魏志倭人伝の7つの矛盾と「卑弥呼博多/邪馬台国大和説」
魏志倭人伝を読んでいると、あれっと思うような不審な個所があり、素直に読み進められないことがあります。
魏志倭人伝では、倭国が「遠い南の大国」に脚色されているということは、これまでのnoteで繰り返し紹介してきました(2024/3/8note参照)。簡単にいうと、倭国は美化されています。
それだけではなく、あちらの記述とこちらの記述が矛盾しているという事例がいくつか見られます。そもそも1つの歴史書(文献資料)として整合性がないのです。そういう個所に真実を探るヒントが隠されていることがあります(2025/6/26note参照)。
この記事では、「魏志倭人伝の矛盾」というテーマでくくって、矛盾する複数の記述を並べて検討します。そこから、僕の「卑弥呼博多/邪馬台国大和説」が導けることを紹介します。
※魏志倭人伝現代語訳:渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』(中公新書、2012年)
※トップイラスト:三国志(イラストAC)。魏志倭人伝は三国志の魏書第30巻の一部です。
魏志倭人伝の矛盾する記述
➊伊都国の代々の王
▶伊都国に到着する。…代々王がおり、みな女王国に統属している
▶倭国は乱れて、(国々が)互いに攻撃しあうことが何年も続き、そこで一人の女性を共に立てて王とした。名を卑弥呼という
卑弥呼は倭国乱を終息させるために共立されました。伊都国の王が女王国に統属した(従った)のは卑弥呼共立後のはずです。伊都国の(昔からの)代々の王が女王国に統属していたというのは矛盾しています。
➋2つの奴国
▶<伊都国から>東南にすすんで奴国に至るまで百里
▶女王国より北は、その戸数や道里はだいたい記載できるが、その他の旁国は遠く隔たっており、詳細にすることができない。つぎに斯馬国があり…つぎに奴国がある。これが女王の領域の尽きる所である
奴国が行程と旁国の2ヶ所に出てきます。僕は同じ国だと思います。行程の奴国には魏の使者は立ち寄っているのですから、詳細にできます。しかし、旁国は詳細にできないと述べています。同じ国が重複して出てきて、それぞれ異なる紹介をされています。
➌入れ墨と朱丹
▶(倭人の)男子は大人と子供の別なく、みな顔面と身体に入れ墨をしてい▶朱や丹をその身体に塗ることは、中国で白粉[おしろい]を用いるようなものである
入れ墨をして、朱丹を体に塗ることがあるでしょうか。確かに、弥生~古墳時代の土器や埴輪には、人物の顔に線刻や彩色を施したものがあります。線刻は入れ墨、彩色は朱丹を表した可能性があります。

右:土器の線刻(愛知県亀塚遺跡、レプリカ、歴博)(2022/11/10note参照)
しかし、線刻と彩色がいっしょに施された事例は、僕は見つけることができませんでした。入れ墨と朱丹は両立しないと思います。
➍伊都国に置いた大率
▶<九州北部から>南にすすんで投馬国に至る。水を行くこと二十日である。…南にすすんで邪馬台国に至る。女王が都を置いているところである。水を行くこと十日、陸を行くこと一月である
▶女王国より北には、特別に一人の大率[だいそつ]を置き、諸国を監察させている。…(大率は)常に伊都国を治所<とする>
女王国=邪馬台国だとすると、「女王国より北」というのは対馬国・一支国・末盧国・伊都国・奴国・不弥国・投馬国の7カ国を指すはずです。そうだとすると、九州北部より南に水行20日も離れた投馬国を、伊都国に置いた大率が監察することになってしまいます。そんなことはありえません。
➎卑弥呼の墓
▶正始八(二四七)年…(狗奴国と)互いに攻撃しあっている様子を報告させた
