「帝国の動向」 フェルナンド・デル・パソ(後)
寺尾隆吉 訳 フィクションのエル・ドラード 水声社
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第13章「バウハウト城」
ミラマールの鴎の間で、メキシコの地図を前に、色とりどりのピンを刺したあの午後を覚えているかしら。緑のピンはチアパスのセルバとそのユソウボクやマングローブを表し、青のピンはカリフォルニア湾のターコイズブルーと飛び跳ねるイルカへの敬意、銀色のピンはグアナフアトの銀鉱脈とアサヤカトル宮殿でスペイン人征服者の目を眩ませた銀細工への祝福、そんな感じだったかしら? 今日、デュ・パン大佐に扮した使者があのピンを手にやってきて、全部あなたに差し出すよう言ってきたのよ、これまでの嘘一つにつき一本舌に突き刺せるようにね。
(p449)
マクシミリアンは忘れているかもしれないが、読者は覚えている。第4章のスペイン語を習いながらメキシコ地図にピンを刺しているところ。そのピンと重なるように出てくるのがデュ・パン大佐のピン…こっちは第10章のインディオ伝令への拷問の場面。そしてそれらが、この章のキーワードになっている「嘘」に絡みつく。
私はずっとそのすべて、終わりも始まりもない永遠の現在、一瞬で凍った世紀の生々しい記憶なのよ、それをどう説明すればいいの?
(p462)
私が下りているのは生活の根城、私の頭そのもの、宇宙と同じくらい広い宮殿なのよ、ドアと窓が歴史全体に向けて開け広げられ、下りきってこの口とこの耳から飛び出す私は、この目から覗き、この皮膚から流れ出し、自分が世界に閉じ込められて窒息しそうになっていることに、さもしくみじめな理解不能の現実に押し込められて気が狂いそうになっていることに気づく。
(p462)
どっちも20世紀前半までを生きたシャルロットについての文章。上の文章はまだわかるが、下の文章は身体感覚と結びついて容易な理解をさせない強度を持つ。特に「ドアと窓から…」の部分はよくわからない。でも、鮮烈な印象を与える。
そのページの1ページ前。ベルギー国王アルベール一世(シャルロットの甥)の逸話がある。第一次世界大戦でベルギーの辺境の地で身動き取れなくなったアルベール一世は、そこでフアレスを持ち出し周りを、そして自分を説得しようとした。という逸話をシャルロットが聞いて憤慨する、という展開。シャルロットはともかく、このアルベール一世の言説自体は本当にあったものなのだろうか。この小説は意外に史実が多いので、これもたぶん…
(第22章 p814-815にまたこの話題出てくる)
(2024 06/07)
第14章「帝国なき皇帝」
第1節は宮廷儀礼の規則(マクシミリアン作)の条項と並べて、その儀礼に居合わせた人々の噂話。最後は高山病?の治療をしながら話す医師とマクシミリアン。
第2節は何か女の誘惑に惑わされた神父が司教にそれを告解している。節の冒頭に(一)とありながらそれ以降がないので、別の章で続きがあるのかも。この二つの章で目立つのは、一つの文に複数の人の複数の時間の話題が渾然となっているところ。医師とマクシミリアンの箇所は、治療指示と医師のよもやま話が入り乱れる。
(ここまでは一昨日までに読んだところ)
今日分はここから。
第3節「兄弟の(不完全な)通信より」は、前2回あったヨーロッパ兄とメキシコ弟との兄弟の手紙のやり取りの3回目。今回は弟ジャン=ピエールから兄アルフォンス。
実のところ、見世物の連続、それが帝国の実態なのです。
(p512)
弟は兄に比べ、メキシコ帝国及びヨーロッパ現体制寄り…であったはずなのに…
まあ、その見世物をこの小説の読者は楽しんでいるわけだが。
話をまとめれば、この遠征は水泡に帰しつつあるというのが私の印象です。少し前に聞いたある奇妙な習慣が、私の頭のなかでマクシミリアンと結びつきます。村から山へ果物を背負って下りてくるインディオのなかには、一日かけてすべてを売りさばいた後、信じられないことに、わざわざ果物と同じ重さの石を籠に詰めて村に帰る者がいるというのです。「習慣を変えないため」というのが彼らの言い分だそうですが、実はマクシミリアンも同じ状態にあると思います。今や売り物は何もなくなって、彼にできることといえば、籠に石を詰めて帰ることだけです。
(p516)
(「村から山へ…下りてくる」っていうのは?)
