教えてください、烏丸先生 #03 杉本嘉朗
教えてください、烏丸先生 #03
第1章・第3話 杉本嘉朗
鍵を外して、少し錆びついて重くなったシャッターを上げるのが、その日の最初のトレーニングだ。ガラガラと盛大な音を立てて両手で持ち上げる。ストッパーを入れて、看板がオープンと見えるようにひっくり返した。
サンドバッグを拭いていたところで、コーチが出勤してきた。
「おはようございます」
「おはよう、杉本くん」
コーチはいつもスーツで出勤してくる。いつ取材が来ても良く写れるようにと言っていたが、まだその日は来ていない。
「減ったんじゃないか?」
「そうかもしれないッス」
来月の大会に備えて、減量中だった。
このジムに来て5年が経っていた。
中学を卒業した後、高校へは行かずにボクサーの道を選んだ。母子家庭で経済的な余裕が無かったというのは言い訳で、学校で勉強なんてしたくなかった。時々通っていたジムのオーナーが、たまたま声をかけてくれて、今はトレーニングをしながら、スタッフとして半分住み込みで働いている。
オーナーもコーチもいいひとだった。学校では教わらなかったことを教えてくれた。もしかしたら、教えられていたのに、聞いていなかっただけなのかもしれない。
入口の掃除をしていると、腰に硬いものが当たった。振り返るとジャージに着替えたコーチが、嬉しそうに一升瓶を見せびらかしてくる。
「大会終わったら、飲むからな」
コーチが盃を傾けるポーズをした。
「日本酒は不味いッス」
「わかってねえなあ」
「まだハタチなんすよ」
「ガキやな」
口笛を吹きながらコーチは一升瓶を抱えて事務所へ戻った。
日曜はそこそこ人が来るが、一番に来るのは大体決まっている。誰が来るのか想像しながら入口に座った。
「杉本嘉朗さんですか」
今日の最初の客は、初めて見た顔だった。明らかにトレーニングをしにきた風貌ではない。しかも俺のことを知っている。昔から悪い噂が多かったので、何かのきっかけで耳にしたのかもしれない。
「そうですが」
昔の俺なら、なんだテメェと言っていたかもしれない。
「烏丸先生を知ってますか」
知らないその人から、知っている名前を聞いた。
「烏丸先生?」
「覚えてますか」
忘れるわけがない。中学の時の社会の先生だった。俺にとっては社会というより、生活指導の先生って記憶だったが。
そんなことより、順序が違う。
「あんた、誰なんスか」
これは失礼、と少し慌てた様子でその人は言った。
「牛山といいます。烏丸先生の職場の者です」
「職場っていうと、先生ってこと?」
「いえ、事務をしています」
教師ってのはなぜだか鼻につくが、その人からはあまり感じなかった。
「で、烏丸先生がどうかしたんスか」
「行方不明なんです」
そのために、縁のありそうな人に会っている。牛山と名乗ったその人は言った。
「どこにいるかは、知らないッスよ」
「知らなくてもいいです」
杉本さん、と言って牛山は距離を縮める。
射程範囲内だ。
「あなたの話が聞きたいんです」
「仕事中なんスよ」
そう言って中に戻ろうとした時、コーチがやって来た。
「入会希望?」
「入会はしません。杉本さんに聞きたいことがあって来ました」
「困るねえ。杉本は忙しいんだよ」
コーチが俺に加勢してくれている。俺はニヤニヤしながら牛山を見た。
「松原コーチ、お願いします」
牛山はコーチの名前を知っていた。コーチを見ると、目を剥いて牛山を見ていた。どうやらコーチも知らない人らしい。牛山は持っていた紙袋から、木箱を取り出した。
「杉本さんを15分貸してください」
コーチに向かって差し出した木箱には「四十代」と刻印されていた。コーチはまだ三十代半ばだ。
「あー…」
口籠ったコーチは信じられないことを言った。
「1時間くらいは貸してあげる」
開いた口が塞がらないままコーチを見ると、コーチはニコニコしながら木箱を受け取っている。
「奥の事務所、使っていいよー」
「ありがとうございます」
口笛を吹きながら、コーチはジムの奥に消えていった。
「杉本嘉朗さん」
俺は牛山と事務所で対峙していた。容疑者と検察みたいな感じがして、居心地が悪い。
「聞きたいことって、なんスか」
「烏丸先生のことです」
「さっきも言ったけど、居場所なんて」
「どんな先生でしたか」
どんな先生だったか。俺は腕を組んで目を閉じた。