▶卑弥呼が死去したため、大いに冢[つか=墓地]を作った。 径は百余歩(約百四十四メートル)、殉葬する者は奴婢百余人であった
▶あらためて男王を立てたが、国中は服せず、相互に殺し合い…千余人を殺した
卑弥呼の死去は、狗奴国との戦乱中だったと思われます。死後に倭国内でも混乱が起きています。そんな時に大きな王墓をつくれたとは考えられません。なお、魏志倭人伝からは、卑弥呼の王墓は寿陵(生前につくった墓)だとは読み取れません。
➏邪馬台国を訪れていないのに卑弥呼に拝仮
▶(不弥国から)南にすすんで投馬国に至る。水を行くこと二十日である。…南にすすんで邪馬台国に至る。水を行くこと十日、陸を行くこと一月である
▶<卑弥呼は>鬼道を行い、よく人々を眩惑した。歳はすでに年配であるが、夫を持たず、男の弟がおり国の統治を助けている。王となってより以来、(卑弥呼を)見たことのある者は少ない。婢千人を自分に侍らせ、ただ一人だけ男子がおり飲食を給仕し、言辞を伝えるために出入りしている。(卑弥呼の)居る宮室は、楼観と城柵を厳しく設け、常に人々がおり武器を持って守衛している
▶正始元(二四〇)年…梯儁[ていしゅん]たちを派遣して、詔書と印綬を奉じて倭国に至らせ、倭王<卑弥呼>に拝仮[はいか]した
邪馬台国に至るまで60日かかるとしていますが、途中国の描写はありません。魏の使者は邪馬台国を訪れておらず、日数は倭人からの伝聞だと考えられます。
一方で、卑弥呼や王宮の描写は具体的です。卑弥呼には詔書と印綬(金印)を拝仮していす。「拝仮」というのは、「会って、任ずる・授ける」という意味です(2025/6/22note参照)。
魏の使者は邪馬台国を訪れていないのに、卑弥呼に会っています。
➐1万2000里と水行陸行
魏志倭人伝の最大の矛盾です。魏の使者の出発地である帯方郡※から女王国(卑弥呼の都)まで1万2000里と記述します。九州上陸の末盧国(佐賀県唐津市)までの里数を合計すると1万里(残り2000里)、伊都国(福岡県糸島市)まで1万500里(残り1500里)ですから、残り里数を考えると、女王国は九州から出ることはありません。
※帯方郡:北朝鮮の沙里院[サリウォン]またはソウルなどの説があります。
※僕は魏志倭人伝の里数は誇大で、相対的にも不正確だと考えています(短里のような一定の基準はなかった)。ただし、国の順番や女王国が伊都国から離れたところにあったのは事実だと思います。
ところが、九州北部から邪馬台国までは、船で30日(20日+10日)、歩いて1ヶ月もかかると記述しています。女王国=邪馬台国だとすると、残り1500里に60日かかることになりますが、そんな日数がかかるはずはありません。

矛盾の謎解き
どうしてこのような矛盾が記述されているのか、それぞれ以下のように考えられます。
➊代々の王
魏志倭人伝の元資料の1つである『魏略』※では、伊都国の説明に「その王は、みな女王<国>に属している」とありました。「その王」というのは、伊都国に至るまでの「対馬国・一支国・末盧国・伊都国」の4ヶ国の王を指します。
陳寿は「その王」を「(伊都国の)代々の王」に書き換えました。なぜかというと、伊都国の後に、別の元資料から、奴国・不弥国・投馬国・邪馬台国の情報を付け加えたからです。「その王」のままでは、奴国・不弥国・投馬国の王はどうなのかがわからず、文章構成がおかしくなります。
魏志倭人伝は複数の資料を参照して書かれました。その過程で矛盾する記述が生まれてしまいました。詳しくは、2025/6/26noteを参照してください。
※魏略は260年代、魏志倭人伝は280年代に成立したとされます。
➋2つの奴国/➌入れ墨・朱丹