それはともかく、この石云々というのはどうしてもシシューポスの神話を思い出してしまう。多分、マクシミリアン自身が一番それを感じているのだろう。
第15章「バウハウト城」
白紙のページが続く本のように、滑らかな手触りといい匂いはしても、目には見えない嘘。さあ、クエルナバカへ行って、蝶を捕る網で捕まえてごらんなさい、マクシミリアン、ピンで嘘を枕に留めて、その翅を切ってごらんなさい
(p518-519)
狂っている、とさせるシャルロットは、単に狂っているだけでは不可能な、詩的な文章を紡ぐ。
次のページからはいろんな時代のいろんな場所を、鳥の視点で見て回るという文章が続くのだが、ここに(自分が前に読んだ)ムヒカ=ライネスの「ボマルツォ公の回想」で出てくる聖なる森が出てきて唖然とする(鈍器本は引かれ合う…のか)。
私の人生の断片をすべて拾って、ジグゾーパズルのように組み立てて鏡を作り、そこに映る人生全体を一瞬のうちに眺めたいと思う、だから気狂い女だと言われる。
(p527)
この前ページでは、幽閉されている城の鏡を拳で壊して回る、とある。それを口に含んだり…でもそれは、作家デル・パソ自身がやっていることでもある。
ある晩私はうっかり眠ってしまって、ついさっきやっと、全身むず痒くて目が覚めたのよ、そう、ハエを呼び寄せてしまったらしく、大挙してやってきたの。虹のように紫がかった青い翅のハエの大群が私にまとわりついているのに、私の体はいうことをきかず、追い払うこともできない。ハエが目の縁や鼻孔を歩き、唇や性器の蜜に汚物を残していくのに、瞼を閉じることもできない。
(p534)
前々回の「バウハウト城」で現れた、眠るシャルロットとハエの場面。あの時は少女期であるのに対し、こちらは老年期。そしてハエがシャルロットの身体の中に卵を産みつけ、蛆虫が身体中からわいてくる。
それは、再生でもある。
(2024 06/16)
第16章「アディオス、ママ・カルロータ」
第1節「楽園と忘却の道」
マクシミリアンとブラシオがクエルナバカへ向かう。その馬車内で、またブラシオにいろいろ書き留めるよう指示を出すマクシミリアン。ただ書かないように伏せておいたこともあり…と、そういう手法。もちろんブラシオは例の「インク鉛筆」を舐めまくっている。
すると我がメキシコ人の友は、紫色の唇と歯に笑みを浮かべた。その時私が伏せておいたのは、彼が笑う死体にそっくりだったということ
(p542-543)
うーん、ひょっとしたら結末の何かを暗示しているのか。
なぜ皇帝や王子は大統領にできないことまで学ばねばならないか、わかるか? それは、王子たるもの、大統領と同様に秩序と平和と正義と民主主義に目を光らせながら、そのうえに、美と伝統と品格にも気を配らねばならないからだ。そう、品格だよ、ブラシオ!