たしか、中学3年の時に異動してきた。教科はたぶん社会。曖昧なのは、俺が体育以外の授業はほぼ寝てたから。だけど…
「授業中に寝てると、絶対起こしに来る先生だった」
「では、その時は真面目に受けてたんですね」
「そんなまさか」
これまで勉強なんてしてこなかった。読めない漢字と知らない言葉だらけで、まともに聞いてたらおかしくなりそうだった。だから俺は
「ずっと窓の外を見てた」
牛山の眉が微かに動いた。
「外に、何かあったんですか」
「いや、何も」
「そんなに、ずっと空を見ていられるものなんですか」
「空は見てない」
窓の外に広がっていたのは空だけでは無い。俺がずっと見ていたのは
「葉っぱの数を数えてた」
「葉っぱ、ですか」
「校庭の手前に木があるじゃん。その木の葉っぱ」
「小さいし風で揺れたら数えられないですよ」
「そう思うじゃん?でもずっと見てるとわかんの。次にどう動くか、どんななびき方するのか、慣れると数えられるようになるわけ」
「そうなんですか」
牛山はカバンを漁ると手帳を取り出し、白紙のページを1枚破った。そして細かく千切り紙吹雪を作った。
「何枚落ちたか数えてください」
頭の高さから机の上に紙吹雪が降る。俺は紙の軌道を追い、数えた。机の上に降った紙は、牛山が一箇所に集めていく。
「53」
牛山は机の紙を数えた。
「51ですね」
「53」
自信があった。
「あんたの肩に1、床に落ちたのが1」
牛山は肩についたひとつと床に落ちたひとつを集め、「捨てていいですか」と言って事務所のゴミ箱に捨てた。
「烏丸先生はどんな先生でしたか」
腕を組んだまま天井を見上げた。記憶を辿るのは苦手だ。
「そういえば、家に来たことがあったな」
「なぜですか?」
「中3のとき、母ちゃんが病気で働けなくなって。俺に会いに来たっていうより、見舞いに来た。そのとき俺はずっと部屋にいたから、殆ど会ってないけど」
担任の先生は気が弱くて、たまに泣いていた。たぶん俺のせいだと思うが、なぜ泣いていたかは思い出せなかった。
「お母さんは、今はお元気なんですか」
「元気だよ。っていうか近くの和菓子屋で働いてるけど」
「それはよかったです」
「あそこの芋羊羹は、美味い」
「他には何か、ありますか」
「あとは栗きんとんが」
「いえ、烏丸先生の話です」
腕を組みながら天井を見つめた。今日だけで天井のシミを3回も数えている。烏丸先生の声を思い出す。
「あとは、怒られてばっかりだったな」
「怒鳴られた思い出が多いんですね」
「怒鳴るとかではなかった。なんていうか、逆らえない雰囲気っつーか」
「言われたことで覚えてることはありますか」
説教は聞き流すものだと思っていた俺にとって、覚えていることなど殆ど無かった。唯一覚えていたのは…
「いつまでも時間があると思うなよ」
牛山の眉が、また僅かに動いた。
「五・七・五ですね」
「何それ」
「いえ。何度も言われましたか」
「だから覚えてるんだと思う」
「わかりました。本日はお時間いただきありがとうございました」
牛山は帰るようだった。
「烏丸先生って、いつから居ないんスか」
「月曜からです」
「じゃあ関係無いかな」
ずいと牛山は身を乗り出して俺に顔を近づけた。
「何かありましたか」
「年末くらいかな、ここに来たよ」
「なぜですか」
「わかんない。元気かって聞かれて、元気だって言ったら、そうかって」
「それだけですか。何か変わった様子はありましたか」
「それだけ。んーそうだなぁ」
記憶を辿るのはやっぱり苦手だ。
「昔よりも、優しそうな感じはしたかな」
「ありがとうございます」
そう言って、牛山はそそくさと事務所を出て行った。
が、すぐに戻って来た。
「聞き忘れました」
牛山は手帳を出した。
「誕生日を教えてください」
「俺の誕生日?」
「はい」
「12月25日」
メモをさっととると、今度こそ牛山は出て行った。なんだったんだろうか。
「終わったのか?」
コーチが事務所に入ってきた。
「終わりました。さっきの箱、なんだったんスか」
「試合後の楽しみだ」
「どういうことッスか」
「ガキだな」
もうハタチなんだよなぁ。
いつになったらコーチは俺を大人として見てくれるんだろうか。
「すいませーん」
ジムの入口から声が聞こえる。
はーい、と返事を返したあと、口笛を吹くコーチを尻目に、受付に向かった。
▶NEXT #04 母の話
▶BACK #02 ノートの記録
