教えてください、烏丸先生 #02 ノートの記録
教えてください、烏丸先生 #02
第1章・第2話 ノートの記録
家に帰った私は、テーブルの上にノートを置いたまま、シャワーを浴びた。埃と汗にまみれた身体ではノートにさわれない。温度を上げると浴室が湯気で満ちた。前が見えない。鏡を見る気になれなかった。
鈍い音を鳴らす冷蔵庫から、缶ビールを取り出す。バタンと閉める音に応えるように、プルタブを引く。今日は、星が見えない。時折通る車の音だけが、夜の道に響いていた。
ノートを手に取ったのは、日付が変わる少し前だった。
表紙を開くと、最初のページは空白だった。
ページをめくると日付があった。四月八日。烏丸先生の字だった。几帳面ではないが、乱れてもいない。横に細く、ところどころ続け字になる。職員会議の板書で何度も見てきた字だった。烏丸先生は板書が速かった。生徒が追いつけないと言っても、速度を変えなかった。
4月8日 杉本遅刻。3回目。
数行空けて、また日付が書いてあった。
5月14日 窓の外
何が、とは書いていない。窓の外に何かがあったのか。
6月2日 母
一言だけ。誰の母親なのか。
文字を追うたびに、烏丸先生の部屋に入り込んでいくような気がした。許可を得ていない場所に踏み込んでいるような、落ち着かない感覚があった。
9月19日 ガロア
ガロア。容積の単位だったかと思ったが、それはガロンだ。烏丸先生は社会の教師だった。世界史に関係する言葉だろうか。
11月3日 決行
決行。
私はそこで手を止めた。ただ、決行、とだけある。烏丸先生の字が、いつもより少し大きく見えた。
ノートをいったん閉じる。烏丸先生の匂いが、また少しした。
杉本は遅刻が多い生徒だったのだろうか。素行が悪く目立つ学生なら、事務職員の私でも名前を知っているが、杉本という名前は聞いたことが無かった。
窓の外。母。ガロア。決行。
私はスマホで「ガロア」と検索した。フランスの数学者。エヴァリスト・ガロア。十七歳で論文を書いたが、審査官に紛失された。名門校の入試に二度落ち、投獄された。誰にも理解されないまま、二十歳で決闘によって死んだ。死の前夜、友人への手紙に数学のアイデアを書き残した。余白に「僕にはもう時間がない」と書いた。
画面を閉じた。
ガロアは地名でも文明でもなく数学者だった。誰にも理解されなかった天才。時間がないと知りながら書き続けた人物。
この日、何があったのか。
ノートの残りのページを、最後まで繰った。
メモが書いてあるページが5ページ。
次のページは破られていた。
私の名前は、どこにも無い。
烏丸先生は、なぜ私の机にノートを入れたのか。
翌日も、烏丸先生には連絡がつかなかった。烏丸先生には身寄りが無く、親族や同居人も居ない。校長室からは副校長の声が漏れ聞こえてきた。
「休職届が出ているとはいえ、連絡がつかないのは問題だぞ」
校長が副校長に苛立った声を出す。
「家にも居ないようでして」
「烏丸先生らしくないな」
「私もそう思います」
「まだ警察には早い。もう少し様子をみよう。三月中は有休で処理を…」
そこまで聞いていた時、保健室の鴨志田先生が、私の机上を見て言った。
「出席簿集めてなにするの?」
生徒向けの馴れ馴れしい周波数は、私の耳には合わない。
「監査が近いので」
監査が近いのは本当だが、出席簿は先月既にチェックしていた。
「げ。もうそんな時期だっけ」
「日頃からきちんとしてれば時期なんて気にしなくていいんですよ。鴨志田先生、消毒液切れそうって言ってませんでしたか。発注書を起票してください」
ヤベっと言って保健室へ戻る鴨志田先生の背中が見えなくなってから、出席簿を開く。
全クラス分を確認し、出席簿を元の場所へ戻した。
在籍している生徒に、杉本は居ない。
鷹尾先生へ声をかけた。
「卒業アルバム、見せてもらえませんか」
鷹尾先生は在籍期間が一番長い。公立の中学校では5年程で移動になることが多いが、鷹尾先生は出世もせず10年以上いる。もう50を過ぎているのに、まだまだ現役の体育教師である。
「今年のはあそこに積まれてるが」
鷹尾先生が差した指を無視して私は言った。
「過去5年分です」
「んー?なんで?」
「鷹尾先生の若い頃がかっこいいと噂でして」
「それならとっておきの昔のやつを」
「過去5年分で大丈夫です」
鷹尾先生は過去5年と、とっておきの昔のを棚からガサゴソ取り出し、私に渡した。
烏丸先生はこの学校に赴任して5年経っていたはずだ。
5年前のアルバムにその名前はあった。
杉本 嘉朗
切れ長の目、細い眉、長めの襟足、顔の絆創膏。
ザ・不良という見た目の杉本がアルバムに写っていた。担任は白鳥先生、既に異動している女性の先生だった。
「この杉本っていう生徒、覚えてますか」
若い時の鷹尾先生、ほんとかっこいいですね、という前置きは忘れない。
「あ〜覚えてる、何回も指導入れたから」
「白鳥先生も大変だったでしょうね」
「あの人じゃ手に負えなくて、殆ど烏丸先生が面倒見てたな」
鷹尾先生は懐かしむように、窓の外を見た。
「鷹尾先生」
窓の外にあった視線が私に戻る。
「今でも、かっこいいと思いますよ」
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