(p546)
なるほど、そこがいつもよく疑問だったけれど、わかりました、マクシミリアン…というわけで、クエルナバカで蝶とか追っているのか…大統領はもちろんフアレスを意識してのことだろう。それから「ヤンキー」の大統領も。ヨーロッパの王族達は、アメリカ大陸の大統領化に対してのこうした危機感からマクシミリアンを送ったのだろうけれど(「メキシコの歴史」に出ていたシャルロットの決意もそこにあるのだろう)。
第1節の後半はセダーノというクエルナバカの庭師の証言。このセダーノの妻がコンセプシオンで、マクシミリアンの愛人の一人となる。
(2024 06/19)
第2節「フロリダのマナティ」はナポレオン3世やウジェニー皇妃らのビンゴゲーム? 世界各地の地名と生物を組み合わせていく。この小説はピン留めがテーマのようでもあり、それは当時の植民地主義それから博物学の象徴にもなっているのだが、ここでの「ピン」は宝石になっている。一方、ここで交わされる話題はシャルロットの無礼と狂気で、ということはもう既にシャルロットはヨーロッパへ戻りナポレオン3世とも会談したあとなのか…
という経過を知らせてくれるのが第3節「人生の危機」。ここは作者本人の記述とも見えるが、どうだろう。ここは、いよいよシャルロットが狂い始めていくところで、小説全体の中心ともなる場所でもある。
また、ベラクルスへ向かう道中、これもあくまで噂にすぎないが、皇妃がパソ・デル・マチョに差し掛かったところで、フアレス派ゲリラの歌声が遠くから彼女の耳に届き、共和派の著名人ビセンテ・リバ・パラシオ作とされる歌詞が-皇妃がヨーロッパへ発つと知れた瞬間からメキシコ中に口伝てで広がった-その胸に突き刺さったという。
アディオス、ママ・カルロータ
さらば、わが愛しき恋人よ…
フランス軍は去り…
皇帝も去ってゆく。
(p592-593)
これも「メキシコの歴史」(p157-158)に出てきたシャルロットに対する歌。単なるプロパガンダ歌ではなく詩情とシャルロットらへの情も盛り込まれているところから、一世紀半を越えて今も知られているのだろう。もちろん本人が聞い(たとし)てどう思うかはまた別問題。
ナポレオン3世らと会った(もちろんフランス軍撤収の件は変えられない)あとはヴァチカンへ行き法王ピウス九世と会う。こちらもシャルロットの思うような成果を上げられず、その日はシャルロットはヴァチカンから退去せず居座って、付属図書室にベッドが運び込まれ一夜を過ごしたという…ここら辺も別の説を取る学者も多く真実はわからないらしい。
いずれにせよ、最も頻繁に参照されたのは初版だったらしく、煮えたぎる鍋に肘まで腕を突っ込むシャルロット、アルベルゴ・ディ・ローマの階段を引きずられていくシャルロット、蝋燭に照らされたヴァチカンの図書室で本や手稿に囲まれてベッドで眠るシャルロットなど、グロテスクなイメージがコルティの修正を逃れて歴史に残ることになった。
(p602)
ここで述べられている本はコルティ(伝記作家らしい)の「メキシコのマクシミリアンとシャルロット」。歴史とか後世には人々が印象的だと思ったものが残っていく傾向にあるらしい。
コルティによれば、レオポルド王が所有していた有名なデューラーの版画の複製には、子羊が預言書の最初の四枚の封印を解いたところで、四騎士-飢饉、疫病、死、戦争-が人類を滅ぼすべく世界へ乗り出す様子が描かれており、それが少女時代のシャルロットの心に大きな刻印を残していたという。
(p613)
シャルロットがマクシミリアンにパリから送った手紙には、「バビロン化するヨーロッパ大陸は黙示録の四騎士を思い起こさせる」とあったらしい。この説は説得力がかなりある。
600ページ越え(でもあと250ページ、普通の本の文量はある…)
(2024 06/22)
第17章「バウハウト城」
昼も夜も、夢のためにあるわけではないのよ。夜明けの光でさえ、どうやって灰から夢が生まれてくるのか教えてはくれないし、黄昏の薄闇は、いかにして夢が燃えつきていくのか教えてはくれない。夢に時間の経過はないのよ。太陽も星も、夢のために存在するのではないし、砂時計の砂金は、いかにして夢が崩れ落ちてまた夢になるのか教えてはくれず、水時計の緩やかな涙は、いかにして夢が自分の涙、自分の笑い、自分の狂気と正気、そして自分の夢に嵌まって溺れるのか教えてはくれない。
(p624)
ママもパパも水でできている。インクだって水で、水はどんどん薄い青色になっていく。筆を止めることもなく、ペン先をインクに浸すこともなく書き進めていくうちに、私の思考の色もどんどん薄くなって、海の青から空の青へ、空の青から透明な青へと移っていく。一筋の糸のようにあらゆる言葉を集めて書き進めていくと、M字にうねる川となり、Oのようにぐるぐる回り、Zのようにジグザグになる。間も空白もなく一直線にすべてを書き進めていくと、書いたものを生きることになる。
(p626-627)
夢に時間の経過がないとすれば、あらゆるものを同時に生きることになる。下の文章の青がどんどん薄くなる、というくだりは、インク鉛筆のブラシオの紫色と好対照。また、ひょっとしたら、これは作者のなんらかの体験でもあるのではないか。先の夢の無時間性と、間がない一直線の生は、対照的にも見えるし、同じことのようにも思えてくる。「ユリシーズ」の第18挿話も思い出す。
第18章「ケレタロ」
第1節「ネズミ捕りで」はマクシミリアンこもるケレタロの包囲戦。
あるいは、新世界のドン・キホーテとでも言うべきか。ついでながら彼は、ケレタロへの道中、秘書のブラシオにサンチョ・パンサの役回りを負わせるつもりだったのか、「秘書たる者、剣ではなくペンを持て」と言って馬から下ろさせ、大人しいラバに乗り換えさせたという。
(p646-647)
今までなかった(?)のが不思議なくらいのマクシミリアン=ドン・キホーテ説。ブラシオにとってはとばっちりかも知れないが、馬からラバになったことで筆記できるようになり、またインク鉛筆を持ったのかも知れない…とここは結ぶ。
(2024 06/24)
第1節がケレタロ包囲戦の歴史的記述だとすれば、第2節「シメクス・ドメスティクス・ケレタリ」-このタイトルはマクシミリアンが「命名」したケレタロの南京虫のこと-ここではケレタロ包囲戦の後日、収監されているマクシミリアン一行のよもやま話?
