教えてください、烏丸先生 #30 サルトルとボーヴォワール(最終話)
教えてください、烏丸先生 #30
最終話 サルトルとボーヴォワール
夜の高速は静かで、エンジン音とタイヤの音だけが響いていた。時折トラックが音を立てて追越車線を通り過ぎる。
二人とも暫く黙ったまま、助手席の私は窓の外を見ていた。
冷たい皮のシートが私の背中と同じ温度になった頃、私は口を開いた。
「ごめんなさい」
遠くには、ポツポツと明かりがついた高層マンションが並ぶ。
「なぜ、牛山さんが謝るんだい」
烏丸先生は、運転席と後部座席の窓を少し開けた。
煙草の匂いが広がる。
全部私のせいだ。
鶴田先生の気持ちは、なんとなくわかっていた。
曖昧にしたまま宙に浮いた火花が、爆弾に引火してしまった。
私は、烏丸先生を守れなかった。
最後の最後、私は嘘がつけなかった。
「写真が出たら、どうしますか」
高速は川を渡ろうとしていた。夜の川は、何もかも飲み込みそうな色をしている。月だけが川の真ん中に浮いていた。
「それは」
煙草を吸い込む音がした。
「出たら、考えればいい」
吐いた音と同時に、煙草の匂いが広がった。
「烏丸先生」
「なんだい」
「ノートには5人分の教え子が書いてありました」
「俺の思い出だよ」
特に特別な、と烏丸先生は付け足した。
「なぜ、私に託したんですか」
「なぜだと思う?」
それは――
「そういうところ、不器用ですよね」
私は無音だったラジオの音量を、少しだけ上げた。
車は高速を下りて一般道に入った。深夜の国道はするすると車が動く。待つ必要が無いのに点灯する赤信号に、車は止まる。
「ノート、6人目がいますよね」
「いたよ」
「6人目のページ、破られていました」
「そうだね」
「なぜ破ったんですか」
烏丸先生は少しだけ黙った。
「見立てが違ってたから」
「どんな生徒を書いてたんですか」
信号が青に変わる。
「牛山さんを」
烏丸先生は、少し強めにアクセルを踏んだ。
着いた場所は、港だった。
車を降りると、潮の匂いが鼻をくすぐる。
「さっき言ってたノートの6人目なんですけど」
「うん」
「誰に見立ててたんですか」
「マルクス」
と、エンゲルス。と烏丸先生は追加した。
生ぬるい風が肌に絡んでベタつく。
「資本論、でしたっけ」
「そう」
「じゃあその人の見立ては、今は何になるんですか」
煙草の煙が海に向かって流れていく。
「それは、秘密かな」
海を見ながら、烏丸先生は笑った。
私は烏丸先生の隣に立つ。
潮風を吸い込む。
「教えてください、烏丸先生」
(完)