これらも、➊と同じように、別々の元資料を合体したためだと考えられます。陳寿が別々の元資料からそのまま引用したため、入れ墨と朱丹が併記されたり、奴国が重複してしまったのだと思います。魏志倭人伝が複数の元資料を基に書かれているということが、ここからもわかります。
古代の日本列島には、入れ墨をする階層・職業・地域もあれば、朱丹を塗る階層・職業・地域もあったのでしょう。全員が入れ墨をしていたとか、朱丹を塗っていたということはないと思います。
➍大率/➎卑弥呼墓
この2つは脚色(美化)だと考えられます。倭国は統治機構が整った国であり、王墓も巨大であると、どちらも倭国を大国に見せかけています。陳寿が脚色したのではなく、元資料の段階から脚色されていた可能性があります。
※仮に大率が存在したと考える場合は、この矛盾は(➏➐のように)女王国と邪馬台国が別の国だからとも説明できます。
➏卑弥呼に拝仮/➐里数と水行陸行
この2つが最大のポイントです。この2つは、女王国(卑弥呼の都)と邪馬台国が別の国だと考えれば、謎が解けます。2025/6/26noteで紹介したとおり、戦前から主に4人の研究者によって唱えられてきました。
魏の使者は邪馬台国を訪れていませんが、女王国で卑弥呼に会っています。女王国までは1万2000里(残り1500里)ですが、邪馬台国までは長い日数がかかります。
「卑弥呼博多/邪馬台国大和説」へ
僕の「卑弥呼博多/邪馬台国大和説」は2段階からなります。
女王国(卑弥呼の都)と邪馬台国は別の国である
女王国は奴国である(邪馬台国は大和)
「➏卑弥呼に拝仮」と「➐里数と水行陸行」の矛盾から、女王国と邪馬台国は別の国だということがわかりました。「➊代々の王」の矛盾は、女王国と邪馬台国の情報を合体させたために生じたことが明らかになりました。女王国と邪馬台国の情報は元資料が別々であり、これも女王国と邪馬台国が別の国であることを裏づけます。
※2025/6/22noteでは、女王国と邪馬台国が別の国である根拠が➏➐➊という順番で紹介しました。今回の記事は、逆方向に➏➐➊から、女王国と邪馬台国が別の国であることが導けるという順番で紹介したものです。もともとの思考の順番としては今回の記事のほうが近いです。
魏志倭人伝には以下のように記述されます。
▶南にすすんで邪馬台国に至る。女王が都を置いているところである。水を行くこと十日、陸を行くこと一月である
▶帯方郡より女王国に至るまで一万二千余里である
邪馬台国の「女王が都を置いているところ」という説明は、「卑弥呼が都を置いているところ」という意味だと認識されてきました。しかし、女王国と邪馬台国の情報は元資料が別々であり、「女王国」と「女王が都を置いているところ」は無関係です。魏志倭人伝は邪馬台国が女王国だと誤解し、それが邪馬台国論争に結論が出ない原因なのだと思います。
※邪馬台国に都を置いた女王は、卑弥呼とは別の女王です。副葬品などの分析によって、弥生・古墳時代には女性の首長が少なくなかった(3~5割いた)ことがわかっています。
さらに、女王国が奴国であることは、以下のように導けます(詳しくは2025/6/28note参照)。
魏志倭人伝には女王国の国名が書かれていない。邪馬台国は女王国ではない(別の国)。よって、女王国は邪馬台国以外のすべての国が候補地となりうる
考古学的に、外交拠点として最もふさわしいのは奴国または伊都国である(中国鏡と楽浪系土器の出土が集中している)
女王国は伊都国ではない(女王国は伊都国からは離れている)
候補地は奴国に絞り込まれる
僕の「卑弥呼博多/邪馬台国大和説」はこのように導かれました。もちろん、これで決着だと断言できるわけではありませんが、従来の九州説、大和説に加えて、この説も注目されることを願っています。
(最終更新2025/11/8)