「おやおや! 案ずるより産むがやすしと言うでしょう、ほらほら!」呟き声が口から漏れ、ミラマールの鴎の間で、喜び、驚き、怒りなど、ほとんどどんな意味にもなる感嘆詞〈オンブレ〉の用法を教えてくれたスペイン語教師のことを思い出して、感動にも似た喜びを覚えた。
(p661)
ここでは「おやおや」と「ほらほら」に〈オンブレ〉とルビが振ってある。にしても、これだけ長い小説だと、そのスペイン語教師のことを、読んでいるこちらも懐かしく思い出してしまうから不思議(第4章で登場)…マクシミリアン処刑後、この教師がちらりと出てくることはあるだろうか(最近読んだものだと「権力と栄光」みたいに)…
第3節「誘惑」は、第14章第2節(こちらも「誘惑」)で宙吊りになっていた(一)の続きの(二)…こちらの誘惑は、フアレス派で、マクシミリアン一行の裁判でどうやって処刑に持っていこうか文章を考えながら、隣に「誘惑」の女がいる、という構図。この小説お馴染み?の二つの声部(この場合、訴えの文章と女といちゃつく言葉)同時進行が存分に楽しめる。
(2024 06/25)
第19章「バウハウト城」
そして亡くなったメキシコ人たちの骨は彼らの起源たる塵に帰し、彼らの血は肉の糧たる大地を赤く染め、裏切りと嘘を繰り返す野蛮な歴史、勝利と英雄の美しい歴史、屈辱と挫折の悲しい歴史、何はともあれ自分たちの歴史、どれほど望んでも私のものにもあなたのものにもならなかった人々の歴史に多くのページを付け加えたのよ。
(p702)
マクシミリアンとシャルロットは、本当にメキシコ人の歴史に入ろうとしたのか。おそらくそうなのだろう。しかし…
第20章「鐘の丘」
1867年6月19日、ケレタロの鐘の丘で、マクシミリアン、ミラモン、メヒアの三人は銃殺刑に処せられた。
第1節「裏切り者のコンパドレと跪いた公妃」
「彼は不幸な事件を自らの神聖な人間像に対する裏切りという観点からしか説明できない」
(p707)
メキシコの歴史家カルロス・ペレイラの言葉。この節前半は、マクシミリアン処刑に関して「裏切り者」のレッテルを貼られているマルケスとロペスは本当に「裏切り者」なのかという考察になっている。中心となっているのは、マクシミリアンがこもっている修道院を、包囲している共和派に明け渡したロペス。コンパドレというのは彼のこと。作者デル・パソはやや本当は裏切ってはいない、という説に傾き始めている…ようだ。これに対して、マクシミリアン側から見たのが上記ペレイラの言葉。
事実、結末は最初から明らかであり、これは、舞台がメキシコだとか、メキシコが野蛮人の国だとか、そんなこととは関係なく、ヨーロッパや世界のどこの国であれ、どんな時代であれ、結末はまったく同じだったことだろう。マクシミリアンは、合法的でしかも憲法に則った政権から権力を奪った外国人であり、侵略軍の手先として違法政府のトップに据えられていたのだから。もちろんヨーロッパはこの顛末を文明的と評したりはしない。
(p722)
後半はマクシミリアン派の外人部隊ザルム・ザルム公の公妃(アメリカ人)が、マクシミリアンに恩赦をとフアレスの前に跪いたりした話。
第2節「とどめの一発のバラード」
このヴィヨン風?の節は、マクシミリアンにとどめの一発を放ったと語る一兵卒の節。それは歌とそれから地の文の語り口から、第6章第3節か第8章第2節と同じ類型に入るのだろう。ひょっとしたら同じ人物(可能性は低いと思うが)? 特に第8章第2節の語り手とは、矛盾を孕んだというか誇示しそこに可笑しみを見出せる点で共通点が多い。
こんな感じ。
