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短編小説 | 春情


- 1 -

揺るる列車、席の傍ら、時折ときおり日向の温度。

車窓しゃそうに看板、急カーブ、曲がった先の駅。

すうとホームに入り込み停止する列車。扉が開くと同じに、藍色のスーツの肩をで焦がしながら、車両に踏み込む男性がります。

わたしは、いつも、の彼を見るのです。寸分すんぶん変わらず周回する惑星の軌道のやうなわたしの生活。いつも地球におなじ顔ばかり向ける月のやうな我が習慣。彼はわたしの毎日といふ河の流れをせき止める岩の如く、須臾しゅゆ、わたしの刻限ときを停止させるのです。

彼は、特に、見目みめうるわしいわけでは有りません。せいがたかいわけでも、目鼻の配置が整っているわけでも有りません。

しかし、の所作、立ち振る舞いは、わたしの目を引いて離さぬのです。れはまるで不完全な世界の隙間を埋めるやうな、壊れた宇宙の螺子ねじをやさしく締めなをすやうな様子なのです。

扉のかたわらに身を預けて、分厚い本のページめくっている指先は、周囲の音韻おんいんを整へるコンダクターが如く気品をたたえ、わたしの視線をとらえて離さぬのでありました。


- 2 -

わたしは取るに足らぬ会社に勤める、取るに足らぬ事務員にすぎません。

屹度きっと、わたしが居なくなっても誰も困りはせぬでせうし、何ンなら、わたしの代わりになる方のほうが、わたしよりずっと上手に仕事を廻してゆけるのかも知れません。

大学で会計の資格をとり、今の会社に新卒で就職してから、ずいぶんと年月が経ったような気がしますけれど、やっていることは何も変わらず、お茶くみやら伝票やら電話応対などと謂った、誰にでもできるやうなことです。

わたしが大学まで出て、会計の資格をとったのは、お茶くみをするためではありません。立派なひとりの独立した社会人として働くためなのですが、でも、いいのです。わたしはわたしがれたお茶が、誰が淹れるよりも美味しいから、みなさんにお茶を振舞っているのです。

他のことも全てそう。みなさんの机を拭き上げるのも、誰も取らない電話にわたしが応対するのも、それらを一番上手にできるのがわたしだからです。みなさんが下手くそだから、上手なわたしがやっているだけなのです。だから、別にいいのです。

と、そんなこと考えながら、わたしはページめくっている彼の指先と、本を読む彼の表情を目で追っておりました。


- 3 -

彼が降るる駅が迫っておりました。名残惜しいといふ気持ちはありましたが、わたしも彼も立派な社会人ですから、列車を乗り過ごして勤め先に遅刻するなどあってはなりません。

ああ、でもしかし、彼ときたら本を読むのに夢中で、自分が降りる駅が迫っていることにも気付いておらぬ様子。

わたしは勇気を出して、ひとりごとのやうに呟いてみました。


「あゝ、もう目黒、次で降りなくちゃ」


わたしの呟きを聞いた彼が、はっ、と視線を上げます。彼は急にあわて者になって、カバンに本を押し込むと、急ぎ足で列車をあとにするのでした。

冬でも、夏でも、雨降る日でも、風がびゅうびゅうと吹く哀しい日でも、そんな彼を見るわたしの心はいつでも春でした。

毎朝の春情しゅんじょうが、最近のわたしをわたしらしめている。そんな気がするのでした。

(2026/03/19)