女王国(卑弥呼の都)は奴国だった:卑弥呼九州/邪馬台国大和説【4完】
僕の「卑弥呼九州/邪馬台国大和説」は、全4回シリーズで400字×175枚超になりました。
今回【4完】が締めくくりの記事になります。4回の中で一番長いです(400字×65枚超)。僕の説の根拠と弱点に対する反論を説明しますが、結論は「まとめ」がわかりやすいと思います。
※トップ画像
「漢委奴国王」金印のモニュメント(博多大博[たいはく]通り、2023年12月撮影)。金印は57年に後漢から奴国王に贈られました。卑弥呼の時代とは離れていますが、奴国の象徴です。

これまでのnote要約
卑弥呼九州/邪馬台国大和説【1/4】の要約
邪馬台国論争は現段階では結論は出ない。1つの可能性として「卑弥呼九州/邪馬台国大和説」を提示
「女王国」(卑弥呼の都)と「邪馬台国」は別の国だった。卑弥呼は邪馬台国にはいなかった(東遷説ではない)
陳寿は女王国と邪馬台国の情報を誤って合体し、魏志倭人伝を書いた
卑弥呼九州/邪馬台国大和説【2/4】の要約
邪馬臺(台)国は「ヤマト国」と読む。邪馬臺(台)と大和は「ヤマト」という発音が一致する。「ト」がどちらも乙類である
発音の一致は、邪馬台国=大和であり、ヤマト王権と連続していることの根拠として否定はできない。邪馬台国は(消極的だが)大和と考えられる
3世紀には邪馬台国は地方の新興国だった。邪馬台国の所在地は重要ではない。重要なのは女王国(卑弥呼の都)の所在地である
卑弥呼九州/邪馬台国大和説【3/4】の要約
上野武氏(元・朝日新聞社)は女王国=伊都国とする(卑弥呼の死後、台与が大和の邪馬台国に東遷)
魏略逸文が、伊都国条で「その国(対馬国・一支国・末盧国)は、みな女王に属している」と総括していることが根拠
ただ伊都国から残り1500里の説明は苦しい
過去のnoteからの要約
纒向は卑弥呼の都ではない。卑弥呼とヤマト王権は連続していない
近畿の勢力は九州詣でをし、九州に窓口になってもらって大陸と交流・交易していた
箸墓古墳は卑弥呼の墓ではない。箸墓は300年前後(記事2本)
魏志倭人伝では西晋王朝への忖度から、倭国は「遠い南の大国」に脚色された
「基本資料群」と「その他資料」
【3/4】の記事で、「女王国」(卑弥呼の都)と「邪馬台国」が別の国だとする、これまでの4人の研究者の説を紹介しました。
久米雅雄さん、大和[おおわ]岩雄さん、上野武さんの東遷説は、卑弥呼の女王国と邪馬台国は時代が異なるとしています。大和(ヤマト)の邪馬台国は、台与が東遷した後の国だとするわけです。
僕は橋本増吉さんと同じで、女王国と邪馬台国は同じ時代に並存した国だとします。200年前後に倭国乱が終息し、九州北部の緩やかな連合体である、新たな倭国が成立、倭国の王都が女王国です。邪馬台国は大和ですが、3世紀前半はまだ初期の形成段階で、地方の新興国でした。
「卑弥呼九州/邪馬台国大和説」による、3世紀の「倭国」「女王国」「邪馬台国」などの関係を図にすると、下図のようなイメージです。
【1/4】からの再掲

女王国の情報は、倭国を訪れた魏の使者による報告書、帯方郡、洛陽を訪れた倭国の使者からのヒアリング記録など、元資料が豊富にありました(基本資料群)。
魏志倭人伝には、邪馬台国や水行陸行の途中国の具体的な描写がありません。魏の使者は邪馬台国を訪れていないことを示します。ただ、邪馬台国の情報も陳寿が魏志倭人伝を書く280年代にまでには、中国に伝わっていました。邪馬台国の元資料は、鏡工房や交易商人(倭人を含む)からの伝聞情報だったのだと思います(その他資料)。
【1/4】からの再掲