そう、すべては嘘です、皆さん、私は私ではありません、誓います。私は生まれた日に生まれていません。私の母は私の母ではありません、誓います。純真な子供の頃、純真な子供ではありませんでした。そのかわり、純粋な心を失った時も純粋な心を失いませんでした。
(p733)
そして…
皆さん、六七年六月十九日の物語、お話、年代記、小説、なんでも同じことです。小唄、バラード。何が真実で、何が真実でなかったのか、どうぞ自由に判断ください、好きなように整理し直してくださって結構です
(p746)
となれば、この語り手こそ作者だ、と言いたくなる(実際のデル・パソは最初はマクシミリアン・シャルロット寄りの信条だったらしいが)。
あと、この語り手に見られるように、マクシミリアン処刑の構図を、イエス・キリストの処刑の構図に重ねる人は現地の人にも多かったという(でも、実際の処刑は見世物にはせず非公開だったらしいけれど)。
第3節「聖ウルスラの黒い目」は、マクシミリアンの遺体その他もろもろの、その後。聖ウルスラの黒い目とは、オーストリアに渡すマクシミリアンの遺体に(その場しのぎでつけた)教会にあった聖像の目。その他、遺体から切り取った毛髪や髭などを売りつけ懲役刑となった医師、自称シャルロットの息子とか、自称マクシミリアンの息子(あのコンセプシオンの子供)とか、そしてシャルロットのその後。これらも、前の節にあったように、整理し直すのは読者…
それを受けて…
第21章「バウハウト城」
人類のほぼ全員と同じく、あなたがこのすべてを少しずつ備えていたのであって、ずっと同じ一つのものではなかったこと、あなたを嫌う者にとって、あなたはずっと簒奪者、詐称者、そしてあなたを愛した、愛する私にとって、あなたはずっと犠牲者、殉教者なのよ。
(p787)
それはシャルロット自身にも当てはまるのだろう。
こうして見ていくと、最初に言われていたように、あるいは自分でそう思っているように、シャルロットはずっと狂っていた…というわけでもなさそうだ。そう自分は思い始めている。「明晰になる瞬間がたまにある」という言及もぽつぽつ出てきているのも、その直観を後押しする。もし仮に、シャルロットの狂気がずっと「振り」だったとするならば…
(2024 06/26)
第22章「我らは歴史に裁かれる」
第1節「お前に何をしてやれるだろう、ベニト?」
ベニト・フアレスが死ぬ直前(1872年)見た夢というか幻想の場面。
「歴史とは、生きる者が死んだ者に仕掛ける冗談である…」
その冗談、その素晴らしい冗談の一部はもちろん、死者には何も知りようがないという点にある。彼らについて言われていることだけでなく、彼らが言ったとされることさえも、知ることはできない。
(p796)
「歴史とは…」はまたしてもヴォルテール。この言葉もまた、作者の本音の一部が露出したものでもあるだろう。
第2節「最後のメキシコ人」
ここはそれからシャルロットの死(1927年)の間に起こったことの振り返り。その間、メキシコ帝国戦争関連者はほぼ亡くなっている。そして、このおよそ50年間の間に、世界は後戻りできないほど大きく展開した。自動車が飛行機が映画が発明され、第一次世界大戦が起こり、ヨーロッパの多くの王制が廃止され、メキシコとロシアで革命が起こった。
そんな中から、自分的に気になるトピックを。
あるイタリア人が、ベニト・フアレスの生き方に心酔し、息子の名前をベニトと名付ける。そして、その息子が、ベニト・ムッソリーニとなった(Wikipediaによる補足、ムッソリーニの名前には、フアレス含めて3人の父親が敬愛する人の名前が入っている。この父親は無神論者だったらしい)…(p808)
