ここに来るかもしれない」

グラスを拭く手が止まった。

「たぶん聞かれる。昔のことを」
「何を話したらいいかしら」
「話したいことだけでいい」

私は烏丸先生のグラスに氷を落とした。

「なんていう人?」

烏丸先生は煙草に火をつけ、しばらく黙ったままだった。
グラスを飲み干し、空のグラスをカウンターに音を立てて置いた。

牛山うしやま

グラスの中で、カランと音が鳴った。



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