陳寿は女王国と邪馬台国が同じ国だと誤解し、魏志倭人伝で合体してしまいました。それが邪馬台国論争が決着しない根本原因なのだと思います。
この記事の説明の前に
【前提1】
【1/4】の記事の冒頭でも述べたとおり、邪馬台国論争は現段階では結論は出ないというのが僕の根本にある意見です。文献学でも考古学でも決定的証拠はありません。どの説にも何らかの根拠があり、同じ数だけ反論があります。
【前提2】
繰り返しですが、魏志倭人伝では西晋王朝への忖度から、倭国は「遠い南の大国」に脚色されました。僕は、魏志倭人伝の以下のような記述は信頼できないと考えています(2024/3/8note参照)。
里数・日数・戸数・卑弥呼墓の記述は誇大【遠い大国に見せかけた】
南方系の風習・自然環境などの描写は不自然【南の国に見せかけた】
大率[だいそつ]・大倭[だいわ]などの統治機構は整備されていなかった【大国に見せかけた】
【前提3】
対馬国から奴国までは通説どおりと考えます。魏志倭人伝に記述された国の順番どおりに、発音が類似した地名が並んでいて、偶然とは考えられません。それぞれ有力な遺跡もあります。

【前提4】
僕は、時代区分と実年代は、以下のように単純化してとらえています(通説とは異なります)。卑弥呼の時代は弥生終末期前半(3世紀前半)です。古墳時代は箸墓古墳(年代は300年前後)をもって始まったと定義します。
弥生後期:1~2世紀
弥生終末期(土器の庄内式期):3世紀
古墳前期(布留式期):4世紀
古墳中期(須恵器):5世紀
詳しい年表をこの記事の最後に掲載しています。
卑弥呼は博多の女王、難升米は男弟かつ奴国王だった
僕は、女王国(卑弥呼の都)は「奴国」だったと考えています。
遺跡でいうと比恵・那珂[ひえ・なか]遺跡(福岡市博多区)です(下の地図の青丸)。卑弥呼は博多の女王でした。
内陸(南)寄りの須玖岡本[すぐ・おかもと]遺跡(春日市)や海岸寄りの博多遺跡群、さらに伊都国との中間にある西新町[にしじんまち]遺跡(福岡市早良[さわら]区)まで含めて一体で考えていいと思います。

※2つの地域名をつなげた遺跡名は「・」が入ったり入らなかったりいろいろです。「比恵・那珂」「三雲・井原」「唐古・鍵」は入りますが、「須玖岡本」「吉武高木」「池上曽根」は入りません。
卑弥呼の使者として帯方郡と洛陽を訪れた難升米は「儺升米」[な・しめ]であり、卑弥呼の男弟かつ奴国王です。2世紀末に九州域内で起きた倭国乱は、奴国王の姉である卑弥呼を共立することで終息したのだと思います。奴国にはそれだけ権威があったからです。
奴国が後漢の時代から一貫して、倭国(九州北部の緩やかな連合体)の王都だったというのが僕の説です。
僕の「卑弥呼九州/邪馬台国大和説」は、女王国(卑弥呼の都)の所在地を具体的に語る時は「卑弥呼博多/邪馬台国大和説」と呼ぶことにします。
「女王国(卑弥呼の都)=奴国」は、一見突拍子もない説だと思われるかもしれませんが、魏志倭人伝からも否定はできない(説明可能)と考えています。
根拠は追って説明しますが、これも100%正しいと言える根拠があるわけではありません。「従来の九州説や大和説に加えてこんな説も考えられる」「こんな説にも光を当てよう」というのが、今回の4回シリーズの目的です。
※ちなみに、邪馬台国を博多湾沿岸とする説は、2010年の福岡県のアンケート調査で2位の人気のある説になっています(西谷正「邪馬台国最新事情」(石油技術協会誌、2010年))(2023/9/27note参照)。僕の説とは根拠は全く異なります。
女王国=奴国:考古学的な根拠
まず、考古学的な根拠から説明します。
1⃣大陸や日本列島各地との交流・交易の痕跡が濃い
2⃣青銅器・鉄器生産の先進地域だった
1⃣大陸や日本列島各地との交流・交易の痕跡が濃い
卑弥呼の実績は2つあります。倭国乱終息のために共立されたこと、魏に遣使したことです。魏からも使者が訪れています。女王国(卑弥呼の都)には、大陸や日本列島各地との交流・交易の痕跡がたくさん残っているはずです。人々の交流・交易をよく表すのが鏡と土器です。
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