フランツ・ヨーゼフは、第一次世界大戦中の1916年に亡くなる。マクシミリアンの兄で68年間という在位期間はヨーロッパ中で最長クラス。彼はまた、多くの愛人を持ち、例えば60歳の時、籠職人の若い娘と関係を持ち、そして生まれたのがへレーネ・ナホスキー。後に、作曲家アルバン・ベルクの妻となる。(p811-812)
これは前に挙げたと思うけれど、第一次世界大戦でベルギーのアルベール一世(シャルロットの甥)は、ドイツに占領されそうになるものの、海辺のわずかな土地に立て籠り、ベルギーからの脱出を勧められるとベニト・フアレスの名を挙げたという。(p814-815)
そしてシャルロット自身が亡くなるのは1927年1月19日。埋葬の日は(マクシミリアンの亡骸がウィーンに到着したのと同じように)吹雪で棺に雪が積もった。ベルギー政府は、メキシコ帝国時代の義勇兵を6人見つけてシャルロットの棺を持たせたという。(p815)
(歴史記述のあるべき姿は)歴史が持ちうる真実すべてと空想が持ちうる正確さのすべてを結合することだろう。すなわち、歴史を棚上げにするのではなく、歴史を空想やアレゴリー、さらには並外れた想像力と並置することではないだろうか…
(p820)
ああ、シャルロットのために、際限なく大きな狂気を打ち立ててやることはできないものだろうか。過去、未来、そして実現しなかった時制、実現不可能な時制でシャルロットの妄想を表現して、彼女のために、そして彼女の妄想によって、過去の帝国、未来の帝国、ありえた帝国、現存する帝国を築くことはできないだろうか。一族の狂女、城の狂女、バウハウトの狂女を想像力で蘇らせ、何物にも縛られない狂女として、狂女の翼で世界と歴史、真実と優しさ、永遠と夢、憎しみと嘘、愛と死の苦しみを堪能させてやれないものだろうか。彼女は自由、そう、自由で、どこにでも現れるのに、それでいて囚われの身で、罪を負わされ、目の眩んだ蝶のように同じ一点を回り続けている。哀れなシャルロット、乏しい想像力のせいで、毎日毎日、四六時中、つかみどころのない現実に目を眩まされ、身を焼かれている。
(p824-825)
p820の文は、デル・パソが書くことで到達した理念、p824の文の前半は、この小説を書き始める原動力となったもの。そして後半(「彼女は自由」から)は、奇数章「バウハウト城」の構成原理のようなもの、ではなかろうか。
第3節は、作者デル・パソが空想する(させたかった)、マクシミリアン銃殺の儀式。第14章第1節の宮廷規則の形式で書かれている。
第23章「バウハウト城」
…の、そして小説全体の最後の文章。
私はマリー・シャルロット・アメリー・ヴィクトワール・クレマンティーヌ・レオポルディーヌ、無と空白の王女、泡と夢の君主、キメラと忘却の女王、嘘皇妃、今日訪ねて来た使者が帝国の動向を伝えてくれたわ、私をメキシコへ連れ戻すために、チャールズ・リンドバーグが鉄の鳥で大西洋を横断中なんだって。
(p854)
実際、リンドバーグの大西洋横断飛行は1927年に行われた。
解説から
解説からは一点。ラテンアメリカ文学において、カルペンティエールやマルケスのようなマジック・レアリズムは、ヨーロッパにおいては超現実のものもラテンアメリカにおいては普通に存在するとした。ここにはヨーロッパ(中心)-ラテンアメリカ(周縁)の構図がある。しかしそれをデル・パソは相対化する。ラテンアメリカから見てヨーロッパもまた驚異の超現実の世界なのだ(ヨーロッパの君主制、例で挙げられているのは、フアレスらの緻密な情報分析に対し、ナポレオン3世らの仮面舞踏会や宝石ピン刺しゲームしながらの政策決定)。そして、そのどちらにも属せなく発狂したシャルロットの世界。
(ちなみに第4章のスペイン語教師は、残念ながら最後には出てこなかった)
(読み終えたのは昨夜)
(2024 06/27)
